第218話 <東の大陸 ー雪山を越えてー(ニロネリア)>
吹きすさぶ雪が視界を妨げる。
「寒い……」
麓で購入した冬用の身支度であったが、高山を越えるには少々役不足であった。ニロネリアは凍傷にかからぬように残り少ない魔力を循環させていた。常に魔力を消費し続けるので魔力量は回復しない。
「足元にお気を付けください」
大きな荷物を背負って寡黙に前を歩くノンムマートはニロネリアを気づかって時折振り返る。その踏んだ足跡だけが道になる。時折膝まで沈む積雪は想像以上に歩きにくい。
それでも今の時期はまだマシな方らしい。膝を越える雪を踏み越えて山を越えるのはほぼ不可能だろう。
「ニロネリア様、この尾根を越えれば、少しは坂が緩やかになると思われます。御辛抱ください。尾根を越えたあたりで休憩いたしましょう」
ノンムマートの声は風で途切れ途切れになる。
「わ、わかった」
正面からの冷い風で時折息が出来なくなる。
尾根を越えた二人は木の根元にできた吹き溜まりの陰の雪洞に潜り込んだ。
「どうぞ。ニロネリア様」
ノンムマートが淹れたスープはすぐに熱を失い始める。
それでも一口飲んだだけで活力がよみがえってくる。
「ありがとう、ノンムマート。お前には苦労をかけっ放しですね。いずれこの恩は返すわ」
「恩などと、我らはニロネリア様の眷属なのですから当たり前です」
ノンムマートはそう言って地図を広げた。
「現在地はこの辺りと思われます。雪山を抜けるにはあと3回は山中で夜を明かす必要がございます。簡易テントの法具もちょうど3回分ですので、何とか持つでしょう」
ばさばさと風が枝を揺らす。
遠くで何か唸り声のようなものが聞こえた。
ノンムマートはすぐに雪洞から顔を覗かせて様子を伺い、戻ると獣避けの煙玉を燃やした。
「何だったの? 獣か?」
「ええ、随分前から気づいてはいたのですが、我々を追ってきているようです。麓の村で聞いた危険な魔獣です」
「魔獣など、私の魔力が十分であれば、何十匹いようと問題ないのだけど。今はこの環境での生命維持のために魔力を消費しているからできれば会いたくないわね」
「そうですね。この煙は奴らの感覚を狂わせる効果があるので、これで遠ざかってくれればよいのですが」
二人は十分に休息すると再び歩きだした。
ーーーーーーーーーー
二日が過ぎ、3つめの尾根を越え、ようやく西側へ下る斜面が見えた。
「魔王国に戻れば、この過酷なリナルべ山脈越えのルートを懐かしく思い出すこともあるのでしょうね」
ニロネリアは白い息を吐いた。
「そうでございます。今日中に雪山は終わります。そうすれば緑の高原が……」
振り返ったノンムマートの目が大きく開いた。
「え?」
「ニロネリア様!」
とっさにニロネリアを突き飛ばしたノンムマートの血飛沫が雪原を赤く染めた。
ゴブォオ!
黒い大きな毛の塊のような魔獣が吠えた。
その両手の長い爪から血が滴る。
「ニ、ニロネリア様、お逃げください……」
一撃で腹を裂かれたノンムマートが息だえる。
「ノンムマート! く、おのれ!」
ニロネリアがその手の平を突きだすと、火矢弾を放った。
同時多発の弾が厚い毛に吸い込まれた。
片目から血を流した魔獣が残った眼でじろりとニロネリアを見た。
「き、効いていないというの。いや、これは私の魔力が足りないせいか……」
次の瞬間、猛ダッシュした魔獣がニロネリアを跳ね飛ばした。
空中に吹き飛ばされたニロネリアのフードが宙に舞い、長い髪がばらけた。
激しく雪原に体を叩きつけられたニロネリアは身動きできない。まるで身体中の骨が砕かれたようだ。
「ふふふ……悪事の限りを尽くした報いがこれか……」
唇が熱い、血が流れている。
青空を見上げるニロネリアの上に大きな影が落ちた。
ーーーーーーーーーー
カチャカチャと皿の当たる音。
しゅうしゅうと蒸気の上がる音が聞こえてくる。
その湿度は少し蒸し暑いくらいだ。
ニロネリアは目を開いた。
手を見ると包帯が巻いてある。
「起きたか?」
ふいに声がして、背の低い男が入ってきた。
「!」
ニロネリアは身を起こそうとするが、痛みで呻いてしまう。
「無理をするな。魔獣に襲われたのだ。あちこち骨が折れておる。しばらくは寝ておれ」
「ここは?」
辺りを見渡すと丸太を組んで造られた家の中のようだ。ベッドの脇の窓の外には緑の草原が見える。
「ここは、ゲイル高原のわしらインムトの村じゃ。秘境の地じゃからな。どこの国にも属していないが東に行けばモロカ領主国の国境地帯がある」
インムト族は人族だが小柄な人々で、大人でも普通の人族の肩くらいの身長までしか成長しない少数民族だ。
「あなたは?」
「わしか? わしはハドック。息子のサパと二人暮らしじゃ」
「そうだ! 私の連れは? ノンムマートはどこです?」
ニロネリアはあの惨劇を思い出して思わず叫んだ。
「あの人は既に事切れていた。わしらの墓地に丁重に埋葬してある。傷が治ったら案内しょう」
「そうですか」
ニロネリアは天井を見上げた。
たかが眷属ではないか。眷属など使い捨て……たかが……。
不思議と悲しさは無い、無いはずなのだが、なぜか涙が流れ落ちる。
「もう少し休みなされ。後で食事を運ばせる」
部屋の入口に立ち、ニロネリアの様子を見ていたハドックはそう言って奥に消えた。
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