第110話 大湿地帯を行く

 「おわわっ……」

 目の前でいきなり野鳥が飛び立って、湿地特有の褐色の水しぶきが風で煽られキラキラと自分の方に降りかかってくる。


 アッケーユ村を旅立って既に3日が経っている。

 大湿地に入ってからは色々と苦労の連続で、一行が一日に進む距離は以前より短い。予定よりかなり遅れているが、これには理由がある。


 見渡す限りの湿原には苔類や背の低い植物、時折ひょろっと細い木々がある程度で、見晴らしはかなり良いのだが、すぐに道に迷うのだ。


 今日も既に3回も道が途中で無くなって、今もまた分岐点まで引き返してきたところなのである。

 無理して進めば足腰まで泥にはまって動けなくなる。もちろん道を一歩でも外れれば底なしだ。危険すぎて歩けない。


 ぶるぶるっと俺は震えた。

 夕方に近い西風は高山からの冷たい風を吹き下ろしてくる。

 大湿原は遥か彼方にうっすらと見える山の麓からスーゴ高原の北西域にまで広がっている。

 北はアパカラ河の氾濫で生じた微高地によって閉ざされ、排水不良になっている広大な低地である。


 土地柄からあまり農作物の生育に適さず、広々とした土地だが、古くから大きな国の領土になることもなく、湿原の中の所々に数軒程度の家からなる村が見られる程度である。帝国から重要視されていないため帝国の巡視網にも入っていない。


 当然、大きな街もなく、好き好んでこの辺境を訪れる商人もいないため、湿原の中を通る道は整備されていない。


 それどころか数年で道が陥没するため、そのたびに小枝を敷いた細い道が新たに切り拓かれる。そのせいで湿原の中には使われなくなった旧道があちこちに伸びており、折角順調に進んでも、道が途中で途切れていたりして、まるで迷路なのだ。

 しかも歩くとぶよぶよと揺れ、立ち止まるとゆっくり沈んでいく道は、足に負担がかかってかなり疲れる。


 「寒くなってきたわね。そろそろ宿を探すか、野営できる場所を見つけないといけないわ。ここでは早めに判断しないと危険よ」

 セシリーナがリサのコートの襟を直した。


 「リサは寒くないよ。カインがいるもーん」

 「カイン様、昨日のように運よく前に通った方が作ったキャンプ地があるとはかぎりません。少し先行して見てきましょうか?」

 アリスが道に置いていた自分の背荷物を背負う。

 昨日は誰かが残した板敷きの野営地で久しぶりに硬めの床に寝たのだが、そうでなければ寝ている間に沈まないように枝を拾い集めてきて鳥の巣のような床を作らないと危なくて寝れない。その野営方法もリィルが知っていたから出来たのであって、知識がない俺たちだけだったらヤバかった。


 「この辺りの道は良く知っているはずなのです。でも、いつもとは逆方向から来たので、勘が狂ったのかもしれないです」

 リィルが辺りを見回して言った。森の妖精族の面立ちは子どもっぽくで愛らしいがこれでも大人なのだ。


 「リィル、本来なら、あとどのくらいで村があるんだ? この辺りの地理に詳しいのはお前しかいないんだからな」

 「そうですねぇ。あと半日程度でしょうか。この先にアパカラ河に流れ込む支流が右側に見えてくるはずなのです。その支流の三日月湖の畔に小さな村があったはずです」

 おかしいな、という素振りでリィルは手帳を見ている。


 「それなら、あそこでしょうか?」

 アリスが遠くを指差した。


 「何か緑の中に一か所だけ黒々としてる場所があるわね。あれは木かしら?」

 セシリーナが目を細める。


 「木? そうかもしれませんね」

 「木が生えていると言う事は村がある可能性が高いです。この辺りの村は、風除けや枝を薪に利用するために村の周囲に木々を植えているんですよ」

 リィルが言った。


 「とりあえず、あそこを目指して行ってみるか?」

 「そうね」

 俺たちは新しく小枝や刈った葦を敷き詰めた道を見つけて歩き出した。アリスが手を引くリサは足が小さいので泥に沈んで歩きづらそうだ。


 幸いこんな土地なので危険な魔獣がうろつく訳でもなく、盗賊も出ない。帝国もこんな辺鄙へんぴなところまでは警備していないので、囚人都市から逃げてきた俺たちとしては気が楽だ。


