第116話 洞窟の熱泉

 ちゅぼーん! 盛大な水柱が立った。


 「あ、熱ちっ、あっち!」

 俺は落ちた衝撃よりもその熱さに跳びあがった。


 熱泉だ!

 穴の下に広い空間があり、洞窟湖のように熱水が溜まっていたのだ。幸い、ちょっともがくと足が底に着いた。


 セシリーナの前でアリスにうつつを抜かした天罰だろうか。熱泉の温度は火傷するほどではないが、風呂だったら水を大量に足したくなる熱さで、長時間我慢できるようなレベルじゃない。

 

 広い洞窟の壁に自生するコケ類が淡く発光しており、白い湯気に反射した光は洞窟全体を柔らかな明かりで満している。

 その明かりの中、わずかな空気の流れる気配がして、湯煙の向こうにそそり立つ岩壁といくつもの直立した岩が立ち並んでいるのが見えてきた。


 その苔むした巨大な岩壁の表面に何かが描いてある。あれはどう見ても人工的なものだろう。

 「あれは……竜か?」

 目を凝らすと見えてきたのは壁面一杯に彫りこまれた最強の怪物、神竜のレリーフのようだ。


 「なんだろう? どうやらここは単なる鉱山跡ってだけじゃなさそうだ」

 古代の神竜信仰は東の大陸ではほとんど知られていない。俺もよくは知らないが、神竜の絵だと分かったのは母が昔ちょっとだけ語ってくれたことがあるからだ。


 レリーフには吹き荒れる突風に吹き飛ぶ家々が描かれている。

 暴竜の巻き起こした災厄がモチーフだ。ここは鉱山跡だと言っていたが、ここで神竜を祀っていたのだろうか。

 その神竜の足元に倒壊した小さな祠があり一本の槍が突き立っている。

 思わせぶりというか、何かいわくあり気だ。


 熱さを我慢してジャブジャブと近づいてみる。槍自体は割と最近のものらしい。全体に腐食が進んでいるが金属部分はさほど朽ちていない。それに、よく見ると柄の部分には何やら文字が刻まれている。


 『汝解放せし者……、名はクーリア・ラ・メラドーザ』


 「メラドーザ? これってイリスたちの姓じゃなかったか? クーリアって誰だろう? イリスたちの血縁か何かか? それにしても……」

 と俺はその巨大な壁画を見上げた。『解放せし者』ってのがかなり気になる。


 その時だ、ザザザッと背後で波音がした。


 「!」

 振り返った目に遠くから波を立てて近づいてくる何かが映る。白波に黒い影、長い髭が二本見える。


 「まずい、こんな場所にも水棲の魔物がいるのか? それとも幻覚?」

 違う、現実だ。

 湯気が作り出した錯覚や幻じゃない。

  

 急げ、早く動け。

 俺はそいつに気づかれないよう移動する。しかし、熱泉に太ももまで沈んでいるのでどうにも動きが鈍い。


 ハラハラしながら俺は岩柱の影に回り込んで身を隠した。

 息を殺して奴が通り過ぎて行くのを祈る。

 逃げようにも動けば波が立つ。

 こんな場所に棲息している奴だ。あれはさざなみにも敏感に反応するだろう。


 覗いた目に背びれが見えた。洞窟ナマズの一種かもしれない。成長すれば全長は人の背丈の2倍もの大きさになる。日中は外の川で活動し夜は巣穴に戻る、口が大きくて雑食の危険な魚だ。


 熱泉でも生きられるように進化したのだろうか、普通の洞窟ナマズよりも小ぶりだが体表を覆うのはぬらぬらとした粘液。あの厚い粘液の膜で熱から身を守っているに違いない。


 モンスター化した人喰い洞窟ナマズは、水没したダンジョンに潜んでいることもある。危険な怪物で一噛みで手足を食いちぎられて死ぬ冒険者もいる。

 生命力が強く一度の捕食で十年くらいは何も食わずとも生きることができるが、その生命力ゆえに干物にした肉は高価なポーション材料として取引される。


 俺は骨棍棒を手に岩を背に息を殺して奴が行きすぎるのを待った。

 あんな奴が徘徊している以上、早くこの熱泉から出る必要がある。


 「行ったか?」

 俺は周囲を見回す。


 ちゃぼん、と雫が落ちる音がした。

 

 いない?


