第72話 渚でデート?

 ◇◆◇


 囚人都市では未だに混乱が続いていた。出現した死肉食らいに対して帝国軍駐留部隊はあまりにも戦力不足だった。鎮圧するどころか、援軍が無ければもってあと数日というところまで追い詰められている。


 わあああ……! と大勢の囚人が一斉に逃げ出した。


 王城地区前面で行われている攻防戦のさなか、砦前面に兵力を集中した帝国軍が隙を突かれた。

 死肉ぐらいにも知恵のある奴が紛れていたらしい。王城の塀の前に仲間の死骸を積み重ねて壁を越えてきたのだ。


 死肉食らいがどっと王城区域に侵入してくると避難していた人々に襲い掛かる。


 「きゃああ!」

 大勢の囚人が悲鳴を上げて逃げる中、後ろから押し倒されて転んでしまったキララが悲鳴を上げた。


 その背後に死肉食らいが猛然と迫る。


 「お姉ちゃん! 立って!!」

 ラサリアが棒切れを持って、勇敢にも転んだ姉の前に立ちふさがった。


 「ラサリア! 危ない!」

 叫んだキララの前で、ラサリアが「ええい!」と死肉食らいに突進する。


 技も何もない、がむしゃらな突きである。

 バキッと音を立て棒がぽっきりと折れたが、その先端は偶然にも死肉食らいみぞうちに入った。

 

 グガアッツ!!

 死肉食らいがみぞうちを押さえて数歩後退する。願ってもない幸運!


 「今のうちよ、逃げて!」

 「キララ姉ちゃん、早く立つんだ!」

 転倒に気づいて戻ってきたラッザがキララを立ち上がらせる。


 「ラサリア! お前も逃げるぞ! 早く!」

 振り返ったラッザの目にラサリアの小さな体が吹っ飛んでいくのが映った。死肉食らいがその腕でラサリアを薙ぎ払ったのだ。


 「ラサリアーーッ!!」

 

 ぽんぽんと毬のように転がったラサリアが植え込みに背中から突っ込んだが、密集した枝に救われた形になった。ラサリアがすぐに体を起したのが見える。


 「だ、大丈夫! 大丈夫だから。ラッザ、先に逃げて!」


 よろけながら立ち上がるラサリアの元へ、死肉食らいが両手をひらひらさせながら走り寄るのが、見える。


 ーーその口は凶悪に開かれる。汚れた口腔に血と何かの粘液がぬめ光る。


 咄嗟に頭を守ったラサリアだが、死肉食らいは少女の右腕の肉を噛み切ろうと飛び掛かった。


 ダメだ!!

 ラサリアは逃げられない! 助けに! だが間に合わない!


 絶望の瞬間、ラッザとキララは硬直し、動くことなどできなかった。やられた! 脳裏に不可避の惨劇が浮かび、耐えられず目を背け、耳をふさいだ。

 

 想像するのはラサリアの悲鳴、そして繰り広げられるのは肉を裂き、骨を砕く、おぞましい咀嚼音…………

 だが、スローモーションのように数秒が経過していく。

 悲鳴は発せられず、肉を喰らう音も聞こえない。


 何が起きたか分からない。

 二人は信じられない思いで、真っ二つに裂かれた怪物が宙を飛び、地面にその汚い臓物を撒き散らすのを目撃した。


 疾風のごとき速さ!

 音もなく突き進んできた影は、死肉食らいがラサリアに噛みつく直前にそいつを一刀両断していたのだ。



 「ーーーー大丈夫か? 娘っこ」

 その影、……白髪の老人は血の滴るなたを片手に下げ、もう片手を差し出して微笑んだ。


 「あれは、薪割りのスザ爺さん?」

 「まさか……」

 ラッザとキララは目を丸くした。いつもは腰が曲がってヨボヨボと杖をついて歩く爺さんではなかったか?

 ラッザは、誰かにあれでも昔は騎士だったんだというホラ話をおもしろおかしく聞いたことがある。


 しかし、目の前のスザは背筋もしゃきっとして、ヨボヨボなところなど一切ない。しかもその剣さばきと立ち振る舞いはまさに騎士!


