第49話 絶望への抵抗と現れた闇色の光
「サンドラット、リサを頼む!」
俺は素早くリサを背から降ろし、セシリーナの後を追う。
「おっ、おい!」サンドラットが慌ててリサを抱きかかえた。
彼女を犠牲にしてまで助かりたいなどと誰が思うか! そんなのはダメだ。彼女を失うわけにはいかない!
セシリーナが突進したのは、あえて敵将ゲ・ボンダの正面だ。陽動、そして真向勝負でゲ・ボンダを狙うつもりだ。セシリーナらしい。だが、奴は卑怯だ。厚い盾を装備した兵を前に出して自分は奥に下がった。
「卑怯者め! 私が欲しいなら堂々と勝負してみなさい!」
その言葉にゲ・ボンダがニタリと笑みを返した。
「我が生まれも権力も我が力である。それを堂々と行使し、お前も王位も欲しい物は手に入れる、当たり前のことであろう?」
「クズめっ!」
セシリーナは取り囲もうとする敵に短剣を振った。
「セシリーナ!」
彼女だけ危険にさらさせるか! 間に合え! 駆け出した俺の前に、突如、黒い影がたちはだかった。
「お前に用があるのは、俺だ!」
その言葉が耳に入った瞬間、腹をえぐる鉄拳に俺は吹き飛んでいた。ゴロゴロと激しく地面に転がって腹を抱えて悶える。胃の内容物がこみ上げる。凄まじい痛みだ。
「殺しはせぬ、今はまだな……」
上げた顔を蹴られた。
グハッ! ……誰かが叫んでいるが何を言っているかわからない。そんな余裕すらない。血を吐いて吹き飛ぶ。
奴は二度、三度と容赦なく俺を蹴りつけた。反撃の暇もない。ぐったりした俺の髪を掴んで奴は俺を引き起こした。
「殺したいところだが、やっと捕らえた獣姫がお前にだいぶご執心なのでな、お前を生きたまま連れ帰るよう命令が出ているのだ」
鬼面の男がさらに拳を振り上げる。男の言葉の意味は?
一瞬、脳裏にエチアの顔が浮かんだ。まさか彼女まで!
だが、次の瞬間、俺は地面に頭を打ちつけてバウンドした。俺を見下ろす男の向こう側でセシリーナが男たちに囲まれていくのが見える。サンドラットはリサを守るので精一杯だ。
「まだだ……」
何か、力が、みんなを守る力が欲しい。ぼこぼこにされながらも男を睨む目にはまだ力が宿っている。
「しぶとい男だ。まだ気を失わないとはな」
男が背後から俺の髪を掴み、またも引き上げる。
だが、男は俺を殺す気がないのか、サティナの婚約紋が力を発揮する気配はない。あの加護は俺に死の危険が迫らないと簡単には発動しないらしい。
みんな捕まってしまう!
俺に、俺にもっと力があれば……刹那の絶望的な光景に俺の生存本能が蠢いた。股間がむくりと動いたと同時に、へその下が熱を帯びた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「今だ! 網を放て! 彼女を生きたまま捕らえよ!」
叫んだゲ・ボンダが野卑な笑みを浮かべたのが瞳に映る。セシリーナが危ない! だが、鬼面の男が俺をぎりぎりと締め上げ、その鋼のような手を振りほどけない。
立ち塞がった兵士2人を相手に短剣を振るっていたセシリーナの周囲から一斉に網が放たれた。
一つは避けたが、死角となる背後から投げられた網が彼女をからめ取った。
地面に転がったセシリーナに兵士が殺到する。
「セシリーナ! くそっ……離せっ!」
「抵抗は無意味だ」
鬼面の男が後ろから羽交締めにした。関節が軋んで激痛が走る。「ぐあっ!」と呻いて意識が遠くなる。
セシリーナが捕まり、さらにサンドラットとリサが丘の上に追い詰められている。これ以上ない最悪の結末が近づいている。
「ふははは……、よくやった。早くここへ彼女を連れてこい!」
ゲ・ボンダは太鼓腹を揺らしてニンマリと口を歪め、分厚い唇を舐めた。
ついにあのクリスティリーナを手に入れた。裏切り者としてどのように扱っても誰も文句は言わないだろう。セシリーナは網の中で暴れているが、逃げることなどもはや不可能だ。
「何を手こずっておる。早くこっちに連れてこい! さっそく我が部屋に連れ帰って、ベッドの上で思うがままにかわいがってやろうぞ」
涎を流しながら満面の笑みである。セシリーナは必死に抵抗しているが男の力は強い。ついに網から出され両手を後ろ手に縛られようとしている。
「ゲ・ボンダ殿下ッ! た、大変です!」
ーーその時だ。背後に声が上がった。
突然、包囲網にどよめきが生じた。
何かが起こった。
それだけは分かった。
俺を縛ろうとしていた鬼面の男の手が止まった。
ーー包囲網の外側に無数の影が蠢いている。
「何だ! どうしたのだ! 何が起きた? あれは何だ!」
ゲ・ボンダの
「て、敵襲であります! て、敵は……」
そこまで言って、そいつは血しぶきに沈んだ。その背後から立ち上がる不気味な影。無数の不吉な黒い群れが、包囲網の後方を侵食した。
「大変です! 殿下!
