第157話 邪神竜 対 二人のメイド

 巨大な影が山影から現れ、日が翳った。


 その姿はまさに天空にそそり立つ巨大な火山が丸ごと動いているかのようである。

 不吉な気配が広がり、森の中を無数の獣が逃げ惑うがとても逃げ切ることができない。


 敏捷な肉食獣も重厚な甲羅に覆われた魔獣も全ての生物が邪気に触れた瞬間に肉も骨も残らず腐っていく。


 無数の鳥の魔獣が東へと飛び立ち、わずかに逃げ遅れた飛竜や大型の翼のある魔獣の群れが邪気に捕まり、腐った肉片を撒き散らしながら次々と落下していった。


 その移動は緩慢だが、片足を乗せただけで山がその重さに耐えきれず、地響きと共に山体崩壊を起こした。

 発生した土石流がまだ邪気が及んでいない森の木々をなぎ倒し、逃げまどう魔獣たちを飲み込みながら遥か下流まで峡谷を埋めていった。


 周囲の大地が、全てが腐食して行く。深成岩の硬い岩山すらも自重に耐えきれずに崩れ落ち、急激に平坦な砂地に変容していった。邪気に触れたものは生物も無生物も何もかもが崩壊していくのだ。


 世界の終末をもたらす破壊は地上だけで起きているのではない。


 その移動と共に上空の雲が霧散し、大気が破壊され、真空が生じた上空に流れ込み続ける空気が渦を成した。

 やがて成層圏まで達した真空を通過し、宇宙からの強烈な放射線粒子がその周囲の砂地をさらに強烈に焼き始める。このまま全世界の大気を破壊しつくせば、地上はもはや死の世界だろう。


 そいつが通過した後には何も残らない。

 あれは存在するだけで世界を破滅へと導く邪神竜なのだ。



 ーーーーーーーーーーー


 クリスとアリスは山二つ隔てた崖の上からその圧倒的な破壊をじっと見ていたが、その表情は意外にも冷静である。


 この距離から見てもとてつもない巨大さである。その動く災いは、まるで山脈自体が動き出したかのようだ。その竜の姿は亀にも似ている。


 「本当に封印が解けていましたね」

 「あいつがそうね」

 ミズハの使い魔が告げた通りだった。


 「大きいですね、お姉さま」

 「ええ、本来邪神竜は身体の大きさを自由に変化できる。あいつはこの世界のスケールに合わせることなく実体化してしまった、呼び出した者の導きがないからこのままでは世界を破滅させるでしょう。あれは危険な状態よ」

 クリスが美しい蛇人族の言葉で答えた。


 「世界の破壊が止まりませんね」

 「彼はまだ悪夢を見続けているのよ。邪神と戦ったあの日のままにね。黒飛竜は大地を割って地殻をひっくり返そうとしていたし、八頭竜だって地上に太陽を幾つも発生させるところだったのよ」

 「はい、お話はお聞きしてます。彼の場合はすべてを無に変える力を発揮しているようですわ」


 あれは大気も大地も、触れるものすべてを破壊し続けている。この世界を生物が存在できない環境に変える力があるのだ。あの能力こそ、生と死を司る力と言われているものだろう。

 全てを無に帰すが、全ての生命の記憶をその背に宿しているとも言う。蛇人国の伝説では、今のこの世界も実は一度滅んでおり、あの神竜の再生能力によって蘇った世界なのだという。


 「あれが五柱のひとつ、”右の邪神竜” で間違いないですね」


 古代の邪神族との戦いで自らも邪神の力に染まり、長い年月を経てその強大な闇の力に飲み込まれ、力だけが暴走状態にあるという。かろうじてその力を制御し、封印できるのは暗黒術の巫女だけである。


 「そのとおりです。うまくいけば彼は貴女の守護竜となるでしょう。けれど用心しなさい。あなたが邪神竜と直接対峙するのは今回が初めてなのです。イリスお姉さまがご心配なさると悪いですから、無茶だけはしないでください」

 「わかりました」


 「では参りましょう」

 「はい」

 二人は天高く跳躍した。


 毒々しい橙色が混じる緑色の体表には普通の刃ではまったく歯が立たない金属のような鱗がびっしりと生えている。閉じた口元からは禍々しい紫色の息が漏れ出ている。


 二人が周囲に展開した最強の暗黒防御術ですら、ちりちりと腐食する。なんとか耐えているのは常に新しい膜を高速で上乗せし続けているからだ。でなければ邪神竜の邪気や放射線に焼かれ一瞬でその肉体は消滅してしまうだろう。


