第154話 災厄 邪神竜降臨!
アパカ山脈の南に広がる大峡谷の切り立った崖の下を黒いマントを着た一団が進む。
「目的地はもうすぐでございます!」
先頭の馬に跨る明らかに魔族と知れる騎士が振り返った。
「わかっておる。先を急がれよ」
数名の騎士の後に続いて、帝国が特別に許した神官服らしいものを着た男たちがいる。その中でひときわ豪奢な服を纏った男が横柄な態度でうなずいた。
騎士はむっとしたが、言葉には出さず、隊列に乱れがないことを確認した。
神官服を来た連中は一体何者なのか、祭司だという以外、特別任務を命じた上官からも何の説明もなかった。六大神の信仰を禁じた帝国にあって彼らが信じる神とはなんなのか。かなり胡散臭い連中だということだけは間違いない。
それに神官服の男の後ろには鬼面の男が一人、奴は祭司たちのお目付け役という話だが、かなり危険な気配の男で油断がならない。
そして列の最後尾を行く奇妙な祭司である。一人列から離れ、鬼面の男に見えない鎖で縛られているかのようについてくる。フードを頭まですっぽりと被ったかなり小柄な者である。
ゆっくりと歩みを進める一団の前に、圧倒的な重量感を覚える巨岩が姿を見せ始めた。やがてその真下、巨岩がいくつも重なり合って、大きな洞になった入口が見えてきた。
「あそこだ」
先頭の騎士は古びた地図を見ながら躊躇なくその洞の中に入って行く。
誰も言葉を発しない。
洞の奥から伝わる尋常ならざる圧迫感に、息をすることすら困難を覚える。
鳥の声も聞こえない。
湿った洞の中は、苔すら生えておらず、虫の一匹もいない。ついさっきまで飢えた蚊の集団に襲われて難儀していたのが嘘のようだ。
重なり合った岩の隙間から入る陽光で内部は予想外にうっすらと明るい。
先方の集団がわずかにざわめいた。
そのざわめきは後列に伝わり、やがて最後尾の祭司もその理由を知った。
洞を出た途端、岩壁に囲まれた広大な空間が現れたのである。
そそり立つ岩山はほぼ垂直に切り立ち、その空間の周囲を丸く囲んでいる。遥か上空で円い天窓のように開いているのが空だ。
「ようやく目的地に着きましたぞ。ゾルラヅンダ祭司長殿」
先頭の騎士が振り返った。
「うむ。ここじゃ、間違いない。ここで良いようじゃ」
皺だらけの年老いた祭司がそう言って馬から下りる。
その周囲にお付きの者たちが集まってきて、恭しくゾルラヅンダに杖を手渡す。
「見よ、ドヅンダ。ここが例の封印の地じゃ」
ドヅンダと呼ばれた男は祭司長に次いで豪奢な服を着ている。
この二人だけが、他の者とは身なりが違う。首から下げた宝玉の飾りや指輪等は全て何らかの魔法具である。
「ゾルラヅンダ様、ではあれが邪神竜の祠なのでしょうか? ここに竜が封じられていると?」
ドヅンダは、平らな台地の中で唯一突出している巨礫を指差した。
ゾルラヅンダは目を細めてうなずいた。
邪神竜とは、かつて世界を支配していたと言う古代の神竜である。中央に祀られる震災の灼熱八頭龍、左に祀られる大災厄の黒飛龍、右に祀られる生と死を司る黒森竜、左端に祀られる形なき絶望の結晶竜、右端に祀られる時空裂の青竜の5柱である。
太古の昔に邪神との戦いに勝利したものの、邪神の血を浴び、長い年月を経てその強大な闇の力に飲み込まれ、本来の思考能力は残っておらずその力だけが暴走状態にある。一歩間違えば世界を破滅させる竜であるとされる。
その力を抑え、制御できるのは暗黒術師の中でもマスター級とされる巫女だけである。
人語を話す神竜となら契約できるが、邪神竜とは契約できない。多くの神竜を従えたという神話に出てくる王女と違って、巫女はその魂に竜の刻印を刻むため、生涯に支配できるのは一人一竜なのである。
「ここがそうか。ごくろうだったな」
鬼面の男がゾルラヅンダの隣に立った。
「キメア殿もお目付け役、ご苦労さまでしたな、ここからは我らの仕事になりますのじゃ」
「うまくやるのだぞ、我が主人も期待しておられる。だからこそ私を遣わしたのだ、その意味を良く考えるのだな」
鬼面の男は腕組みして岩に背をもたれかけた。
「お任せあれ、ふふふふ……」
傲慢な男め、そう思いながらゾルラヅンダは杖をついた。
