第101話 ネルドルとゴルパーネ
俺は必死に深い肥溜めから出ようと石組に足をかけた。
とにかく臭い、臭くて死にそうだ。ここ数か月で何度糞尿まみれになるのか、もはや新記録だ。
「ぬおっ、にがさんぞ」
俺よりもどっぷりと頭の先まで肥に浸かったネルドルが逃げだそうとしていた俺のズボンを掴む。
「や、やめろ。離せ!」
「誰が、離すものか……ゴブゴブッ……」
そう言ったネルドルの手が俺のズボンを掴んだままその体が再び深みにはまって沈む。ビリビリとズボンが裂けた。
「ば、馬鹿野郎!」
俺は下半身丸出しになって肥溜めから這い出た。奪われた俺のズボンとパンツはネルドルとともに肥溜めに沈んだ。
「ぐげおおお!」
深みにはまったネルドルがもがく、もしかしてこいつ泳げないのか?
「大変! 誰か! 助けて! ネルドルが肥溜めに落ちた!!」
ゴルパーネが大声で叫んだ。
俺は肥溜めの周りに生えた木の蔓を左手で巻いて、右手でもがくネルドルの手を掴んだ。
「俺に掴まれ、まずは息を確保しろ! 石組みに足をつけろ」
「ブベっ、靴が滑る、足がつけない。ゴブゴブッ……」
ネルドルは糞尿をぴゅうと噴水のように吐く。力むが重くて持ち上がらない。
「バカっ、靴を履いてるからだろ! 靴を脱げ! 惜しいと思うな! 今は靴は諦めろ!」
俺は精一杯の力でネルドルを引き上げる。
ぐしょとネルドルの片手が地面に付く。握りしめられた俺のパンツが汚汁を撒き散らした。俺は全身の力を込めてネルドルを引き上げた。
「むむむむ……!」
「かはっ! ゲホ、ゲホ、ゲホ、た、助かった……」
ついにネルドルが肥溜めから上がってその場に倒れた。
「ひどい重さだった……腕が抜けるかと思った……」
俺ももはや体力を使い果たし、地面に寝転ぶ。
流石のネルドルも俺の隣に仰向けに寝転んだ。
「ネルドル! 大丈夫! 生きてるの!」
駆けよったゴルパーネ嬢が茂みを掻きわけ、そしてなぜか急に固まった。顔を両手で隠している。
あ、しまった。という表情でネルドルが俺を見た。その顔には冷たい笑みが浮かぶ。
俺もネルドルを見てニヤッと笑う。
ネルドルもなぜか下半身丸出しだ。
ひゅゅーーと風が吹く。
しかもネルドルは力み過ぎたのか、死を感じて子孫を残そうとする本能からなのか、そそり立ってしまっているから余計に始末が悪い。
ふっ、だがあれだけは俺は負けていないようだ。いや、むしろ俺の勝ちだとも言える。俺は妙な自信がついた。
「ば、ばか、ばか、ばか、ネルドルまで、ばか!」
ゴルパーネが慌てている。
「どうした? 何かあったのかね?」
ゴルパーネの後ろから冷静な声が聞こえた。
俺とネルドルは身を起こした。
あまりの衝撃で、もはや争っていたことなど忘れている。むしろ同じ境遇、おなじ下半身丸出しを経験して、なぜか妙な同士意識が芽生えていた。
「これは、マラッサ様、仲間が肥溜めに落ちてしまって」
ゴルパーネは風車の持ち主で修理の依頼者である屋敷の主人を見た。その隣には見知らぬ男がいる。かなり良い身なりで貴族に近しい者なのだろう。
「その人族がお前を助けたのか?」
「はっ。マラッサ様」
ネルドルは股間を手で隠しながらうなずいた。
「ふーーむ」
「てっきり変態犯罪者だと思って殴りかかり、一緒に肥溜めに落ちてしまいまして……。でもこいつ、逃げずに溺れかけた俺を助けてくれたんですよ」
「そうか良い行いをしたな、人族の男よ」
隣に立っていた貴族風の魔族の男が言った。
「仕事に戻るにしても、このままでは臭くてかなわんな、ゴルパーネ、二人を母屋に案内しなさい。特別に私の屋敷の水場で体を洗うことを許可しよう」
マラッサは鼻を押さえながら自分の屋敷を指差した。
「ありがとうございます。マラッサ様。ご迷惑をおかけします」とゴルパーネ嬢が頭を下げた。
「良い良い、それよりも期日までには風車をしっかり直してくれよ」
「はい、それは間違いなく。仕上げます」
「お前たち二人はこの辺りでは一番の大工としてその腕を見込んでいるのだからな」
「はい、ご期待に添えるよう努力いたします」
