第78話 クリスの露払い1
◇◆◇
さて、カインたちが街道で歩く屍人や虫に襲われた日から
デッケ・サーカの街の甘い果実亭の酒場入口には「準備中」の看板が下がっていた。
「何てこった!」
「おお、神よ! やってないのか!」
何人かの男が店の前まで来て、がっくりと肩を落として帰って行く。
男たちが帰って行った後、静かに鍵を回す音が聞こえた。その優しい開け方だけで誰が帰ってきたかすぐわかる。
緑の鉢植えに咲いた花が揺れ、木製のドアが開いて、微かな甘い香りを漂わせて思ったとおりアリスが姿を見せた。
「お姉さま、たった今、カイン様たちが無事出発しました。言われたとおりに街道出口の衛兵は眠らせておきましたよ」
とカウンターにお菓子の入った袋を置いて、イリスに明るく声をかけた。甘い匂いの正体がこれだったらしい。
甘いお菓子と言えば、クリスと言うイメージなのだが、その姿はない。
「二人とも、市中でのカイン様護衛任務、御苦労さまでした。少し休んだらどう? ところでクリスは? 一緒じゃなかったの?」
イリスは戸棚に磨いたばかりのグラスを並べ終わって振り返った。
「あれ? あれあれ?」
アリスは振り返ったが、そこにクリスの姿はない。誰もいないのだ。
今まで一緒に護衛任務についていたお姉さまの姿がない? 帰ったらお菓子を食べるぞと意気込んで、店の前までは確かに後ろにいたはずなのに。
「アリス、それは何かしら?」
イリスがアリスの背中を指差した。
「あ、いつの間に!」
アリスがあたふたと背中の張り紙を取ると、そこには蛇がのたうつような奇妙な文字が書かれていた。
「これは……」
二人は同時に覗き込んだ。
『カイン様について行きます。行かせてください。カイン様の旅の安全確保のためです。私が先行して露払いします』という意味が書かれている。これは蛇人族の文字だ。
「どうしましょう? お姉さまに先を越されちゃいました!」
アリスが目を丸くした。
「困ったわね。でもあのクリスを今から追いかけても無駄でしょうね。仕方がありません。カイン様の道中の安全はクリスに任せて、私たちは私たちでできることをしましょうか。カイン様がいない場所に長居しても意味がありませんし」
そう言って、イリスはエプロンを脱いでカウンターに置いた。
さらさらと置き手紙を書く。
「これを見た店主の青ざめた顔が浮かぶようですね」とアリスが覗きこむ。
今日限りで店を辞めるのだ。カインやリサ王女がいない街にいてもしょうがない。
3姉妹の人気のおかげで酒場で大儲けし、日夜遊びまわっている店長はショックで気絶するかもしれない。
「この面倒な劣化化粧ももうしなくてもいいですね」
「ええ、目立たないように、できるだけ平凡になるように工夫したけど、有り合わせの道具だけで化粧するのは意外に難しかったわ」
3姉妹は酒場で大人気だったが、これでもあまり目立ちすぎないようにしていたつもりだ。
化粧だけではない、周囲の空気をわずかに歪めることで瞳の色や輪郭を変えたりと変装していたのだが、それでも店では凄い人気ぶりだった。元の姿に戻った彼女らを見たら卒倒する者が続出するだろう。
それに、本当の美貌を見せて良いのは純潔を捧げるたった一人という一族の掟がある。彼女たちはまだ真の姿を見せていない。そしてその美しさを見ることのできる世界一幸せな男は既に決まっている。
イリスは耳元の髪を掻き上げ、ペンを机に置いた。
「お姉さま、できましたか?」
「ええ、これを売上帳のところに置いてきてちょうだい」
「うわっ、やっぱりイリス姉様の字は綺麗です」
「あなたの字だって奇麗ですよ。問題はあの子ですよ」
「クリス姉さまですね? 人族の勉強もしないで槍の練習、戦闘訓練ばかりやっていたんですもの」
「共通語や共通文字を覚える努力をしなかったから、あんなふうに共通語だと片言だし、手紙もろくに書けないんだから困ってしまうわね。さーて、お店のお仕事もこれでおしまい、私たちも行くわよ」
「はい、お姉さま」
にっこり微笑むアリス。
二人の姿が風のように消えた。
誰もいない部屋のドアが一瞬開いてすぐに閉じた。
◇◆◇
クリスは草原の中を疾駆していた。
荒野には場違いなメイド服だが、周りの空気を歪めているため誰もその姿を視認できない。
「いる。カイン様たちだ」
遠巻きに街道を進むカイン一行の姿を見つけ、頬が緩む。それを横目に見てあっという間に追い越す。
走る、走る、走る……
「カイン様、私が、守る」
私の任務は、カイン様より先回りして、街道の危険を排除することだ。
もちろん行く先々のキャンプ地の安全確保や薪の準備、水場の清掃もメイドの仕事である。それも完璧にこなす。
いちいち説明しなくても私がどう行動するのかイリスもアリスも分かっている。イリスたちは、さらに先回りして次の街かどこかに潜入するため行動を開始した頃だろう。
「さて、やるぞ! 危険察知、開始!」
いたいた! 悪者はすぐに見つかった!