 「あれがスザ爺さんだって? うそだろ?」

 これが現実だとは思えない。ラッザとキララは息を飲んでスザがラサリアに近づくのを見ていた。


 「怪我はないかのう?」

 「大丈夫、茂みがクッションになったの」

 ほっとした表情でラサリアはその手を取った。


 「勇敢じゃったな? ラサリアだったか? ここは危険だぞ。早く館まで後退しなさい」


 「あ、ありがとう」

 それしか言えず、ラサリアはおじきをすると転がっていた棒を再度拾ってラッザとキララに向かって走りだした。


 「ーーーーふむ。死肉食らいに立ち向かうとは勇敢な娘だな。あんな攻撃を受けてまだ戦意を失っていないか。あの子は見どころがあるかもしれんな」

 スザ爺は微笑みながらその愛らしい後ろ姿を見送った。


 あの勇気と胆力じゃ。あの歳から鍛錬すればいずれ一流の騎士に育つかもしれぬな、これはおもしろい。


 その後ろ姿は、旧王国最強の騎士と謳われ王からラングラットの貴族名を賜ったスザ・ベルモンドが雌伏の果て、ようやく見つけた一つの光にも思えてくる。


 「さて、あの子らのためじゃ、こいつらを片付けてしまうかのう……」

 ベルモンドは次々と侵入してくる死肉食らいを前にニヤリと微笑んだ。




 ◇◆◇


 少し歩くと広大なデッケ湖が見えてきた。


 湖の周囲には石畳の街道が巡り、その内側に砂浜と水辺が広がる。デッケ・サーカの街はかつては貴族のリゾート地としても有名で、セシリーナの叔母の別荘も湖の畔にあったという。


 湖と砂浜の間には柔らかな色の緑の木々が生い茂っており、その景色は魔族を対象にした高級リゾート地だ。


 湖を眺めながら、買ったばかりの薬草入りの袋を腰に下げ直していると。


 「お兄さーん、ちょっとーーいいですかぁ?」

 ふいに長身の女が声をかけて来た。


 「え? 俺ですか?」

 ちょっと線の細い魔族の女性だが、帝国兵のような雰囲気ではない。少しうつろな目が心の闇をのぞかせているようだ。


 「お兄さんは、真実の愛を知っておりますか?」

 「はぁ?」

 突然、声をかけてきたかと思ったら、真実の愛だと?


 「今、真実の愛協会に入会すれば、モテない貴方の前にも汚れなき乙女が……」

 ニコリと笑って勧誘してくるが、目はまるで死人のようだ。感情がない。はっきり言って、コワイ!


 「ご、ごめん、人と待ち合わせしているんだ。他を当たってくれ!」

 俺は急いで湖畔に降りる階段に向かってダッシュした。

 あれは危ない! 

 怪しい宗教の勧誘だ。


 道路下まで逃げて、ここまで来ればもういいだろうと振り返ると、まだそこにいた! 「ぎゃあっ!」心臓が飛び出しそうになる。

 

 「お兄さーん、逃げなくてよろしくてよ、真実の愛人があなたを待っているのですよ」

 速い、この人、やたらに足が速い! しかも、その死んだ魚のような目、かなりヤバい!

 

 「ここにサインしてくださるだけでぇ、あなたに真の幸せが訪れるのです、さあ、さあどうぞ、遠慮なんかいりませんわ」と怪しげな紙とペンを持って迫る。


 ぎゃあああーーーー!

 俺は心の悲鳴を上げながら、次第に道の下の壁に追い詰められていく。この人、人間くずれよりもシツコイ!

 

 ふふふふふ……・

 女が不気味な笑みを浮かべてにじり寄る。


 「さあ、書けばあなたは幸せです……」


 「や、やめろーーーー」と俺が顔をそむけた時、女と俺の間を裂くように、目の前に砂がぶふぁっと舞い上がった。


 「!」

 そこに着地したのは誰か?