ゴルバーネが丁寧に礼を言う。
マラッサとのやりとりをすっかりゴルパーネ任せにしてネルドルが改めて俺を見た。
「それにしても、お前この辺りでは見かけない顔だが、名は何と言う? もちろん人族だよな?」
「俺はカイン、平凡な人族だ」
「まだ、お前への疑いが完全に晴れたわけではないが、一応礼を言おう。助かった。ありがとうよ」
ネルドルは糞まみれの顔で笑う。
「さあ、我が友、バルドン卿、久しぶりだから屋敷で盛大にもてなしの準備をさせている。今日は思い切り飲み明かそうぞ。最近の都の様子でも聞かせてくれ」
マラッサは隣の男の肩を叩き、二人して屋敷に戻っていく。
ゴルパーネは腰に両手を付いて俺たちを見下ろした。
「さあ二人とも、早くそこから離れてよね! すぐ水場に直行よ! あ、ば、ばか! 立つなら前をちゃんと隠しなさいよ。ネルドル!」
ゴルパーネの目の前で仁王立ちのネルドルである。
ゴルパーネは手で顔を隠したが、指の隙間からしっかり見ているようだ。
ゴルパーネに急かされ、俺たちはマラッサの屋敷の水場に飛び込んだ。大男が4人は入ることができそうな規模の水場である。俺たちは桶に水を汲んで頭から汚物を洗い流す。
「これを使え。ゴルパーネの私物を拝借してきた」
ネルドルがぽんと何かを投げてよこす。花の香りの石鹸だ。
これは貧乏貴族にはめったに使えないような高級品だ。俺は泡だらけにして隅々まで磨く。くんくんと腕の匂いを嗅いでみる。
丁寧に磨いていると、いつの間にかネルドルがじっと俺の股間を見ている。
「な、何だ?」
まさか、そっちの趣味があるんじゃないだろうな。俺は急に身の危険を感じた。
「いや、お前が凶悪犯の変態というのは、完璧に誤解だったなと思ってな。お前の腹のその婚姻紋はめったに見られない素晴らしい形だ。俺がわかるのは魔族の紋だけだが、かなり純粋で一途な愛情が感じられる。他の2つもとても美しい紋だ。強引に服族させた紋はいびつになるから、見たらすぐわかるからな。すまん、俺たちの早とちりで迷惑をかけた」
「いや、いいよ。今さら仕方がない」
俺はちらりとネルドルを見た。ネルドルのへその下はつるりとして綺麗なもんだ。まだ妻は一人もいないらしい、この体格とイケメンぶりで俗紋すらないのは驚きだ。
貴族と違って庶民には多くの妻を娶る義務がないからそういう者も多いのだが、こいつなら言い寄ってくる女性には事欠かないだろうに。
「ゴルパーネ嬢は、ネルドルの恋人なのか? 彼女、実は美人だよな」
俺がふと尋ねると、急にネルドルの表情がカチカチになる。
「わわ、な、何を、言い出す、そんなことある訳が……」
これは非常に分かりやすい男のようだ。
「いや、普通にかわいいだろ? 化粧したらきっと物凄く化けるぞ。胸は大きいし、足はすらっと長いし、腰付きも良い。安産型かな」
「……」
ネルドルは顔を赤らめ、いよいよ無口になってごしごし体を洗うと、男らしく水を頭から被った。
「そろそろ出るか」
「そうだな」
ネルドルが出口に向かう。俺はその後を追う。
「二人とも! いつまで入っているの!」
その時、バンと扉が開く。
まったくそのタイミングが最悪である。
ゴルパーネの視線がまたもや仁王立ちのネルドルの股間に落ちて……。
「ぎゃわーーーー! また、妙なものを見せないでよ! ネルドル! あなたまで変態でどうすんのよ! ひゃあ、揺らさないで、早く隠して!」
ゴルパーネが顔を赤くしてタオルを投げ込んだ。
今回は汚物に汚れていないから、丸出しそのものなのだ。
タオルはネルドルの股間に引っ掛かった。
「す、すまん、これは正直すぎてな」
お前が正直だ。
俺はつっ込みを入れたくなったが自重しておく。
恥ずかしがってはいるが、ゴルパーネもさっきは指の隙間からしっかりとネルドルの股間を見ていたのを知っている。
「俺たちは同郷の戦災孤児でな。ゴルパーネは妹みたいな存在なんだよ。大工の親方に拾われて育てられた。俺が一人立ちしてからは二人で旅をしながら仕事をしているのさ」
ネルドルは着替えながら言った。