その言葉に、ゲ・ボンダの周辺にいた兵士が怯え、
「死肉食らいの群れだと! 一体どこから湧いたのだ! ええい、反転! 陣形を整えろ! 敵は後ろだ!」
混乱の中、ゲ・ボンダの怒号が響いた。
「ちっ! 邪魔が入ったか。これでは連れ帰るのは無理か」
鬼面の男の判断は早かった。
急に俺を掴んでいた圧力が消えた。目を開けると、奴の姿は既にない。どうやら奴が即座に撤退するほどの事態が起きたらしい。
「何だ? 一体何が起こった?」
俺は切れた唇に滲んだ血を拭った。
動揺を見せた兵士を思いっきり突き飛ばし、逃げ出したセシリーナが「カイン!」と叫んで丘を駆けあがってきた。
「セシリーナ!」
俺も痛みも忘れて丘を駆け下っていた。
坂の途中で二人は互いを求めて手を伸ばし、俺は勢いよく胸に飛び込んできたセシリーナを力いっぱい抱きしめた。
「やはりセシリーナ、君を失いたくない。刹那の絶望の中で、はっきりと悟った。俺は君を失うのは絶対に嫌なんだ」
俺は彼女の鼓動を感じながら目が熱くなる。
「ええ、ええ、そうね」
「それにあんな無茶をして……怪我はないか? 無事かい?」
俺は彼女の澄んだ瞳を見つめた。
「あなたこそ、ひどい顔じゃない」
セシリーナが俺の頬を優しく撫でた。
ーーーー帝国兵は急速に囲みを解いて、ゲ・ボンダを守るように防御陣形を作ろうとしているが、死人の数も展開の早さも帝国兵の動きを圧倒している。悲鳴と怒号が戦場を覆っていく。
「おいおい、こいつらは……死人なのか?」
リサの手を引いて下りてきたサンドラットが絶句した。サンドラットもかなり危なかったらしく、あちこち傷ついているが、リサは無事だ。
「あれはきっと死肉食らいよ」
セシリーナは俺から離れようとしない。背中に腕を回したまま少しだけ顔を浮かした。
俺でもわかる。帝国兵を背後から襲っているのは、死人の群れなのだ。人間くずれではない、正真正銘の死人、アンデット系モンスターの死肉食らいだ。
腐った臓物を引きづり、折れた首を傾けたまま蠢いている。中には手にした歯こぼれの激しい剣で帝国兵をなぎ倒している巨人族のような死人まで混じっている。鎧を斬ることはできないが、その殴打力であの屈強な帝国兵ですら軽々と宙を舞う。
その数は既に包囲している帝国兵の倍はいるが、何もない空間が歪んで、そこからまだまだ出てくる。
死人の突入で帝国兵の防御陣形はもはやズタズタだ。一体何が起きているのか。
だが、このままだと俺たちもヤバい。
「リサ、俺の背中に乗れ! とにかくここにいるとまずいぞ」
リサをおんぶして安全な所に逃げなくては……。
そう思ってリサを背負い、立ち上がった時だ。
「誰っ?」
セシリーナがその気配に真っ先に気付いた。
次は俺だ。
死人の群れに呆気にとられていたサンドラットが一番遅れた。
俺たちの目の前に整然と並んで、片膝を地につけ恭しく頭を下げている3人のメイドがいる。その闇色のメイド服から色っぽい手足がのぞく。
そのあまりにも美しすぎる3姉妹が同時に顔を上げた。その輝くような美貌を見た瞬間……。
「ぎゃああああーーーー! くそかわいいーーーーーー!」
サンドラットらしくもない絶叫が響き渡った。
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