街道沿いの草むらに盗賊らしき男共が潜んでいる。
身をひそめるための穴を掘って隠れているのだ。馬車は襲えないから、歩いている旅人が主なターゲットなのだろう。
カインたちがそのテリトリーに入るまでさほど時間がない。
全部で12人、穴は3か所だ。
「まったく問題なし。排除する」
クリスは草むらから飛翔する。
いつの間にか現れた槍がその手に光る。
ーーーー真下に2つの穴。盗賊たちはまったくクリスに気付いていない。
その頭上で指を擦る。
タンと華麗に着地し、遅れてスカートがふわりと下りる。
その背後の穴の中で口から泡をふいた男共が倒れた。槍を振るうまでもない。
「うん、容易い」
あと1か所、街道の反対側だ。
クリスは街道を横切る。
盗賊たちは板で穴を塞いでその上に草を置いている。
その中で息を殺して獲物が通りかかるのを待っているのだ。
見張りの男がわずかに開けた隙間から外の様子を伺っていた。
トンと軽い音がして、ふいにその隙間が暗くなった。
「何だ?」
「おい、どうした? 何かあったか?」
男の声に、博打をしていた3人が振り向く。
「いや、急に外が暗く……。何だ?」
男は板を持ち上げようとしたが、重い、なぜか蓋が持ち上がらない。
「どうした? 開かないのか?」
男たちは4人で板を上げようとするがびくともしない。ただの板きれのはずなのに、脂汗が出る。
「おい、隙間を見てみろ」
仲間が見上げて言った。
「何だ?」と見上げると。
女の足が見えた。
男共は隙間に貼りつくように見上げる。
女だ! スカートの中が見える!
むほ! と色めく。
「色ぼけのクズ。不要」
クリスは無表情で指をパチンと弾いた。
「うわあーーーーっ!」
バキバキとふいに板が割れ、壁が崩れてドドドっと土が流れ込んだ。男たちは胸まで土に埋もれたが、白目をむきながらも何か良い夢でも見ているような表情だ。
「これでいい。次はあれ」
槍を小脇に携え、周囲を見回した。
「全部で、八匹」
ひょい、ひょいと草原に潜む特に危険な魔獣を次々と狩って行く。本来なら討伐隊が繰り出すほどの奴も混じっていたがお構いなしだ。全て一瞬で槍の餌食にしていく。気配に気づいて逃げ出す魔獣もいたが、逃げられるはずもない。
「あっちに行く、こっちはダメ」
街道を通る者に少しでも危険を及ぼすおそれのある肉食獣や有毒獣はぱっぱっと遠くに追い払う。クリスにとっては
暗黒術が効かない知能の低い獣は、逃げる方向に次々と姿を見せて「ガオー!」と脅かし、びっくりした獣が方向を変えて森の奥の方へ逃げるように仕向けた。
「ふう」とクリスは街道に木陰を落している巨木の枝の上に立って、遠くを眺めた。
これでいいだろうと思ったら。
「あっ、ちょっと面倒くさいのがやって来た」
問題は次々やってくるらしい。
クリスの遠視に街道を進む帝国兵らしき一団が見えた。
だが帝国兵にしては規律が取れていない。ガラの悪そうな連中だ。あれは旧街道の監視のために徴兵されている非正規兵だろう。
元々は農民が多いが、身を持ち崩した連中が多い。この手の兵の横暴さは誰もが知っている。街道を行く商人にとってはあまり会いたくない存在だ。
かってな通行料をせびられるだけならまだ良い。帝国に逆らったとして、金品を強奪され殺されることもある。
