第184話 第一次スーゴ高原の戦い4
防塁の真下へと迫ったゲロロンダの軍も窮地に陥っていた。
無数の
しかも、仲間の死体を踏み越えてなんとか防塁に近づいた兵はそこで絶句して立ち止まり、次々と狙撃兵の矢の餌食になった。
遠目に見ていたよりも崖が高いのである。空堀の手前に作られた土塁のせいで崖が低く見えていたのだ。これを梯子もなくよじ登るのは困難だろう。思わず立ち止まると、今度は後ろから押されて堀に落ちる。
堀に落ちた兵は戻るに戻れず、進むに進めない。
ゲロロンダ自身も堀に馬が落ち、部下の助けでやっと這い出たばかりだった。
その目に砦の前面で燃えさかる村と
風にあおられた炎は先陣の部隊を焼きながら勢いを増してゲ・ボンダの主力本隊を巻き込んでいく。その混乱の中、さらに側面からの奇襲攻撃を受け、本陣すら既に陣形を成していない。総崩れだ。
「ゲロロンダ様、ここは一旦、退却を!」
肩に矢が突き刺さった側近の生き残りが苦しそうに息をしながら言った。
「うぬぬ……」
ゲロロンダは顔を歪める。
「仕方がない。撤退の
戦場に銅鑼の音が響きわたる。
だが、突出し過ぎたゲロロンダ軍の兵にとってそれはあまりに遅い判断だった。退却する背に容赦なく矢が降り注ぐ。
ゲ・ボンダの本陣もようやくのろのろと後退を開始していた。
初戦に続いて手痛い敗北が確定したのである。
「ーーーーやりました! 退却していきますぞ!」
尻尾飾りを派手に揺らすためなのか、左右に尻を振りながらビヅドが興奮して叫んだ。雑貨屋の親父が喜んで跳ねまわるその姿、目を覆いたくなる光景だ。
「まだです。
ジャクがキッと厳しい目をした。
ーーーーーーーーーー
小高い岩山の上から東の空を見ている目がある。
「動いたか……」
遥か彼方の木々の向こうから黒い煙が立ち昇り始めたのが見える。
「そろそろ頃合いだ。準備は良いか? ンダ・ナッス」
武器屋の親父ブルガッタ・バドスは振り返ると、肉屋の跡取りンダ・ナッス声をかけた。
「あれを見てよ、ハベロ嬢の薬はうまく効いている。後はこの縄を切るだけさ」と言って、ンダ・ナッスはニカッと笑った。
「でもこれだけ居ると流石に怖いわね? あんたは慣れているかもしれないけど」
崖の下を覗き込んでいた薬屋の娘ハベロがンダ・ナッスを見上げた。真下の谷間にザワザワと蠢く無数の気配がする。生臭い獣臭が噴き上がってこの岩場まで流れてくる。
ここは大森林の中にある岩場である。ちょうど岩山が大きく抉りこんだ地形になっている。ジャクの指示で肉屋のンダが大量の廃棄肉をそこに持ち込んだのは一週間ほど前だ。
腐肉を求めて何十匹という魔獣ウンバスケや食獣植物が集まってきたが、今やその食料も尽きかけている。
共食いが始まる寸前だが、魔獣たちは外に出る事ができない。
ブルガッタたちが岩場の入り口を閉鎖しているからである。
ここは魔獣を集めて一網打尽にする昔からの罠場である。食肉組合の施設で、希少だが危険な魔獣を狩ってその肉や骨等を資源にしてきたのだ。
肉屋の親父やその息子だからこそその存在を知っており、自由に利用できるのである。
ブルガッタがデッケ・サーカの街に居残っていた理由の一つがこのジャク将軍からの密命なのである。新王国軍の者でも彼らがここで罠を張っていることを知っている者は少ない。
「草原への誘導は大丈夫か? 間違った方向に暴走したら大変なことになるぞ」
ブルガッタがハベロ嬢を見る。
「大丈夫ですよ。リイカが平原まで肉の匂いがする薬草を配置してますから、間違いなく獣たちは草原に向かいます。……それで確認ですが、死んだウンバスケの角は私の所で売って良いんですよね? 後から権利を主張されたら儲けが無いんですけど?」
「大丈夫、心配するな。それはジャクの大将が保証しているし、俺を誰だと思っている?」
ブルガッタが睨んだ。
「それなら良いですけどね。本当に貴重な薬をたくさん使っているんですからね?」
ハベロは手帳を取り出し、ニヤニヤしながら今回の儲けを計算し始めた。
「商魂逞しい娘だな、まさに商人の鏡だ」
「旦那、旦那! ほら、煙の色が変わってきましたよ!」
ンダ・ナッスが叫んだ。
その時、遠くの森の端からヒュウウーーと信号弾が打ち上げられた。リイカからの信号弾、準備完了の合図だ。