 「泥で足を取られるし、見通しが良いから、ここを縄張りにしている魔獣は流石にいないよな?」

 俺はセシリーナに声をかけた。


 「昔はいたわよ。巨大で凶暴なのがね」

 「え?」

 まさか、こんな荒れ地に魔獣はいないだろうと思っていたのに、思いがけない言葉だ。


 「こんな所だからと気を抜くのはだめよ、カイン。ある種の魔物にとってはここも格好の住処になるのよ」

 「そうですよ。全長20mメルティもの肉食沼ミミズ、魔獣ヤンナルナの群れが討伐されたのはこのすぐ近くなのですよ」

 リィルが嫌な事を言う。


 「20mの沼ミミズ? そんな物騒な奴がこの辺にいるのか? 肉食って、人を襲うのか?」

 俺は急に臆病になりあたりを見渡す。


 「いるんですよ。沼ミミズは巨大な体を沼に沈めて獣が通りかかるのをじっと待っているんです。そ、し、て、テリトリーに入った獲物があっと気づいた時には、既にその胃袋の中に収まっているんですよ。わぁっ! ほらっ、今、カイン様の後ろに!」

 リィルが急に怯えた顔をして指差した。


 「うわあああ!」

 俺は跳び退いて泥に足を救われ、こけた。


 本当に襲われていたら間違いなく胃袋に収まっていただろう、見事な反射神経だ。


 くすくすとリィルが笑っている。


 俺の後ろにはアリスとリサが立っていた。なぜ、突然自分にびびって俺がこけたのか、アリスが不思議そうな顔をした。


 俺は泥水に濡れたケツをじゅぼっと引き上げた。


 そういえば俺たちには暗黒術師のアリスが一緒なのだ。そんな物騒な魔獣がいたらアリスが真っ先に気づいて対応するだろう。彼女が警戒していない以上、安心していて良いのだ。

 

 「カイン、大丈夫う?」

 相変わらずリサはかわいい。

 「ふっふっふっ、大丈夫だ。なんでもない。そこにいた虫は俺が尻でつぶしておいた」

 俺はケツの泥を払った。


 「何をわけのわからない言い訳してるの?」

 セシリーナがあきれている。


 「虫さん、つぶれた?」

 リサが小枝で俺のケツの跡の泥を突いた。


 「!」

 不意にアリスは遠くを見た。

 遥か遠くで地鳴りの音がしたような気がした。


 「どうした? 何かあったか?」

 「いえ、なんでもありません。ほら、地平線を何かが移動しています。あれは野性の沼牛の群れですね。魔獣ヤンナルナが餌にしている動物ですが……。遠いから大丈夫でしょう」

 まさかそこに魔獣がいるのか? さっきの地鳴りは? と聞くのも怖い。


 「さあ、こんな所でもたもたしていないで、あの村に行くわよ」

 セシリーナがリサの頭を撫でた。


 「それにしても期待を裏切らない見事なこけっぷりでした。感心しましたよ」

 「うう、リィルめ、騙された。もうパンツまで濡れて気持ち悪いぞ……」

 俺はニヤニヤしているリィルの前でケツを叩いた。





 ◇◆◇


 「ひいいい! 化け物じゃ! 闇術が効かぬ!」

 傲慢に振る舞って3人の闇術師を使っていた男が情けない悲鳴を上げた。


 「ここはお逃げ下され! 私が食い止め……ぎゃあああああ!」

 逃げる男の前に立ちはだかった男が放った闇術が突然逆流し、自らの身体に燃え広がった。炎と腐食効果の闇術だったらしい。


 「これで2人、あとはあの柱の影に隠れた男だけです」

 目の前で黒いフードを被った邪悪な闇術師の男が灰になった。


 イリスは、リサ王女を追ってきた帝国軍の闇術師たちと各地で戦ってきた。そして今、その闇術師たちを指揮していた男をついに柱の影に追い詰めたのだ。


 柱の陰に臆病に身を縮めて震えている男。帝国の手先と化した闇術師一派の長にしては小者だ。

 

 「これでお終いです」

 イリスが指先を男に向けた、その時だった。


 「!」

 駆けるイリスの背後から追跡するように短いナイフが飛んできた。まだ他に敵がいたのか? 意表を突かれた形だがイリスは冷静に対処する。


 これは誘導魔法を付与した毒剣?