 その容姿を見て、女の目がグワっと大きく見開かれた。


 「あなた! こんな所にいたのですね! 捜しましたわ。さあ、一緒に買い物にいきましょう!」

 と快活な声が嫌な流れを一掃する。


 夏の麦わら帽子を被り、いつもと違うカジュアルな私服姿の超絶美少女イリスが俺の手をしっかりと握った。


 「あらま? お連れさんがいたのですか? あら、あら、まあ、まあ……」

 女は意外そうな声で二人の顔を見比べる。明らかに釣り合ってない、こんな男に? と思っているのがありありと分かる。

 

 「ええ、彼は私の夫ですが? 夫に何かご用でしょうか?」

 振り返って屈託なく微笑むイリス。

 そのあまりに明るい美貌に女は絶句する。

 まさに陰と陽である。イリスはまぶしすぎる太陽だ。そこに影の付け入る隙などありはしない。


 「な、なんてこと……、見立て違いだったかしら。い、いえ、既婚者の不純な男なんていりませんわ、こちらからお断わりですわ」

 そう言って女はケッと唇を歪ませて立ち去った。


 「ふ〜っ、助かったぁ」

 「カイン様」

 イリスは俺の手をとって急に顔を寄せる。

 その清らかな湖のような瞳の色に思わずドキッとする。


 「カイン様、もっとくっついて下さい。すぐ離れると夫婦と言ったことが疑われます。そうですね、このまま少し歩くなんてどうでしょう? ……いいですよね?」

 俺が答えるより早くイリスが腕を回す。


 確かにちょっと離れた所にまださっきの女がいて、ちらちらこっちを見ている。


 「湖がきれいだから、あっちに行ってみるか?」

 「ええ、せっかくですから。これはもうデートですよね」

 二人はわざとらしく腕を組んで湖畔を恋人のように歩き始める。


 隣を見るとあまりにも可愛い横顔。セシリーナとはまた違った美しさ。やはり三姉妹は美人だ。


 「何を見惚れてるんですか?」

 とちょっと頬を染めるところが意外で愛らしく感じる。ぐいぐい引くので腕がイリスの胸に当たっているが、これって役得か?

 

 「なんか危ない事態だったよ。助かったよイリス。でもどうして君がここにいるんだ?」


 「私はちょっと買い物に来ただけです。別にカイン様の動向を見張っていたわけじゃありませんよ」

 イリスは笑顔で俺を見上げる。


 いつものメイド服も良いがさわやか系のカジュアルな服もめちゃくちゃ似合っている。これはもうデート服と言っていい清楚可憐なデザインで乙女チックな初々しさを全面に押し出している。


 本当にイリスは美人だ。

 妹たちと違って、いつも節度を守ってお堅い雰囲気をかもし出しているが、今日はなんだか違う。


 何気ない仕草、髪をかき上げる横顔、濡れた珊瑚色の唇、全てが乙女を感じさせる。それでいて色っぽくうなじにかかる髪の毛や美麗な双丘の膨らみにドキリとさせる。わずかな風で軽やかに舞うスカートも本当に目のやり場に困る。


 「えっと、君には何度も助けられてるから、そのうち何かお礼しなくちゃって思っていたんだ。何が良いかな?」 

 俺は精一杯のイケメン顔を演出し、白い歯を見せて笑う。


 「カイン様……」

 イリスが俺に見蕩れたような表情を見せた。あれ? 意外に効果があった?


 「ずるいです。そんな笑顔ができるなんて」

 あれ? イリスの頬が赤い。

 「イリスこそ反則だろ? 何もかもが可愛い過ぎて、言葉にならない」

 言ってる本人も聞いてるイリスも恥ずかしい。


 妹たちがいないからなのか、任務中でないからなのか、気を張っているところがなくて自然な雰囲気が良い。

 いつもよりも表情豊かでかわいい。

 本当にかわいい! 惚れ直す!

 多分、これが本来のイリスなんだろうな。


 「お礼ですか……。それじゃあ一つだけ」

 イリスが上目遣いに俺を見た。その角度はずるい! 甘く切なく感情が揺すられる。


 「一つで良いのか? まあ、俺にできることなら何でもするぞ」

 その瞳にドギマギしているのを見透かされないよう、ちょっと言葉に力を込める。


 「カイン様に何でもするなんて言われたら、遠慮なんてしませんよ? いいんですか?」

 「なんだよ、その悪そうな微笑み?」

 「これでも暗黒術の使い手ですから」


 「それは今は関係ないだろ?」

 「それでは遠慮なく。ええと、ですね。今晩、夜這いします! 夜這いしますから私を奪って欲しいなと……。カイン様と肌を合わせたいんです。どうですか? 嫌ですか?」

 そうつぶやいて魅惑的な赤い唇に人差し指を添えて、小悪魔のように微笑する。


 「うふっ」とウインク!