その復活は世界に災厄と大きな戦乱をもたらすという竜である。邪神竜が姿を見せたという文献には必ず戦乱の歴史が絡んでいる。邪神竜が戦乱を呼ぶのか戦乱が邪神竜を呼ぶのかはわからないが、それまでの世界が変わることだけは確かなのだ。
最近邪神竜が姿を見せたのは先の大戦の時だった。
「この間違った世界を変えるためじゃ。さて、参ろうかのう。キ・ボランダも警護役御苦労じゃった。これから封印を解く儀式を始めるが、お前たちには危険じゃ。警護の騎士は洞の入り口まで後退し、事が済むまでこれを使ってその魔法陣の中に身を隠しておれ」
「これは? 護符的なものですかな?」
騎士キ・ボランダはゾルラヅンダから手渡された木札を見た。その表面には何か奇怪な文様が描かれている。
「強い魔力を感じるかな? 万が一の場合はこれで身を守れるじゃろう」
その言葉にキ・ボランダは表情を厳しくした。
「やはり、万が一という事もあり得るのか? 大戦の時は2回とも成功したと聞いていたが?」
「あの時は特別だったのじゃ。魔王様の御前だったからな。帝国最高の人材が揃っていたのじゃ。今は、あの方がこの計画を再開してくださっただけでも、恵まれておると言わざるを得まい。人材も完璧では無いが、まあ、アレを渡してくれたのだからな」
そう言った視線が最後尾の神官に移った。
「アレか? まるで子どものようだが本当に大丈夫か?」
「そんなに恐れるでない。あれでも暗黒術の使い手なのじゃ」
そう言ってゾルラヅンダはキ・ボランダの肩を軽くたたくと、最後尾でまだ馬から下りていない神官の元に進んだ。
フードの奥の鋭い眼差しがゾルラヅンダに落ち、ゾルラヅンダがその顔を見上げた。
「ドリス、準備は良いか?」
「わかっている……ここが仕事場だと言う事だろう?」
「ふむ、わかっておるならば、すぐに仕事にかかれ、クマルン村の別働隊から準備は済んでおると既に連絡があったのだからな」
「分かった。それでは、あの目障りな祭司共を少しの間遠ざけてくれないか」
そう言って馬から下り、そいつはフードを脱ぐ。
改めて騎士キ・ボランダは目を見張った。周囲の騎士たちの反応もほぼ同様である。
ここまでの道中、鬼面の男が常に近くで監視しており、騎士たちからも距離をおく得体のしれない同行者と思っていたのだ。それが……あまりの場違いさに息を飲む。
くりくりの大きな青い瞳、少し生意気そうな眉、桜色の小さな唇、整った顔立ちのかわいい少女である。少し幼い感じがするがあと一年もすればまさに美少女になるに違いない。暗黒術師の乙女だ。
「さあ、ドリスが仕事を始めるぞ。皆の者、魔法陣展開の補助を行うのじゃ! ドヅンダ副祭士、お主は神封じの箱を出すのじゃ!」
巨大な礫の下に小さな祠があった。
祠の中に苔に覆われた5つの石の塊が見えた。中央の石塊の右側に置かれたものだけが元は何らかの石像だったと分かる程度で、他はもはや形をとどめていない。
ドリスと呼ばれた少女はその前に立ち、木の杖を両手に持ってその先端を額に当てる。
目を閉じると、深淵の奥から恐ろしい鼓動が這いあがってくるのを感じる。
これまで知っている厄魔獣や脾神獣とはまるで格が違う。
ドリスの表情は変わらない。
その圧倒的な力である。この連中には制御不可能な強大な力の存在だということはあきらかだった。
馬鹿な連中だ……ドリスには既に事の結末が見えている。
「でも、せっかく自由になる機会だから利用させてもらう」
ドリスは誰にも聞こえぬようにつぶやくと無表情で詠唱準備に入った。
その姿を遠巻きに眺めながら、魔法陣の展開を終えた祭司たちがドヅンダ副祭士の元に集まってくる。
「ドヅンダ様、あんなのが暗黒術師なのでしょうか? 本当に大丈夫でしょうかね?」
ドヅンダは無言で成り行きを見ている。
ゾルラヅンダがドヅンダに彼女を引き合わせたのは10日ほど前だ。
帝国が管理する倉庫の奥で彼女はまるで人形のように黒い棺に入って眠っていた。
どうしてゾルラヅンダ祭司長がその存在を知り、倉庫に入ることが許可されたのかは不明だったが、祭司長が「あの方」と呼ぶ者はそれが出来る者なのだろう。
祭司長の身体の陰になって良く見えなかったが、No.2と刻まれた黒い棺の封印を解くメダルには「人工生命実験体ドァリス(Do-alices)」と刻まれていた。
