第175話 ドリスとボザルト

 「ルップルップ様―っ!」

 その声が谷あいに反響し、いつまでも響き続ける。


 「やはりここにはいらっしゃらないのだな……」


 誰も呼びかけに応じず、帰ってくるのは自分の声だけである。

 槍を手にした傷だらけの一匹の野族はしょんぼりとうな垂れた。


 「しかも、族長一族の隠し谷までもがこれほど破壊されているとは、一体何が起きたのであろうか?」

 野族は辺りを見渡しながら歩く。

 美しかった谷は見る影もなく、荒々しい破壊の爪痕が残るばかりだ。


 やがて目の前に開けたその大きな空間に彼は目を細めた。

 隠し谷の最深部に位置するそこは禁忌の聖地である。その神聖な広場の大地は閃緑色に光り輝く美しい苔で覆われていたはずだった。しかし、それすらも今は無くなり、荒々しい剥き出しの岩盤が広がっていた。

 その景色に苔が無くなっただけではない違和感を覚え、その足が止まった。


 「あれは……まさか……」

 族長を警護して共に何度かここを訪れている。その度に供物を捧げていた石台が無い。それどころか、その奥にあったはずの石の祠が粉々に砕けている。


 あの祠には、けして触れてはいけない“世界を滅ぼす者”が封じられていたはずだ。まさかこの残状は、あれが復活したというのではないのか。そんな不安を覚え、石祠の破片を拾い上げて周りを見回す。


 脳裏にルップルップが邪神の手にかかって悲鳴を上げる姿が浮かぶ。


 「いやいや、あの方に限ってそのような事はあるわけがない。なにを不吉な事を考えるのだ。我らが守るべきお方だぞ」



 「ーーーーねえ、さっきから何をぶつぶつ言っているの?」

 ふいに後ろから声がした。

 「!」

 野族はぎょっとして振り返り、その槍を構えた。


 崖の遥か上から落下して地面に突き刺さったと思われる岩の上から、軽やかにそいつは降り立った。


 「誰だ!」

 目の前にいるのは、人間、いや魔族の少女か?

 野族には人間種の美醜など判別がつかないが、どことなくルップルップに似た顔立ちである。野族は警戒して、その髭を立て油断なく槍を構えた。


 「誰なのだ! お前は! ここは神聖な場所、勝手に入って良い場所ではないのだぞ!」


 この場所は野族の族長一族に伝わる秘密の場所である。そう簡単によそ者が侵入できる場所ではない。

 ここに魔族の娘が一人でいるのはあまりにも不自然だ。追手か? いや違う。こんな奴は見たことが無い。ルップルップを追う亜族長一族の息のかかった者とも思えない。


 「私? 私はドリスよ。そう呼ばれている者。そう言う貴方は何者なの? 人間なの?」

 少女は無邪気に答えた。その態度には何の警戒心もない。

 ドリスは近づいてきて、少し身を屈めると、おもしろそうに野族の風体を左右から眺め始めた。


 「じろじろ見るでない。我らは野族だ。我はその族長一族に属する者、槍兵にして族長一族と司祭を守る栄誉ある兵なのだ!」

 野族は槍を構えて大袈裟にポーズを決めた。


 その少女は、急に目の前に突き出された鋭く尖った槍先に目を丸くしたが、その表情にまったく怯えはない。


 「それだけなの?」

 「それだけだ!」


 「ふーん。私がまず初めに聞きたいのは貴方の名前なんだけどな?」


 「な、名前だと! それは見知らぬ者に容易く教えるようなものではないのだ」

 野族はぷぷんと鼻先を鳴らした。


 野族が他族と交渉する時は集団対集団として話をする。己が属する集団が全てであり、個人として話をする事は無い。だから初対面で他族の者に名前を聞かれても困るのだ。


 「ふーん、そうか。でも、ボザルト。貴方の名前は結構良いと思うんだけどな」


 「!」

 ネズミが全身の毛を逆立てた。びっくりしたらしい。丸いクルクルの目が泳いでいる。


 「何を驚いているの? 私が聞いたから、貴方が自分の名前を思い浮かべたんじゃないの」


 「あ、頭の中を、我の考えを読んだというのか?」


 「ええ? そんなの当たり前じゃないの? 野族のボザルト、栄えある族長一族の縁辺に属する者、主人のルップルップを慕っている。得意なのは、子どもの頃から腕を磨いた槍術。食べ物では赤根実が大好物。嫌いなものは百足。それに幼馴染みの雌のベラナもちょっと苦手」


 「あ…………」


 その少女の声が直接頭の中に響いてくるのだとようやく気付く。そう言えばこの少女は野族語を話していない。音として聞こえているのは共通語なのだ。


 「本当に心を読めるのだな。ならば我が今何を考えているかわかるはずだ」

 ボザルトは睨んでぴくぴくと髭を動かした。


 「ああ、そうなの? あまり人に話したくないことをぺらぺら話す者は嫌われると言いたいのね。普通の人は考えを読めないの? わかった。今度からは気をつけることにするよ」