 ぐふっ! 思わず鼻血が噴き出すところだった!


 俺の反応を試しているんだろ?

 でも正直、か、かわいい……。美人でかわいすぎる!

 ぐいぐい積極的に誘惑してくるクリスよりもドキドキする。ベッドで妖艶に俺を誘うイリスが脳裏をよぎる。

 

 「き、きゃ、きゃ……」

 「おサルさんですか? それとも悲鳴?」


 「却下! 却下だ! それは無理! 無理だろ? それに夜は……セリシーナと一緒なんだぞ?」


 「えーー! こんなかわいい生娘が「私を食べて」って言っているのに? 処女ですよ、ばっちり処女!」

 ニヤニヤとした表情がいたづらっ子ぽい。


 「ゴホン! だから、大人をからかうもんじゃない!」


 「まぁ! 私だって大人ですよ。セシリーナ様とたいして歳の差はないんですから」

 

 「まあ、そうなんだろうけど。でもあれ? イリス、そばかすなんてあったか?」


 「ああ、これですか? これは変装ですよ、劣化化粧っていうんですか? あまり目立たないようにごく普通の女の子に見えるように化けているんですよ」

 これでか? と思わず思ってしまう。


 たしかに遠目には美人度が下がって見えそうだけど、こう近いと劣化のしようがない。しかも笑うとそのかわいらしさが大爆発なのは相変わらずだ。

 

 「でも、夜這いはともかく、カイン様の危機を救えただけでも良かったです」

 俺の手を引いて振り返るその満面の笑顔。

 そこには初めて俺を襲撃した時の邪悪さは微塵もない。


 その無邪気な様子に胸がときめく。

 このシュチエーションでドキドキしない男はいないだろう。

 渚を楽しそうに歩くイリス。二人の様子は誰が見てもラブラブの恋人同士だ。


 「何か買い物に来たんだろ? 手伝おうか? 荷物運びくらいなら任せろ、何ならお店まで運ぶよ」

 イリスがキュートすぎて、もっとイリスと一緒にいたい。離れたくないって思えてくる。


 「いいえ、さほど大きな荷物はありません。とてもうれしい申し出でなのですけれど……、どうやら急いで帰らないといけないみたい」

 ふいにイリスが片耳を押さえて立ち止まった。


 何かあったのか?

 耳を押さえているのはおそらく通信術だろう。


 「ごめんなさい。今は店番がクリスなんですよ。あの子、共通語がカタコトだから揉め事が多くて……。それに面倒くさくなるとすぐ勝手に飛び出しちゃうし」


 「そっか……」

 あいつならな、と容易く想像できてしまう。


 「カイン様、ありがとう。私を気にかけてくれた? 私ももっと一緒にいたかった」


 「い、いや。……でもそうかな?」

 正直、俺ももっとデートしたかった。

 ちょっと戸惑ったような表情の俺を見てイリスはうれしそうだ。


 「さて、ここまで来ればさっきの女も諦めたでしょう。もう大丈夫なはずです。じゃあ、残念だけど私、行きますね」

 イリスはそう言ってステップを踏むように俺から勢いよく一歩後ろに離れた。


 まるでそうでもしないと名残惜しくて俺から離れられないとでも言いそうだ。そのちょっと寂しげな表情が愛おしい。その手をつかんで、そのまま固く抱きしめたくなる。どこにも行くな! と言ってしまいそうだ。


