第171話 <<メーロゼ亭襲撃 ー東の大陸 サティナ姫ー>>

 砂漠の夜は涼しい。


 静謐せいひつな月明かりに浮かぶ真夜中の庭園の美しい花が、不意に不規則に揺れ動いたかと思うと、ポキリ、ポキリ……とまるで何者かに踏まれているかのように左右に折れ始めた。


 姿は見えない。

 ただ、庭園の花壇にひとりでに道が出来て行く。やかて花壇が途切れると何者かの気配はまったくわからなくなった。


 辺りは虫の声もしない。

 不気味なほどの静寂の中、わずかに屋根瓦が妙なきしみ音を立てた。


 邸宅の二階の窓辺に月明かりが差し込み、そこにベッドで眠っている人の姿が見える。


 屋根瓦が微かに軋んだ。


 回廊を灯りが進んでくる。

 蝋燭を手にした女の使用人が歩いている。

 腰から下げていた鍵束で鍵を開け、大きな扉を押し開けて中に入った。


 刹那、風が吹き込んだような気がして使用人は振り返るが何もない。


 「?」

 女は首をかしげて自分の部屋のある奥の通路に進んだ。


 正面の階段を上ると、二階の通路には所々に魔法具のランプが灯っているが、既に就寝時間を過ぎているためか、その光量は控えめに抑えられている。

 長い廊下のちょうど中央付近に豪奢ごうしゃな彫刻の施された扉があった。一流の細工師の手による上品なデザインから、その部屋の主がこの屋敷で特別な身分の者だということが分かる。


 その扉の鍵穴がキリキリと音を立てた。

 やがてその耳障りな音が止まると微かな金属音がして、ゆっくりと扉が開いた。部屋の中から不安を打ち消す効能があると信じられている濃厚で甘いお香の匂いがふわりと漂い出した。