「昨日の女はどうだった?」
帝国の鎧の上に奪った首飾りを下げている男は、隣の太った魔族の男に聞いた。
「良かったぜ。しばらくは歩けんだろう」
「お前に痛めつけられたんでは、死ななかっただけでも儲けものだ。だが拷問好きも大概にしておけよ」
前を行く男が振り返る。男の腰には宝石で飾られた短剣が光っている。
「悪い奴だな、あそこに放置してきたのかよ、歩けないのでは死んだも同然だな」
「かかか……旦那も同じでしょうに」
「見てたのか?」
「亭主の方は抵抗したんでな、まあ今頃は仲良く魔物の餌だろうよ」
男は邪悪な思い出し笑いを浮かべた。
「ん!」
その顔にふいに怪訝な色が浮かぶ。
「おい、何を急に立ち止まって……」
男の目が驚愕に見開かれ、次の瞬間に獲物を前にした野獣の色に変わる。
たった今、空から舞い降りた天女を思わせる美しすぎる少女が道の真ん中に立っていた。
可愛い顔立ちにスタイル抜群、その豊かな胸はとてもやわらかそうだ。そのあまりに場違いなメイド服が風に揺れる。スカートから覗く白いふとももが劣情を掻きたてる。
「こいつはとんでもねぇ、凄え……」
男は涎を拭った。
「へへへ、お嬢さん、どうしたんだい?」
「こんなところで?一人なのか?」
「他の人はどうしたのかな?」
5人の男は慣れた動きで逃げ道をふさいで取り囲んだ。
少しうつむいていた美少女が顔を上げた。
これは物凄い、とびっきりの上玉だ。
男たちの顔がさらに緩んだ。
「かわいがってやるぜ。そこで服を脱ぎな」
ニヤニヤしながら男が剣先でスカートのすそをめくる。
「やはり、クズ、死んでいい」
「なんだと!」
「いい気になるんじゃねえ!」
背後にまわった魔族の男が声を張り上げる。
「大人しくしねえと、その顔を苦痛に歪ませてやるぞ!」
手にした長剣を大袈裟に振りかざす。
もちろん当てる気などはさらさら無い。傷つけでもしたら台無しになる。武器をチラつかせたのは、こちらの言いなりにするための脅しだ。
「愚か、死んでこい」
舞踏会の主役のようにクリスはくるっと回転し、軽やかに男の剣を背手で受け流す。
そして「うわっ!」と勢い余って体勢を崩す男の背中に手をかざした。
「!」
男の姿が一瞬で消えた。
今までそこにいたはずなのに……。
そして見てしまう、この世のものとは思えぬ美少女の微笑み。
ゾゾッと男共の体が恐怖に震えた。触れてならない存在だったと直感が言っている。今更遅いと魂が怯える。
「う、うわああ、化け物だ!」
「ひいっ!」
さっきまでの威勢はどこへやら、男共はてんでばらばらに、我先に逃げ出すが、その動きはクリスにはスローモーションにしか見えない。
「無駄、同じ運命」
クリスは指鉄砲をかざす。
「ぱん」
何もなかったように風が吹き抜ける。
誰もいなくなった街道で、ふうとクリスは息をつく。
「カインのため、私頑張ってる。それにしても、この道、邪魔者とっても多くて、面倒」
タン! と地面を蹴って飛び、岩の上に着地すると、クリスは腰に両手をあて真っすぐな瞳で北へと続く街道を見下ろした。
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