「ゾルラヅンダ様の行う事に間違いは無い。我々は予定通り補助魔法を行うぞ。各自この首飾りを下げ、魔法陣の配置につけ」
祭司たちはゾルラヅンダから手渡された首飾りを下げ、石の祠を中心に広がる魔法陣の所定の位置につき祈りを始めた。
魔法陣の中から無数の光の玉が現れ、封印の祠に吸い込まれていく。クマルン村に配置した御魂封じの箱からの転移術はうまく機能しているようだ。邪神竜の復活には大量の人の魂が必要なのだ。
ゾルラヅンダは神封じの箱の蓋を開いた。
箱の中には黒い鎖がある。
「ふふふ……これはまるで生きておるようじゃな」
黒い鎖は蛇のようにも見えるが、それが元々蛇人族の宝具だと知っているから余計にそう見えるのだろう。
ゾルラヅンダはドリスを見た。
既に復活に向けた詠唱が始まっているようだ。
「こちらの準備の都合も考えなしに始めておる」
ゾルラヅンダは眉をひそめたが、それも心の無い人形のやる事、仕方があるまいと割り切る。
ゾルラヅンダは神封じの箱から取り出した鎖をドリスの背後に仕掛けた。
「ドヅンダ! 皆の者、眷属化魔法の詠唱を始めるのだ!」
「はっ! ただちに!」
ドヅンダたちが魔法陣の中で奇怪な詠唱を開始した。
「くくく……何も知らずに……。だが、これで良い。あとは邪神竜に生贄をささげさえすれば良いのだ」
ゾルラヅンダは邪悪な笑みを浮かべた。
降臨した邪神竜を支配下に置くには非常に強力な暗黒術が必要だが、それを行える者は限られており、帝国が邪神竜の力を利用するには少し都合が悪い。
数年前のように、こちらの意のままにならない暗黒術師が邪神竜を眷属にしてしまうと、帝国の思い通りにならないのである。
しかし、帝国の誇る魔法局の研究者がその代理法を見つけたのだ。最近帝国で開発されたばかりの術である。暗黒術で邪神竜を呼び出した後、特殊な生贄を利用して通常魔法による眷属化を行い、支配下に置くというものだ。
暗黒術師と違って魔法使いや魔女ならば言う事を聞かなければ洗脳すれば良い。つまりいつでも帝国の道具にできる。
ドヅンダか、あるいは別の者か、邪神竜の眷属化に成功した者を強力に洗脳する呪いの法具は既に首から下がっていた。
ただ一つ、その代理法を成功させるには魔族と人族のハーフの乙女という、今では滅多にいない種類の者を生贄に利用しなければならない事だけが問題だった。
しかし既に帝都からは構わずに進めろという連絡をもらっている。あの方の事だ。おそらく生贄は既に準備しておられるのだろう。それに万が一の時の予備として使う者もこちらで発見している。その者も今頃はクマルン村の別働隊が身柄を確保しているはずだった。
「さあ、始めよ! ドリス! やるのだ!」
ゾルラヅンダが叫ぶ。
ドリスはちらりと横目でゾルラヅンダを見た。
ゾルラヅンダの顔は驕慢な笑みに満ちている。その背に纏わりつく多くの黒い影はゾルラヅンダに恨みを持つ者たちの怨念だろう。そのことにすら気づけぬ愚か者か……。
ドリスはゆっくり目を閉じると祠に刻まれた邪神竜の名を呼ぶと、一瞬で天高く飛翔した。
何かが起こった。
全てが腐る……
ゾルラヅンダの目が驚愕に見開かれ、溶け落ちて行く自らの指先を見つめた。鬼面の男キメアが呆然と立ちすくむ。いや、違う、足先から溶けだして動けないのだ。鬼面の男は二三度喉をかきむしると全身を泡立たせて崩れ落ちた。
馬鹿な男たち……この圧倒的な暴力からは誰一人逃げることなどできはしないのに……。
これが慢心と不遜、そして傲慢が行きついた結果なのだ。
悲鳴すら聞こえない、そこに集まっていた者たちはあっと言う間に腐り落ちた。魔族の強者であっても帝国一の暗殺者であってもあれの前には無力。あれは世界の全てを腐らせるまでもはや止まらないだろう。世界の破滅が始まったのだ。
ドリスは遥か上空の岩の縁に腰を下ろし、祠から吹き出した細い黒い糸のようなものが周囲のあらゆる生命を吸い込みながら天高く伸び、天蓋が開くように巨大な影が徐々にこの世界に現れるのを見つめていた。
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