 さっき奴はそのあたりを泳いでいたはずだ。その姿がない。潜ったのか?


 見失ったのは不味い。


 その時、気配がした。

 「!」

 足元に近づく黒い影!


 「うわああああああああ!」

 突如目の前に真っ赤が口腔が出現した。


 腰を抜かしそうになって水がたっぷり入った長靴が重くてよろける。そのせいで、水中から現れた洞窟ナマズはタイミングを外して俺の背後の柱に激突し、岩と岩の間に挟まった!


 バシャバシャと尾びれが水面を叩く。

 今だ! 俺は猛然と骨棍棒を振り下ろした。


 メキッ! と音がしてそいつの頭部に棍棒が命中! だが、ぬるっと滑ってしまい力が分散した。致命傷になってない。

 奴は身を捻ってするりと岩の隙間から抜け出した。


 「くそっ、なんて奴だ!」

 俺は奴の背後に回り込んで危険な口から遠ざかるが、熱泉の中で思うように動けない。


 その点、奴は自在だ。

 くるりと回転してこっちを向いた。

 その髭が目の前で跳ねる。俺は咄嗟に腰に下げていた短剣を抜いて髭を切断する。

 

 バシャ! と水が跳ねる。

 片方の髭が宙を舞った。


 斬った!

 これは効果があった。髭は奴の重要な感覚器官だったらしい。

 黒い影が水面下に沈んで姿を消す。

 攻撃のため隠れたのか? それとも逃げたのか?


 「今しかない!」

 俺はジャボジャボと水音が立つのも無視して一番近くにある岩柱に走る。


 「とにかく水の中から出ないと……」


 岩にしがみついて、何とか熱泉から這いあがった。奴が水面からジャンプすれば届く高さだが水の中にいるよりはこっちの気配が気取られにくいだろう。

 周囲を用心深く見回すと少し離れたところの水面に背びれが回遊しているのが見えた。


 どうやら痛手を受けてこっちを警戒しているようだ。逃げるなら今のうちだ。


 「危なかった。さっきは死ぬかと思った……んあ?」

 ちゃぽちゃぽ音を立てる長靴を片方ずつ脱いで中の湯を捨てようとすると、不意にぐらっと岩が揺れて大きく傾いた。


 「うわっ、うわっ!」

 登った岩がゆらゆらと左右に揺れて沈み込む感覚。思わず落ちそうになって岩にしがみつく。


 「なんだ? これ? 動くぞ」

 どういう仕掛けなのか、妙にふわふわしている。


 どうも岩自体が宙に浮いているような感じがする。試しに岩の端に立つと岩が大きく斜めに傾いて足が熱泉に近づく。


 「やはり、浮いているよな? これ」

 落ち着いて改めて周りをよく見ると、たくさんの岩柱が熱泉の上をゆっくり漂っている。


 「目の錯覚じゃないよな? やっぱり岩自体が浮いているんだ。ここの岩が特別なのか熱泉が特別なのか? 初めて見る光景だな」


 と唖然としていると突然、壁から水が湧き出した。


 水に押され、新たに剥がれ落ちた岩が熱泉に沈むことなく水面からわずかに浮いて漂い出した。まったく信じがたい光景だ。


 やがてどこからかシューとガスが噴き出すような音が響き、熱泉の周囲に湯気が濃く立ち上り始め、次第に視界が悪くなってきた。


 「洞窟ナマズは向こうに行ったみたいだな。しかし、湿地の地下にこんな妙な場所があるとはね」


 いつの間にか洞窟ナマズは姿を消している。静かになった周囲には水の流れる音が響くばかりだ。


 天井の方は見上げても湯気で何も見えない。水が流れるということはどこかに続いていることだけは間違いないのだが……。

 熱泉の中を移動するのは勘弁だ。危険な怪物が棲息しているし、何よりも熱すぎる。


 ここでセシリーナたちが助けに来るのを待つか? それとも移動するべきか?