 イリスは複雑な軌跡を描いて左右に身をかわし、地面に両手をつき、回転しながら跳躍した。直後、追ってきた短剣が地面に次々と突き立っていく。


 「やるわね、あなたたち? ただの闇術師じゃないわね?」

 イリスは新手の二人の気配に気づいて振り返った。ここまで接近するまでイリスにその気配を感じさせなかった。それだけを考えてもかなりの強敵だろう。


 「ふははははは……! 形勢逆転じゃ、グルゴン様に支援要請をしていたが間に合ったようじゃ! この者たちはお前にとっては天敵ぞ! さあ、その女を始末するのじゃ!」

 柱の影に隠れていた闇術師が九死に一生を得たとばかりに歪んだ笑みを浮かべた。


 「俺は闇術師たちに雇われし、暗黒術使い専用の殺し屋」 

 男は悠然とイリスの前に立ちはだかった。


 「同じく。お前を殺しに来た者だ」

 邪悪さよりも殺気が凄い。二人とも一流なのだろう。


 「暗黒術使い専用の殺し屋ですって?」

 黒いレザーアーマーに身を包んだ二人の男は明らかに今まで戦った闇術師たちとは違う。


 こいつらのことは噂で聞いたことがある。邪悪な教団を組織した闇術師たちの元で用心棒をしている奴らだ。

 こいつらが姿を見せたということは、帝国に仕えリサを追ってきた闇術師たちも教団と関係があったということ。いや、もしかすると最初から教団自体が帝国の意図で作られた組織なのかもしれない。


 一人は左、一人は右のブーツの帯に短剣を挟めている。二人の男は全く同じ仕草で黒い革手袋を締め直した。どうやら左右からの同時攻撃が得意な連中のようだ。


 「悪いのですけど、あなたたちに構っている暇はないのです」

 イリスは幻惑術を発動させ、逃げようとしている最後の闇術師を先に倒してしまうべく、柱の影から飛び出した男に指先を向ける。リサ王女を追跡しているのは闇術師だ。こいつらではない。


 「無駄だ!」

 「えっ? 暗黒術が効いていない?」

 背中に迫った冷たい気配に鳥肌が立った。


 とっさに左右から迫った銀の刃をギリギリのタイミングでかわし、後方に跳躍し、体の向きを変えて地面に着地した。


 足元に上がった砂煙が風にたなびく。

 二人の男は驚くイリスの表情を見てニヤリと笑みを浮かべた。


 「俺たちの服には対暗黒術の力がある。この服はお前たちが神の化身と崇めていた蛇の皮でできているのだ」

 「このウロコ、見覚えがあるはずだぜ?」


 「!」

 イリスの顔色が変わった。


 「まさか、黒峡谷の……神のお使い様を……」

 信じたくはない。だが、奴らのレザーアーマーの背中の鱗に見覚えがある。

 蛇人族の国の聖地、黒峡谷に住む土地の守り神、イリスたちが生まれた時に祝福を与えてくれた人語を解する老齢で優しい大蛇様のウロコである。


 「よくも……」

 イリスの瞳に怒りの炎が浮かんだ。


 「あの蛇と同じように死ぬがいい!」

 「さっさとくたばれ、化け物め!」

 男たちは同時に片手を前に突き出した。


 「「光術! 闇なる者を捕縛せよ!」」

 イリスの目の前に光の網が広がった。

 その余りのまぶしさに目がくらむ。


 「これで終わり! 簡単なものだ!」

 「死ね!」

 同時に跳躍した男たちが短剣でイリスの胸を刺し貫く!


 「よくも!」

 ぎりっと歯を食いしばり、光で麻痺する腕を動かす。


 金属音がしてイリスの胸の前で短剣が止まっていた。

 男たちの剣先から火花が散り、次の瞬間、剣が弾き返され、男たちは反撃術を喰らって仰け反った。


 「おっと、あぶねえ!」

 「やるじゃねえか!」

 男たちはイリスが放った闇の刃を受け流し、後方に退避するとニヤリと笑った。


 「それでなくては、殺しがいがない」

 「なぶり殺しだ、暗黒術使い」


 「貴様ら光術師か、帝国の犬め!」

 イリスは激しい怒りに包まれている。

 光術は暗黒術と同レベルの最高位魔法である。その使い手が二人。最高レベルの術使い同士の戦いにおいて、一対二はかなりのハンデである。


 「我らが使命はお前たち暗黒術師を一人残らず殺すこと」

 「そして暗黒術師が封じている邪神竜の状態を不安定にすることだ」

 二人の黒い男は片手で銀色の短剣をくるくると回転させながら近づいてくる。


 イリスに対して何の恐れも慢心もない。その表情から見えるのは確実に殺せるという自信だけだ。


 「邪神竜を? そんなことをすれば邪神竜が暴走して世界が滅ぶぞ!」

 叫びつつ、イリスは素早く周囲に探索の目を広げる。

 生き残りの闇術師は少し離れた瓦礫の影に移動してこっちの戦いを見ているようだ。どこまでも広がる草原、スーゴ高原にこいつら以外には人影はない。


  何が起きても被害はこいつらだけで終わるだろう。


 「邪神竜の暴走? くくくく……それこそ、我と我が主の望むことだ!」

 ダッと二人の男が駆け、あっという間に目の前に迫る。


 「狂人め!」

 繰り出した鞭が唸りを上げ、二人の剣を弾く。

 ーーーー草原の中、幾度も光が閃き、黒い鞭が風を裂いた。


 「はぁはぁ……」

 イリスは肩で息をしている。手足からは血が滲んでいる。麻痺毒を仕込んだ刃のようだ。暗黒術で中和しているがそれでも動きが鈍くなってきている。


 暗黒術を無効化されては、本来の力の一割も発揮できない。

 それに対して奴らの光術はかなりの有効打になっている。それに加えて剣術の腕も一流だ。


 さすがは暗黒術使い専用の殺し屋と自負するだけの実力者だ。 おそらくその点に特化した存在としては帝国随一だろう。

 暗黒術使いに対する防御力と攻撃力は、間違いなく魔王様や貴天すら凌いでいる。


 「そろそろ終わりか? 粘った方だが、そろそろトドメを刺させてもらうぞ」

 「覚悟はいいな、女よ」

 二人の男はかすり傷一つ負っていないのだ。


 「くははははは……いい気味じゃ、やってしまえ!」

 隠れていた闇術師の男も二人の勝利を確信したのだろう。自分を追い詰めた暗黒術師の無残な死をその目で見るためか、こっちに近づいてきた。


 イリスはボロボロになりながらもかろうじて立っているが、誰が見てもあと数回男たちの攻撃をかわせるかどうかだろう。


 「「トドメだ! 光術、無限の矢!」」

 二人の男は短剣を前に突き出し叫んだ。短剣の先にまばゆい光が集まり出す。攻撃を受けた相手が肉片となって消滅するほど爆発的に無数の矢を撃ち出す光術だ。


 その時だった。

 イリスの口元が緩んだ。


 「!」

 イリスが微笑んでいるのだ。

 気が狂ったのか? だが、どうなろうともう終わりしかない。

 「「「死ねっ!」」」

 イリスを前に、三人の男が同時に叫んだ。


 短剣の先から炸裂した高次の光術の矢は……出現と同時にねじ曲がった空間の裂けめに一瞬で吸い込まれ消えていった。


 何が起きたかわからない。

 男たちが感じたのは頭蓋骨が震えで砕けるほどの共鳴振動、そしてとてつもない重力だろうか。凄まじい超低音の地鳴りと共に大地が大きく揺れた。


 イリスの目の前、男たちが立っていた場所に雲まで達する空間の亀裂が生じていた。


 そこから突き出した巨大な突起物が硬い岩盤をえぐって深さ数mもの巨大な陥没穴を生じさせている。瞬きする間もなく三人の男たちは一片の肉片すら残さず地上から消滅していた。


 「助かったわ」

 イリスはその穴の縁に生じた岩塊の上に立ち、その突起の先端を撫でた。

 ゴゴゴゴ……と地鳴りを響かせ、それが空間の裂けめに戻っていく。


 「本望のはずですよね。あなた方が望んだとおり、邪神竜に触れて消滅したのですからね」

 イリスはそう言って額の汗を払った。

 イリスが飛び乗った岩を残して、周囲の大地は灼熱の溶岩と化してふつふつと湧き立っていた。

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