 「お前は本当に何者なのだ? どうして、ここに居る? ここは立ち入り禁止の神聖な場所なのだぞ」


 「私? だから私はドリスよ。それ以外の何者でもないし、何者なのかもわからない。ーーーー眠っていた私は急に起こされてこの場所に連れてこられた。そして、そこに封印されていたあいつを目覚めさせただけよ」


 その最後の言葉にボザルトはザワワッと全身の毛を立てた。


 「なんだと! 目覚めさせただと! 封印が解けたのか? そやつは世界を滅ぼす者なのだぞ! ここにいるのか?」

 槍を構えて辺りをきょろきょろと見渡すが、異常は見当たらない。


 「森や泉で遊んでから戻ってきたら誰もいなかったわ」


 「誰もだと? 世界を滅ぼす者は確かに復活したのだな! そやつはどこにいるのだ?」

 野族は慌てて崩れた岩に登ってきょろきょろと辺りを見渡す。


 「貴方、面白いのね。馬鹿な魔族と違う。野性動物って感じで生命力が強いわ」


 「それよりもだ、世界を滅ぼす者はどこへ行った? あれはかつて我々野族の英雄が封じた化け物だぞ、野族の兵ならば、なんとしてもあれを再び封じなければならないのだ!」

 ボザルトは岩から下りてくると、丸い目を大きくした。


 くすっとドリスが笑った。


 本気でそう思っているとわかったからだ。

 アレを封じるなど鼠のような野族にはとても出来るとは思えない。かつて野族の英雄が封印したと信じていることも面白い。


 ドリスは目覚めて初めて面白いと思った自分に気づいた。

 そう言えば笑ったのもこれが初めてかもしれない。


 ドリスは落ちつきなくうろうろしているボザルトを見つめた。


 「ねえ、ボザルト、貴方は行く場所がないのね? 前の御主人、ええとルップルップも行方不明だし。どうかしら、私と一緒に行かない? “世界を滅ぼす者”が見つかるかもしれないし、ルップルップにもどこかで会えるかもよ」


 ボザルトは短い髭をひくひくと動かした。


 「傭兵ということか? まさか、我を眷属や奴隷にして連れて行く気ではあるまいな?」


 「何それ? 違うわ、仲間とかいう言葉のやつよ」


 「仲間だと? 我は野族だぞ。魔族が野族を仲間として扱うなど聞いたことがないぞ」

 「だから、面白くないかな?」

 ドリスはいたずらっ子のように笑みを浮かべる。


 しばらく困ったような顔をしていたボザルトは意を決したように尻尾を立てた。


 「わかった。ここにはルップルップ様は来なかったようだ。途中で何かあったに違いない。探すにしても、人族や魔族の村には野族一人では入られないからな、お前の仲間という奴になってやる。つまり我とお前で新しい集団を作ることになるのだな?」


 ニカっとドリスは再び笑った。


 「じゃあ、今からお前は私の仲間だ。ドリスの仲間、野族一の槍の勇者ボザルトだ。さあ、ボザルト、行こうよ」


 勇者だと? そんな言葉が一体どこから出てきたのだろう。さっき世界を滅ぼす者を封じた英雄の話をしたから、それにあやかったのだろうか。


 「待て待て、どこに向かうのだ? 目的は? ルップルップ様がどこに居るのか、何かあてはあるのか?」


 「私は私が何者なのか自分を知りたいだけよ。その手掛かりはこれだけよ」

 そう言ってドリスは木の杖を見せた。

 今の今まで素手だったはずだ。一体どこに隠していたというのか、ボザルトは目を丸くした。


 ドリスの杖の頭には絡み合う蛇の彫刻がなされている。


 「これが大事な紋章だと私の頭の中の何かが知っている。でもこれが何かわからない。これが分かれば私が何者なのか、きっと手掛かりになるはずよ」


 「ドリスは、心を読めるのに記憶が無いのか?」

 ボザルトは驚いて、ドリスのそのあどけない顔を見上げた。


 「そうそう。そうらしいわ」」

 ドリスはうなずいた。


 「私にはこの世界のすべてが初めてなの! さあ、二人で初めての世界を見に行きましょうよ」

 ドリスはそう言うと、軽やかな足取りで出口に向かう。


 「ドリスは面白い奴だ。だがな……」


 ボザルトはドリスの背を見つめ、尻尾を一振りすると駆けだし、その手をぐっと掴んだ。


 「どうしたの?」

 「ドリス、そっちは我の追っ手が入口を探しておる! ここは神聖な隠し谷、奴らにこの場所を知られるのは我の信義に反する。奥に反対側の峡谷に抜ける道がある。こっちだ、我について来るのだ」


 そう言うとボザルトは驚いた表情のドリスの手をぐいぐいと引いて、力強く歩き出した。

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