 巨大な前足で掴まれた崖にヒビが入り、砕け散る。

 崩落した巨大な岩塊が二人のいる谷間に向かって雪崩のように崩れ落ちてきた。


 クリスとアリスは迫りくる巨岩を避けて跳ねた。


 クリスは槍を手にしている。

 「私が囮になって邪神竜の気を引きつけますので、貴方は奴の首に服属の鎖を巻きつけることだけに集中してください。よろしいですね?」

 「はい。お気を付けて、お姉さま」


 その声を背に、クリスは髪をなびかせて岩山に向かって跳ねる。何度か巨大な岩がクリス目がけて跳んできた。


 右の邪神竜は、まだ目覚めたばかりで身体機能が十分活性化していないようだ。なんとなく動きが緩慢だ。本来の力を取り戻す前の今だけがこの恐ろしい竜を服属させる唯一の機会なのだろう。この機会を逃せば3姉妹が全員でかかっても厳しい戦いになるに違いない。


 アリスは封印を解いた馬鹿な魔族の死体が抱えていた黒い鎖を手にした。


 封印の祠を砕いた愚かな魔族の一団は漏れだした竜の吐息であえなく全滅したらしい。

 封印が完全に解け、移動を開始する前に着きたかったが、到着した時には既に手遅れだった。竜を支配する鎖を入手できただけでもまだ幸いだったと言うべきだろう。


 クリスが竜の目の前で目立つ動きをするので、竜の意識はクリスに向いている。


 アリスは左側の崖を駆け登っていく。広い峡谷の中に首を伸ばし、クリスを目で追っている竜の頭部を見下ろせる位置を目指す。


 竜が口を開いた。

 紫色の息が峡谷を吹き抜ける。

 見る間に岩が爛れ、草木はぼろぼろに崩れた。強烈な腐食息だ。混乱状態のため常に攻撃モードなのだろう。


 この竜は毒や腐食、或いは死の攻撃属性を持っているらしい。頭部には三本の大角が見える。ようやく見えた巨大な背中には樹木を思わせる結晶体が生え、まるで森林が動いているかのようだ。


 「弱らせなければなりませんね」

 クリスは竜の吐息の直撃を避けながら、槍先に麻痺の術を込めてその腕を脇から突いた。暗黒術の麻痺である。邪神竜と言えど、その肉を蝕む効果がある。


 ガッと食い込むが、硬い。槍が鱗に突き刺さるだけでも凄いのだが、クリスは内肉まで槍先を達したかったのだ。


 「これは硬いです。今までの邪神竜のうちで一番硬いかもです。でもやりますね」


 槍先に貫通力を高める術を込める。槍の石突きが変化し、獰猛な推進力をもたらす青白い魔炎を盛大に噴出した。

 「これでどうです!」

 徐々に槍が肉に突き刺さっていった。

 神竜が吠えて腕を振り上げた。チクリと痛みを感じたのだろう。


 クリスの身体が高々と跳ね飛ばされたのが見える。普通の人間なら即死のはずだ。だがクリスは防御術で身を守っている。ダメージは少ないはずだ。


 「お姉様! 援護します」

 アリスが両手で指鉄砲を作った。


 次の瞬間、指先から毛髪よりも細いピンク色の光が真っすぐに射出された。

 その光が邪神竜のこめかみを斜めに焼き、外れた光は対岸の切り立った巨岩を鋭利に切り落とした。それを煩わしいと感じたのか、邪神竜の怒りの咆哮が峡谷の岩壁を崩した。


 大地が揺れ、突然足元の崖が崩落し始める。

 「!」

 アリスは体勢を崩して片手で岩に掴まった。


 跳ね飛ばされた衝撃で宙を舞っていたクリスが落下に転じながらそれを見る。


 イリス姉様がいない状態での邪神竜退治はかなり厳しい。だが、この邪神竜を何とかしなければ、復活の依り代になっているカインを始め、多くの人の魂が喰われてしまう。


 「カイン、私の大切な運命の人」

 このまま大切なカインを失うわけにはいかない。クリスは唇の端から滲んだ血を拭うと、ミズハからのメッセージを思い出し気を引き締めた。カインもまたあの竜の中で戦っているのだ。