 「……わかった。じゃあまたな。イリス!」

 俺は精一杯の作り笑いで手を振る。


 「ええ、私のカイン様」

 そう言うと、イリスは想いを立ち来るような勢いで階段を軽やかに駆け上がった。


 そして……

 そのまま走り去るのかと思ったら、何か急に思い立ったかのように帽子を手に取って笑顔で振り返った。


 「カイン様ーーーーっ!」

 大きな声で叫んで帽子を振るその姿に、周囲の人々がざわめいたのが分かる。


 普通の娘に化けたと言っているが、それでも誰もが絶句するような超絶美少女なのだ。


 「おい! あれを見ろ‼ クリスティリーナ様じゃないか?」

 「誰だ? あの娘見ろよ! とんでもなくかわいいぞ!」

 「大変だ! 天女が舞い降りた!」


 ざわざわとざわめく。

 男どもの視線がイリスの周囲に遠巻きながら集まってくる。 


 すると……。


 「カイン様ーーっ! 今度はーーっ! 絶対にーー! 私もベッドに呼んでくださいねーー!」

 叫んだイリスの顔が赤いように見えたが、彼女はきびすを返すと今度こそ雑踏に消えていった。


 「も? ”私も”って何だ……」

 走り去る彼女にいつまでも手を振っている俺に、突き刺さる周囲の視線が痛い。


 「あんなにかわいい子とデートだけでなく、ベッドに呼ぶだと?」と凄まじい嫉妬と非難めいた視線。


 くそっ、視線が痛すぎる。


 俺は逃げるように湖岸を巡る道から死角になる物陰に身を隠した。


 「真実の愛人があなたを待っているのです!」

 真実の”愛人”? 愛でなくて?

 声がして見上げると、道の上ではさっきの女性がまた別な男に声をかけている。太ったいかにも成金ふうの男だ。


 今度はどうやら勧誘に成功したらしい。

 女は下劣な精神がにじみ出るような嫌らしい笑みを浮かべた男と連れ添って人混みに消えて行った。



 「まったく、いろんな人がいるもんだ、大きい街は違うな」


 この中央大陸の神様事情はよくわからないところがある。

 俺は魔王の命で古き神々を祀る神殿は廃止されたということくらいしか知らないが、あんな怪しい民間宗教は取り締まりされていないのだろうか。


 そんな事を考えながらイリスとの余韻に浸りつつ、時間をつぶすために湖畔を散策することにした。


 この一帯は高級ビーチになっており、色とりどりの水着の男女がはしゃいでいるのが見える。


 中にはかなり上級クラスの魔族の御令嬢と思われる美女の姿もある。思わずそのクールな水着姿に目が泳ぐ。


 あのお尻に食い込む水着がなんとも……。

 ぐへへへ……

 目元が緩んだ怪しげな男の接近に気づいたボディガードの黒服たちが俺を睨んで無言の圧力をかけてきた。


 あ、これはヤバい。


 「そこの男!! ここはセメン家のクサナベーラ様が貸し切ったビーチである! 一般人は立ち入り禁止だ! 即刻すぐ立ち去れい!」

 砂浜に立つ監視塔から拡声器の声がびんびんと響いた。


 これは、マズい、これは俺のことだ!

 どうりで他に人がいないと思ったよ。


 俺は急いでその場から離れた。それにしても砂浜に立ち入り禁止区域があるとは知らなかった。目で見えるような区画線はないので、魔力による結界みたいなものだろうか。


 遠回りして歩く湖畔はどこでも楽し気な声で満ちているが、セシリーナによればこれでも以前のにぎわいに比べたらさびしい限り、と言う話だ。


 大戦の影響で多くの別荘は取り壊され、軍事物資の集積場になっているらしい。

 緑の木陰の向こうに、場違いな無機質の鉄柵が街の一角を取り囲んでいるのが見える。ああいうのがそうなのだろう。


 湖には漁船と思しき船や小型のレジャーボートがいくつも浮かんでいる。湖畔をボロ長靴でガボガボ歩いている大人は俺くらいなものだ。俺の他に長靴なんかを履いてはしゃいでいるのは熊手で貝を掘っている小さな子どもくらいだ。


 この光景を見ていると、ついこの間まで地獄のような囚人都市にいたのが信じられない。


 運河に向かっているのか、美しい装飾のある中型の観光船がゆっくりと湖をよぎっていく。


 「今どきあんなのに乗っているのは、魔族のお貴族様くらいだろうな。庶民の苦労も知らない王侯貴族め……」


 自分も貴族の端くれだということをもはや忘れている。

 「ん?」

 ふと気付くと、その豪華な船の上から俺に大きく手を振る二人の姿が見える。

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