 「いや、思案しているヒマはないぞ。うわっち! 足元が急に熱くなってきた!」

 気づけば、さっきより熱泉の水面が高くなってきている気がする。もしかするとこのままではまずいのでは?


 俺は横へ横へと岩づたいに移動した。


 「おお、こっちの岩はふわふわしない。ちゃんと根元が地面についている感じがする」

 岩壁を見上げると、岩肌がむき出しなのは俺の頭のちょっと上までで、その上には光る苔が生えている。


 「嫌な予感がする。これはあれか? 時間で水位が変化し、あそこまで熱泉が上昇するとか?」


 だとすれば、移動しないと熱泉で溺れ死んでしまうんじゃないのか? この閉塞した洞窟で茹で上がって死ぬというのは勘弁してほしい。それこそ洞窟ナマズの恰好の餌だ。


 アチッ! いつの間にか長靴の半ばまで湯が上がってきている。どうやら、どう考えてもあまり時間は無いらしい。


 「上に登る道を探すしかないな」

 俺はとりあえず岩壁に沿って進むことにした。


 熱湯に落ちないように足場を確認しながら少しずつ横に移動する。湯気が上昇していく所を見ると、どこか上に続いている穴がありそうなのだ。


 とにかく一歩でも上へ登らねばならない。岩の出っ張りを見つけるたびに掴まって何とか体を持ち上げる。


 時折足を滑らせながらも、徐々に岩壁を這いあがっていくと湯気の上に橋のような構造物が見えてきた。その石橋は横穴から続いているようだ。


 「あそこまで行ければ……」

 必死に垂直に近い岩をよじ登る。ごつごつしていて体を支える突起があちこちにあるから登れるが、つるつるな岩だったら終わっていた。


 息を切らせて、ようやく橋の上に手が届くという所まできた時だった。


 「?」

 ガツガツと何かがこちらへ来る音が響いてくる。


 岩を削るような妙な響きだ。蛇身の魔族が這うように歩く音ではない。だが、こんな場所をうろつく奴だ。ろくな奴じゃないだろう。

  

 俺は岩壁に張りついて頭をひっこめて息を殺した。そしてそっと音のする方を覗き見た。


 そこには、まるで岩の塊のような影が蠢いていた。


 二足歩行の岩とでも言えばいいのだろうか?

 ゴーレム? 脳裏にそんな言葉が浮かんだ。


 身長は俺よりも低いだろう、ずんぐりとした猫背の人のような姿をしているが、頭と思われる場所には眼も口も鼻もない。脳天に黒っぽい杭が突き立っているのが異様である。おそらくあれがあの岩男を支配する呪符なのだろう。


 「あれがゴーレムっていう人形なんだろうな?」

 俺は本物のゴーレムというのは初めて見る。東の大陸にはゴーレムを使う魔法も知られていないし、そんな文化もないのだ。

 