 「彼女を使う時ですね!」

 クリスは背中に手をまわし、何もない空間から赤い玉を取り出した。


 「大災厄の黒飛龍よ、時空のとばりを開き、我が命に従って今生に転生し、その姿を見せるのです」

 玉を両手で包んで印を結ぶ。


 アリスは天から巨大な炎の柱が立つのを見た。天が裂けたのだ。


 「これは、お姉様が異空間でお飼いになっている、黒ちゃん?」


 炎の柱の中から、右の神竜よりもやや小ぶりだが同じく巨大な黒い飛竜が姿を見せた。

 凶悪な面構えは見る者を畏怖させる。愛称はかわいいが、この竜も古代邪神竜の一柱、かつては左の邪神竜とも呼ばれていた大災厄級の黒飛龍である。


 「黒ちゃん、私を乗せなさい」

 クリスの声に飛竜が巨大な漆黒の羽を広げ、飛び立つ。羽ばたいただけで、その衝撃を受け山肌の木々が千切れ飛び、大木が枯れ葉のように空に向かって渦を巻いて舞い散った。


 空中でその頭部の角の先をクリスが掴む。

 旋回する風にあおられながら、クリスが右の邪神竜を見下ろす。やはり大きい。名前は知らないが、大地の死と再生を司る邪神竜だろう。奴が作り出す上空の真空渦が黒飛竜の飛翔には邪魔なのだろう。いつもより飛び方が荒っぽい。


 「黒ちゃん、神雷で奴を弱めてくれませんか? あ、地殻を破壊しない程度で頼みますよ」

 クリスは角に沿って滑り下りて竜の頭部を覆う柔らかな毛を掴む。


 右の邪神竜は黒飛竜の動きを地上から見上げている。その口元からは紫色の毒息が漏れている。今にも何かしそうな気配だ。


 アリスは山崩れで尖った岩場を再度駆けあがる。

 チャンスはそうは無い。時間が経てば経つほど依り代となっている人の魂は喰われ、奴の力は強大になっていく。


 手にした神鎖は暗黒術師のアリスにとっても毒である。

 手のひらが焼けるように痛い。直に掴んでいられるのは数分が限界だ。


 だが、今私がやらなければ、カインは二度と戻って来ない。

 「カイン様こそ運命のお相手なのですから!」

 カインの笑顔を思い出し、アリスは全身の気を術に集中させた。


 (今よ! アリス!)

 クリスの声が頭の中に響いた。


 同時に峡谷の中が黄金色に輝いた。天から降った稲妻が大地を切り裂き、辺りの大気の匂いさえ変える。右の邪神竜も無傷ではいられない。その巨体が圧せられるように沈み、鱗が逆立ち血飛沫を上げながら剥がれ、上空に舞い上がっていく。


 割れた大地の裂け目に地表を覆った砂が大量に流れ込んでいく中、アリスは峡谷に向かって跳んだ。


 真下に右の邪神竜の頭が見える。


 ボボボン!

 その背に生えた微細な結晶棘が何の前触れもなく突然射出され、アリスは危うく身をかわしたが、かすめた棘の衝撃波でメイド服が裂ける。失われた超古代文明の技術で作られた金剛布製のメイド服は帝国兵の装備するどんな鎧よりも強靭だ。それがいともたやすく裂けた。


 「くっ!」

 それでもアリスは唇を噛んで体勢を立て直した。

 落下速度が速い。

 暗黒術で加速しているのだ。アリスのポニーテールがほどけ、長い髪が天使の羽のようになびいた。


 右の邪神竜の反撃を受け、片羽に大きな穴を開けられた黒飛竜が旋回しながら落ちて行くのが見える。

 崖に突き立った幾つかの結晶棘の周辺に青紫色の何かが芽吹き、時間を早回しするかのように丸い塊になっていく。あれは変容した大気でも生きることができる原始生命体か何かだろう。


 「クリスお姉様、やります!」

 アリスは手から血を流しながら鎖を構えた。


 しかし、右の邪神竜は何か気配を察知したのだろう。長い尻尾が振りあげられた。

 鎖をかけるチャンスは今しかない、そのタイミングを計って落下するアリスに攻撃を避ける余裕など無い。


 「カイン様! 今、助けます!」

 アリスは右の邪神竜を睨んで唇を噛んだ。

 

 「アリス!」

 クリスは遠心力に振りまわされながら必死に飛竜の毛に掴まっていた。右の邪神竜の攻撃が見えたが間に合わない!


 岩山をも砕く凶暴な尻尾がアリスを打ち払うため唸った。

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