 窓辺の大きなベッドの上に恰幅の良い男が眠っている。


 「見つけた、バドンズ・メーロゼ……」

 何も無い空間から声が響いたかと思うと、邪悪な一つ目が描かれた小さな紙片が灰になりながら天井から舞い降りた。

 標的を見つけるまで、その目として遠視し誘導する呪符はもう用済みだ。あとは手順通り命令を実行するだろう。

 闇の気配はその場から消えた。


 その瞬間、ザッと空気が揺らいだかと思うと、音もなくドアが閉まった。

 直後、バドンズの首に殺意の込められた爪が振り下ろされる。


 その首を切り落とす! それだけの鋭さと力がある。何もない空間から突如として生えた鋭利な爪だ。その一撃にはまったく躊躇は見られない。


 ギリリリッ……

 刹那、気味の悪い金属を削る音が響いた。


 ガアッ! と姿の見えない獣が吠えた。

 ベッドの中には金属の盾が置かれ、バドンズを写した視紙がそれに貼られていたのだ。


 「暗殺は失敗ですな!」

 闇の中から声がした。

 獣の気配が動く。そこにメセバの剣が横なぎに閃く。

 パッと何もない空間から緑色の血飛沫があがった。


 一瞬見えた魔獣の姿。

 「キメラですか!」

 メセバはバドンズ・メーロゼの有能な側近であるが、同時にボディガードとしても剣の腕は一流である。


 ババババ…………と壁や天井が鳴った。

 血が点々と振りまかれる。


 バンと扉が大きく開いて揺れた。

 「旦那様を狙った事を後悔させてやりますぞ!」

 メセバは後を追って廊下に出ると笛を吹いた。


 長い廊下の魔道具の灯りが強く発光した。

 一階から屋敷の者たちが駆けつけてくる足音がする。


 「メセバ! 何があったの!」

 刺突剣を手にしたミラティリアたちが駆けあがってきた。みな手に剣や棍棒を持っている。反対側の階段からはサクが姿を見せた。


 「暗殺者が送り込んだ魔獣でございます。キメラのようです。透明化しておりますが、傷を負わせました。この廊下のどこかに潜んでおります」

 メセバは油断なく廊下を見回す。


 ポタリ……と緑色の滴が天井から落ちた。

 「そっちです! サク殿!」


 メセバの叫びよりも早く、もはや気配を隠そうともしないで何かが天井を走り、サク目がけて飛びかかった。


 「甘いのよ!」

 サクが曲剣で弧を描くように旋回し、何か硬いもの同士が激しくぶつかる音がした。

 瞬時に二度、三度と繰り出された見えざる敵の攻撃を巧みに剣で弾く。サクの目には敵の動きが見えているかのようだ。勘だけではああも攻撃を受け流すことはできないだろう。


 「そっちに逃げました!」

 サクが叫ぶ。

 そいつはサクを強敵だと判断したのだろう。敵は身を翻し、向かってきた。

 「まかせて!」

 メセバが咄嗟に剣を構えた横を、ミラティリアが猛然と突進した。


 「お嬢様、危険ですぞ!」

 「大丈夫、わかっています!」

 ミラティリアは叫ぶと連撃を繰り出す。敵の位置を知るには、もはや隠せなくなっている足音だけで十分だ。


 何も無い空間にぼつぼつと緑色の点が生じ、次の瞬間に血飛沫が舞った。そいつはミラティリアの刺突剣を喰らって床に落ち、這いずり回りながら逃げ出した。廊下に血の跡がべっとりとつくので奴の位置はすぐ分かる。


 「トドメはまだです! サク! そっちです!」

 ミラティリアが追う。サクが向かう。


 突然、激しい音がしてガラス窓が外に向けて吹き飛んだ。


 「外です、逃げましたぞ!」

 メセバが叫んだ。

 「あそこだ!」

 サクが割れた窓から見下ろした。


 中庭を影が四足で走る。負傷して完全透明化ができないのだろう。そいつは反対側の建物の壁に血の跡をつけながら這いあがって、屋根の向こう側へと消えた。


 「あの建物の向こうには何が?」

 「あっちは郊外です。逃げましたね」

 ミラティリアが残念そうに言う。


 「これは! 一体何があったのです!」

 集まってきた屋敷の召使いたちが廊下の惨状に息を飲む。

 そこいら中に緑色の血が飛び散っている。

 サクは足元に落ちていた爪の先を拾った。


 「それは何ですの?」

 ミラティリアが覗き込んだ。

 「これは、さっきの魔獣の爪先ですね。見たところ砂漠大蜥蜴とかげの爪に酷似しているようだけど」

 「砂漠大蜥蜴は身体を透明になどできませんぞ」

 床の血を調べていたメセバが言った。


 「それに、私が最初に一太刀入れた時に一瞬全身が見えましたが、キメラでしょう。豹のような身体に爬虫類の手足、頭部はまるで沼蛇のようでした」

 「沼蛇ですか? 古い見捨てられたオアシスに棲む沼蛇は環境に応じて身体の色を同化させるというわ。それの合成獣ではないかしら?」

 ミラティリアが言った。


 そこへバドンズが息を切って現れた。

 「何事だ? この有様はどうしたんだ? 何があったメセバ」

 バドンズはよほど慌てたのか剣のごとく手に持っているのはスリッパである。

 その隣には全裸にガウンを羽織っただけの美女がいる。最近雇われたばかりの若い使用人の一人だ。バドンズの首周りに派手に口紅がついているところから見るとどうやら二人はお楽しみの最中だったらしい。


 「旦那様、実は……」


 メセバが説明している間にミラティリアとサクは見つめあう。

 「奴は手負いです。どうします? これから後を追いますか? 私ならまだまだやれますわ」

 ミラティリアがサクを見た。


 「お嬢様には危険です。旦那さまが許さないでしょう」

 「まぁ、つまらないことを言うのね。サクは」

 そう言いながら、ミラティリアはちらりとバドンズの新たな愛人を睨むと、窓に足をかけて外に跳んだ。


 「あ! ミラティリア! こら、待ちなさい!」

 バドンズが叫ぶ。

 窓から見るとミラティリアは既に駆けだしている。


 「まったく誰に似たのか、お転婆め! サク頼む! 娘を引き留め、連れ戻してくれ!」

 バドンズが頭を抱えた。


 「了解しました。しかし、お嬢さまの気性を考えると、あのまま敵を仕留めに行くことになるかもしれませんが、よろしいですか?」


 「わかった。だが、絶対に無茶はさせるなよ」

 「旦那様、それならば私も参りましょう」

 メセバが言った。


 「いいえ、ここは私に任せてください。メセバ殿は屋敷に残って守りを固めてください。さっきのあいつが陽動、という事もあり得ます。確実にバドンズ殿を守れる者が必要です」

 サクはそう言うと、窓から飛びだした。


 「頼んだぞ! サク!」

 「ご武運を!」

 バドンズたちは窓から身を乗り出し、猛然と走り去るサクを見送った。

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