「よし、扉を開けるぞ! ハベロ、ンダ、準備はいいか?」
「いつでもいいわよ」
「こっちも!」
「よし、縄を切るぞ!」
そう言うとブルガッタが鉈を思いっきり振り落とした。
「うおっし、行っけぇえええ!」
ンダ・ナッスが声を張り上げ、岩の上で跳ねた。
ーーーーーーーーーー
防塁が見えない位置まで後退したものの、本陣では未だに混乱が続いていた。負傷者が次々運ばれてくるが、失った兵、物資、その被害は余りにも大きい。
「これって、大丈夫なのでしょうか?」
「いや、これはだいぶまずいだろ?」
若い女性の声にテントの端の切れ目から外を盗み見ていた従軍記者が振り返った。
ここ本陣内の専用テントには、”帝国の偉大な戦いとその勝利” を国中に知らしめる目的で半ば強引に招かれた従軍記者が隔離されていた。
しかし、これは不味い状況だった。
思いがけない敗戦続きで、記者を自由にしておけない事態になっているのだ。
外で何が起きているか知らされないまま、ただならぬ事態が起きているという雰囲気だけが伝わってくる。
代わる代わる外を盗み見るベテランの記者たちも負傷した兵の多さに不安の色を隠せないでいる。
「我々の監視もできないくらい事態は切迫してきたようだ。この混乱に乗じて今すぐここを逃げよう。最悪、この敗戦を隠すため我々の口を塞ぐ可能性だってあるぞ」
「そうだな、ここは危険だ」
「わかった、逃げるなら早い方がいい」
記者たちはテントの中央に集まってただちに逃亡するための行動を開始した。三人一組になって東西にある馬の繋がれた柵へ次々と走り出した。
ーーーー焦げくさい匂いを振りまきながらゲ・ボンダは暗い顔をしてイスに戻ると、ドカリと座った。
撤退する本陣の最後尾で指揮していた有力貴族の多くが戻っていない。王族のゲボロバタとゲロロンダの生死すら不明である。
後陣に控えていたゲバルッタの軍が落ちついて対処したため、敗走した本陣の軍も潰走せずに何とかここで踏みとどまったというのが現状であった。
広いテントにゲバルッタだけが控えている。今朝の軍議に集まっていた将の姿は一人も無い。誰も戻らないのだ。
「ゲ・ボンダ様、今日の戦いで兵の半数が傷つきました」
あえて死者の数を言わないのは余りにゲ・ボンダが落ち込んでいるからだ。
「ここは、一旦ひいて軍を再編すべきかと。あれほど強固な防塁を築いているとは知らなかった、我々の情報不足であります。今ならばまだ帝国の威信を保って撤退可能です。明日も無理強いを行えば負傷者の数はさらに倍になるでしょう。ご決断を」
「うむ。王族が
「はい、あの防塁を破るには他方面からの奇襲も必要でしょう。西か或いは東か、別ルートから新王国を揺さぶる必要があります」
「ゲバルッタ、お前には何か考えがあるのだな?」
「はい。……それには準備の期間が必要です。一旦帝都ダ・アウロゼに戻り、一天衆とも協議をしなければなりませんが……」
その時、兵舎の外がにわかに騒がしくなった。
「今度は何事だ!」
ゲバルッタが天幕から顔を出すと、血相を変えた爺やが駆けてきた。
「若、大変でございます。大森林から魔獣の集団暴走が確認されました。魔獣は真っすぐこの本陣方向に向かってきております。大至急避難ください!」
そう叫ぶ背後から悲鳴や怒号が迫って来る。
「何だと!」
呆然と立ちすくむゲバルッタの目に巨大な魔獣ウンバスケの群れが映った。吹き飛ばされた兵が次々と宙に舞う。
血に塗れたその大顎が迫る。
飢えた魔獣たちにとって、疲弊しきった兵の集まった本陣は格好の餌場だ。
逃げ惑う兵はもはや兵とは呼べない状態である。
既に本陣を守る気力のある兵はいない。
「逃げるのだ!」
「全軍! 撤退ーーっ!」
ここに帝国軍は見るも無残な
ーーーーーーーーーー
こうして第一次スーゴ高原の戦いはわずか2日で帝国軍の大敗に終わったのである。
従軍した大貴族はほとんどが戦死し、生き残った召集兵の多くが逃亡した。
逃亡した兵は重罪に処せられるのを恐れ、大森林に逃げ込む者や、新王国に投降する者で溢れたのである。
スーゴ高原の戦場に討伐軍は壊滅し、帝都ダ・アウロゼに生きて辿りついた王族はゲ・ボンダとゲロロンダの二人だけであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます