第102話 クリスと背後霊
灰色のコートで全身を隠しているが、フードの奥で鋭く目が光っている。誰なのかはもうわかっている。
「なぜ、ここにいるクリス。お前たちは外出禁止だと言っただろ?」
その言葉にくすっと笑ってクリスが木材から飛び降りる。
「カイン様、会いたかった!」
「うわっ!」
クリスはわざとらしく大げさに抱きついてきた。
毎回思うが、クリスの乳房の柔らかさ、それはもう……た、ま、ら、ん。見上げる瞳には情熱的な熱い輝きが! くぅっ、可愛い! 肉感的! このまま押し倒してしまいたーい!
俺は抱きしめたくなる手を必死に押し留める。
俺の葛藤を愉しむかのようにクリスは嬉しさ一杯で俺の胸に顔を埋める。
小動物のように頬をすりすりする仕草が愛らしすぎて劣情が下半身を支配する。
くんかくんかと俺の匂いを吸い込んで俺成分を補充中という感じ。幸い肥溜めの匂いはしなかったらしい。
「抱きつくな。ちょっと離れろ。ここでは目立つ。いくらなんでも道の真ん中だぞ。まずいだろ」
「目立つ? 私だったら問題ない。アリスみたいなヘマ、しない」
クリスがニヤリと笑ったとおり、冴えない男に超絶美女が抱きついているというのに通りを行き交う人々は誰一人振り向かない。
通りには夕方で自宅に帰る者たちの姿が多いのに、誰も気にも留めない。これはクリスの得意な遮蔽術か。
「私たちはみんなの意識の外。大丈夫、全然見えてない。だから安心」
「暗黒術を使ってるな?」
「そう、誰にも見えてない。それに、ここにはセシリーナも、いない、この世界には二人だけ」
そう言って急に真面目な顔で俺を見つめる。しかし、すぐに真剣というより、どことなくイタズラっぽさを感じさせる、いつもの妖しい笑みが口元に浮かんだ。
恥ずかしそうな悪戯っぽい表情をしながらも澄んだ瞳は熱く清い。その悪戯っぽさや強引さはじつは無垢な乙女らしい照れ隠しだ。
俺を抱きしめる手に変に力が入っている。擦り付ける張りのある豊かな胸の感触が生々しい。純真ゆえに欲望にも素直だ。
「カイン、私に、ここにキスする」
クリスは指先で唇をぷるんと撫でここぞとばかりに攻めてくる。
逃がさないとばかりに俺の首に両腕をまわし、背伸びすると愛らしい唇が近づく。
しかも誘惑術を使っているのか、俺は身動きできない。
軽く唇が触れた。
と思ったらめちゃくちゃ吸い付いて、舌まで入れてきた。相変わらず大胆なやつだ。
「ねぇ、あの小屋には、誰もいない。休憩室……中には、ベッドもある。確認済み。あとは、ヤルだけ」と俺の耳元で愛らしい声でささやく。
だ、だめだ、ディープキスで頭がクラクラする。しかもこうして間近に見るとクリスは理性を破壊する完璧乙女。あまりにも可愛い。美しい、きれい、その純真さ、彼女の全て奪ってしまいたくなる。
押しつけられている感触はセシリーナよりも柔らかい。きっと抱き心地は最高だろう。
「カイン、やせ我慢しない」
俺を誘うその瞳。
清らかで妖艶な胸の谷間に目が釘付けになってしまう。本当にこのままでは狼になってしまいそうだ。
俺の視線は小屋の入口の左と右を行ったり来たりした。
小屋までわずか十歩。
このまま左に入れば……クリスと……。
「後先など考えるな、小屋に入ってしまえ! ヤレ! ヤルんだ!」と悪魔の手先と化した下半身が叫んでいる。
だが、危うく血がたぎる手前ぎりぎりで俺は何とか耐えた。
クリスは目立たないように配慮してきたのか、地味な農作業用の服を借りて着ていた。そのおかげで助かった。
いつものエロいメイド服で迫られていたら俺の理性は木端微塵に吹き飛んでいただろう。いや危なかった。
「ま、まて。今はダメだ」
「カイン様、本当にへたれ、こんなに固くなってるのに」とクリスは大胆にぎゅうと掴んだ。その握り方はセシリーナと違って、いかにも慣れていない。はっきり言って痛い。
「ばか、離せ」
「ちぇ。けち」
クリスはそう言って俺の頬にキスをして一歩離れた。
「さて、俺のために姿を見せたんだろ?」
クリスは乙女チックににっこり笑った。
「みんなに連絡したいこと、あれば聞く」
さっきのは演技だったのか本気だったのか、さっぱりわからない。
「やっぱりそうか、何て言うか流石だな。あんな遠い距離から俺の考えを読んだのか?」
「うーん、さっきのはちょっと違う、考えを読ませていた?」
「読ませていた? 俺の考えを? 誰に?」
周りに他の人や使い魔はいないようだが。
「ほら」とクリスは俺の背後を指差したが、当然誰もいない。
「その背後霊。そいつがカインの考えを読み取って、私に報告した」
「背後霊! 背後霊って何? 凄く怖い」
俺はきょろきょろと後ろを振り返ったがいないものはいない。
「無理、本人には見えない。そいつ、すごく素早い。後ろを向いたら、首が動くと同時に、死角に逃げる。だから、絶対、見えない。あと、むしろ、見ない方がいい」
凄く怖いことを言う。
「それじゃあ何か? 俺の後ろにいつも霊がいてそいつが俺をガン見していて、ちょっとでも後ろを見ると見えない位置に動いているということか?」
無情にもクリスはうなずいた。
見ない方がいいという言い方もかなり気になる。
「背後霊って、害はないのか? 悪霊の類とか?」
「害はない、何もしない、見てるだけ。たまに気まぐれでカインを助けている。まだ害はない。今はまだ……」
「ちょーっと待て! 最後に言った言葉がものすごく引っかかるんだが? ”今はまだ”って言わなかった? 将来は分からないのか? 一体どんな霊なんだよ?」
「んんん……。言っても、大丈夫? ショック、受けても、私、知らないけど」
「聞かせてもらおうじゃないか!」
「さかってる化粧の濃い巨乳の美女、かなりエロエロ、見えないのをいいことに、色々やってる。カインの、妄想の集合体みたいなもの。ーーーーでも実は男」
「ぐおおおお!」
俺は顔面を押さえて仰け反った。
やはり、クリスの言うとおり聞かなければ良かった。
いつもそんな変態を引きつれて歩いていたとは!
見える霊能力者が見たら、思い切りひくだろう。そういえばナーヴォザスや双蛇の奴が似たようなことを言っていた気がする。
もしかして俺が周囲からすぐに変態扱いされる事態に追い込まれるのは、そいつの影響ではないだろうか?
「カイン、その考え、少しあたり。良く、気づいた。さすが! 見直した!」
クリスは親指を立ててうなずいたが、全然うれしくない。
「おいおい、おれは一言もしゃべっていないぞ」
近くにいるだけで普通に俺の考えを読むクリスも怖い。
「でも、本当は凄い霊、大昔の変態勇者、何か大きな剣みたいなのに取りついていたのが、何かの切っ掛けでカインに乗り変えた。だから、カインは『勇者の魂を背に負う者』の称号を……」
「まて、そんなこと……まったく身に覚えが、ってまてよ、サティナの大剣は確か
がっくりうなだれる俺。しばし精神的ダメージから復活するのに時間を要した。
だが、どうせ見えないのだから、いないのと同じだ。
クリスが「そうそう、それ長生きの秘訣」とうなずいた。
人の考えを当たり前のように読む、それももはやどうでもいい。気にしなければ良いだけだ。しかし、元勇者なら超常の力でも発揮して俺を守るような存在なら良かったのに、そんな事はあまり期待できないらしい。
「ーーさて」と気をとりなおす。
「クリス頼みがある。屋敷に戻ってセシリーナたちに事の
「なるほどわかった。カインは、夕食を、ここで食べていく。山黒豚肉は美味いらしい、これは見逃せない」
「ちょっと違う。夕食会に参加するのは山黒豚肉だけが目的じゃない。この夕食会でカムカム伯の動きを知りたいんだ。カムカム伯に同行している貴族が夕食会の主賓らしいし、宴席の方が色々と情報を得やすそうだからな」
「わかったそう伝える。まかせて! ついでにカインが、さっそく可愛い娘を見つけて、悪い目つきで、見てた、と報告……」
「ちょっと待て!」
立ち去ろうとするクリスのスカートのすそを掴む。
「今の最後の文は不要だ。ゴルパーネ嬢に関しては、俺は全くその気はない。絶対に言うなよ!」
きっぱりと断言する。
「それだと、面白く、ない」
「いやいや、別に面白くすることはない。それよりもセシリーナが誤解したら大変だ」
「誤解、させたいかな……」
ふっふっふっ……と笑うクリス。
うわーー、こいつ暗黒術師の顔だ。何を企んでいるのやら。
「セシリーナに、そっぽ向かれ傷心のカイン、そこに付けこんで、弱った心を鷲掴みにして、クックッ、私の支配下に……」
「アホか?」
ぺしと俺はクリスの額を弾いた。
「まずそういう邪な考えはやめろ。お前、元々美人なんだからもっと普通にしとけ。素直に行動したら、その方がきっとかわいいんだから」
あれ、何か言い方を間違ったか?
「かわいい!」
ぱっとクリスの表情が明るくなった。
「カイン、今、かわいいって言った?」と頬に両手を添えモジモジする。
「ーーーー素直に行動、かわいい、これはもう、交際宣言では? 私への、愛の告白なのでは?」
「落ちつけ、クリス! はしゃぐな!」
「わかった! 今後は、もっと正々堂々、正面から迫る! 本気、カイン様の愛に、応える! それじゃあ!」
待て! という前にクリスの姿はあっと言う間に消えた。
ああ、もうどうしようもない。
あの調子で夜這いでもかけてこられたら、かなりまずい。暗黒術を使えば俺の部屋に潜り込んでくることなど簡単だろう。
もしかするとサティナ姫の夜這いよりも遥かに危険かもしれない。これはイリスとアリスにクリスを見張らせておく必要がありそう。
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