「妹か、まあ今はそう言うことにしておこう」
俺は真新しい上着に袖を通す。着ていた服が使えなくなったので上下の服を貰った。しかも今までの服よりずっと上等な代物だ。これはラッキーだったかもしれない。
「ネルドル、それにそっちの男! 今日は特別な祝いをするから夕食会に参加して良いってマラッサ様がおっしゃってるわ。支度ができたら食堂へ来てちょうだい。クリウスたちや他の大工仲間にはもう伝えたから先に行ってるわね」
ゴルパーネがちょっと顔を出して、またパタパタと行ってしまった。可愛いのだが、落ちつきのない娘だ。かなりそそっかしいとも言える。そのせいで、俺もこんな目に遭ったのだ。
「俺はいいよ。そろそろ行くから」
そう言って外に出る。夕焼け空が畑向こうに広がっていた。
水場を借りて、服まで貰った。そのうえ夕食会にまで出るほど厚かましくはない。「待て」と立ち去ろうとする俺の肩をネルドルの大きな手がつかんだ。
「そう言うなよ、俺としてはお詫びの気持ちもあるんだ。まあ、俺が夕食会を準備したわけじゃないから、偉そうなことは言わないが、せっかくマラッサ様が俺たち大工仲間にも飯をおごってくれると言うんだ。お前も大工仲間のふりをして参加してくれよ。俺の友人も大工じゃないが参加してるし、問題ないだろう?」
「ううーん、実は用事があるんだよな。大事な」
もう夕方だ。早くカムカム伯の動向を探って帰らねば。それとも、もしかすると俺がもたついているうちにサンドラットが全て調べただろうか?
「そうなのか? それでは仕方がないか。豪華料理で、めったに食えない山黒豚も出ると聞いたんだが、残念だ」
「山黒豚?」
俺の足が止まった。商人として興味をそそられた。
別に肉が食いたくなったわけではないと言い訳しておこう。
「ああ、山岳地帯で飼育されている地豚でな、肉はとろけるように美味い。今は都の一部の貴族しか手に入れられない肉で。普通は庶民の食卓に上がることはないんだ」
「なぜ、そんな高級肉が出せるんだ? マラッサというのは実は貴族か何かなのか?」
「いや、マラッサ様は村ではそこそこ地位のある方だが庶民だよ。先の大戦でマラッサ様と同じ隊で苦労を共にした貴族の手土産だそうだ。さっき、マラッサ様と一緒にいた方だよ。本当は村を通りすぎる予定だったのが、主人の気が変わって急に二、三日この近郊で野営することになったらしいぜ」
「ん?」
通り過ぎることになっていたのが急に予定変更、しかもお貴族様のご一行と言えば、これはもうカムカムのことに違いない。
これは、下手に遠くから野営の様子を探るよりも内部の情報が得られるチャンスかもしれない。
「うーん、貴族からの土産の肉か、そいつはめったに食えないな」
俺は腹をさすった。もちろん演技だ。
「な、そうだろう? やっぱり食べていけよ」
ネルドルは俺の態度の変化に何の疑問も持っていないようだ。純朴な男なのだろう。
「そうだな、その貴族の話も聞いてみたい気がするし、わかった。夕食会に出るよ」
「おう、そうこなくちゃ。会場は母屋の大広間だそうだ。さあ行こうぜ」
夕食会に参加するとすれば少し帰りが遅くなるだろう。セシリーナたちが心配するかもしれない。連絡をどうしようかと思っていると、道路に積まれた木材に座ってこちらを見ている影に気づいた。
というか、今まで気づかせないようにしていただけで、俺が連絡をどうしようかと思ったので、俺に気配を気づかせたというのが正解だろう。
「ネルドル、ちょっと用を思い出した。先に行っててくれ」
「ん? ああ、そうか、俺たち用の便所はあそこにある。右の入口の方だからな。左は休憩室だぞ。あと大の時は生け垣の葉をむしって使え」
妙な気を回したネルドルが、屋敷境の生け垣の脇に建つ簡素な作業小屋を指さした。
「ああ、わかった」
ネルドルが母屋に入っていくのを見届けてから、俺は木材の上で足をぶらぶらさせて微笑んでいるそいつに近づいた。
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