 だが、こっちでは普通に護身用や見張り番とかの目的でゴーレム召喚魔法が売られていたりする。盗賊対策で倉庫番のゴーレムが大ヒット商品だったこともあったらしい。


 魔法で生み出された小型ゴーレムは食事も不要で命令に忠実だ。こんな穴の中で使役するには都合が良いのだろう。


 そいつは橋の真ん中まで進むと、持ってきた桶のようなものを橋の上におき、吊り下げられていた縄を引っ張り、何かを熱泉の中から引き上げ始めた。


 その縄の先には変形した網籠がぶらさがっていた。


 そいつは籠の中に手を突っ込んで中から何か白い物を掴みだすと桶へと移し替え始めた。

 やがて作業は終了したのか、空になった網籠を再び熱湯の中に放り投げると同じような足取りで引き返してきた。


 俺は通り過ぎるのを待って、その桶の中をのぞいた。

 茹でたカエルが何匹も入っている。蛇身の食料だろうか。だとすると網籠が変形していたのは洞窟ナマズが攻撃したからだろう。


 そいつが立ち去ってから俺は橋の上に這い上がったが通路は一本しかない。こうなれば仕方がない。俺は少し距離を置いてそいつの後を追うことにした。


 どう見てもカエルは奴の食料には見えない。茹でカエルを持って行くということは、その先に蛇身がいる可能性が高い。

 人を蛇身に変える儀式を行うと言っていたことからするとリサたちもそこに捕まっているかもしれない。


 ゴーレムは見た目通り鈍感なのか、幸いこいつはあまり感覚器官が発達していないらしい。俺の下手な尾行にもまったく気づいている様子は無い。


 いくつも坑道が枝分かれしてるが、そいつは迷いもなく歩いて行く。

 俺一人だったら道に迷って右往左往していたところだ。鉱山だったと言うが、この辺りはだいぶ昔に廃棄されたのだろう。掘りぬかれた岩壁の工具痕は溶け出た石質のざらざらとした膜で覆われている。


 奴は暗い穴の中を明かりもつけずに歩いて行く。この横穴の高さはこいつらが活動するには丁度いい大きさで、穴に合わせたサイズのゴーレムを召喚しているのかもしれない。

 奴の頭に刺さった杭がわずかに黄色く発光しているので暗闇でも見失うことはない。


 しばらく降りていくとガツガツと歩くゴーレムの足音が周囲に不自然に反響し始めた。多重音響というか、音が重なり合っている。


 「何か妙だな」と思っていると、突然、俺とそいつの間に横穴から別の個体が現れた。こいつの足音が反響していたのだ。


 「!」

 幸いこっちには気づかなかった。


 新たに現れたゴーレムも1体目と同じ方向に下っていく。そいつは手に大きな酒瓶のような物を携えていた。あれも儀式用の供物だろうか。だとすれば間違いなくリサたちはこの先にいる。


 だいぶ長い距離を歩いているような気がするが、暗い中を螺旋を描くように下っているらしく、実はたいした距離は進んでいないのかもしれない。


 セシリーナとアリスはどこに行ったのか、俺の後に続いた様子はないので独自ルートでリサたちの行方を追っているのだろう。


 ガガガボッ! と今度は俺の後ろで岩が擦り合う音がした。振り返ると隠されていた横穴が開いて、あらたな個体が姿を現した。


 やばい、前後を岩男に挟まれた。

 冷や汗が流れるが、そいつはゆっくりこちらに近づいてくる。突っ立っていたのでは鉢合わせだ。


 俺はすぐに前の二体を追った。


 こうなれば岩男の後ろを同じ歩調で歩いて行くしかない。

 後ろから現れた岩男がすぐ後ろまで接近してきたが俺には無関心のようだ。こっちは冷や冷やものなのだが、そいつは俺に気づいているのか気づいていないのか、黙々と歩いている。


 やがて、前方に光りが見え始めた。

 穴は行き止まりで、右側から光が差し込んでいる。


 先頭の岩男のごつごつした肌がてらてらと光った。


 どうやらあれは部屋の入口らしい。奥からは呪文のような、おどろおどろしい声が聞こえてきた。もう間違いない、あそこが儀式の場なのだ。


 太く短い脚で地面を削るように歩いていた岩男が、両手を頭上に上げて貢ぎ物を掲げると、くるりと向きを変え、その光の漏れる入口から中に入って行った。

 

 俺は壁のわずかな隙間に潜り込んで後ろの岩男をやり過ごしたが、背後からはさらに多くの岩男が集まってくる足音がする。


 「やばいな……」


 額を拭った指先からきらきらと汗が飛び散った。

 心拍数が上がっている。闇の中で動く岩男が音に敏感な奴だったら俺に気づく奴もいるかもしれない。


 それに、もしかすると今は供物を持っていくのが最優先命令なだけで、それが終われば侵入者排除に動くという事も十分ありうるのだ。


 さてどうする? ゴーレムと一緒にあの入口から侵入するのは危険すぎる。

 その時だ、岩壁に張り付いた俺の指に何か窪みが触れた。自然の窪みとは違う、指ざわりからして何か人工的なものだ。


 「これは?」

 窪みに指をかけて力を込めるとガコン! と壁が動いた。

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