第 2話 追跡者

 囚人都市を取り囲む城壁、その荒々しい威容と巨大さは見上げる者に絶望を抱かせる。

 

 この城壁に、多くの囚人が無謀に挑み、或いは途中で殺され、或いはたどり着いた頂きから身を絶壁に投じ、未だかつてこの監獄から生きて脱した者はいない。


 生き残っている囚人はほとんどが男である。女は体力的に魔獣から逃げ切るのが難しいか、あるいはたまに巡回にくる横柄な魔族の帝国兵の男たちに狩られ、どこかに連れていかれたきり二度と戻ってこないからだ。


 今、この悪夢のような城壁の上に、巨大な滑車を動かす帝国兵の姿がある。


 無数の兵士が階段を行き交い、作業をしている様子はまるで蟻塚をつくる蟻の群れのよう。


 帝国兵はそのほとんどが魔族や亜人種。どちらの種族もかつて人族との混血が進んだせいで、人に近い姿の者が多い。

 特に多くの魔族はほとんど人間と変わらない。ただ基礎魔力が大きく、修練しなくても生まれつき魔法が使える人種と考えればまず間違いない。


 帝国兵には稀に人族もいるが、現在の魔族至上主義の魔王の統治下ではその地位は不当に評価されている。

 重そうな石材を運び上げている兵と、指揮をしている兵の人種が異なるのもそう言った事情によるものなのだろう。


 今、その重厚な城壁の真下に加工石材を運んできた巨大な軍用装甲馬車が数台集まっている。


 荷台から次々と石が吊り上げられていく中、輸送部隊の兵士らは焼け付くような日差しを受けつつ、馬車の上での待機を命じられていた。輸送部隊には男も女もいるが、その兵科は違うようだ。

 

 「俺はあの人間が逃げる方に20だ」

 「俺はあいつが食われる方に40だな」


 装甲馬車の御者台に座る帝国兵の男らが暇を持て余して賭けを始めたのはついさっきのこと。


 すっぽりと被った兜。

 わずかに見える口元にはその精神性を窺わせる野卑な笑みが浮かんでいる。それを見ただけで、けっして好きになることはない連中だと断言できる。


 「バカだな、お前ら」

 手にあごを乗せて興味なさそうにあくびをしたのは猫のような耳の獣人の妖艶な女。長い尻尾が暇そうに振れている。


 「この程度、いいじゃないですか、隊長殿」

 「好きにしろ、だが、まもなく出発だということだけは忘れるな」

 そう言ってちらりと俺を横目で見た女は唇を舐めて馬車の上に寝転んだ。


 奴らが座っているのは実用性への追及が生み出した無骨な装甲馬車だ。車輪だけでも人の背丈の二倍はあり、車体の周囲に突き出た無数の鋭利な槍が恐怖を抱かせる。それはまさに走る凶器と呼ぶにふさわしい凶悪な外見をしている。


 馬車を引く四頭の魔馬も四方を厚い金属板に守られ、例えどんな凶暴な魔獣も装甲馬車には接近すらできないだろう。停車している時は地面まで金属板が下がっており、身を屈めて侵入することすらできない。

 

 その過剰なまでの防御装備は、まさにここが危険地帯だという証でもある。

 毒々しい化け物、生きたまま人を食らう肉食魔獣、血をすすり肉を貪る幽鬼、まるで魔獣の実験場のように様々な危険生物が徘徊しており、フル装備した重装鎧の帝国兵ですらここでの単独行動は許されていない。


 まさにここは囚人都市の深淵である。全てに見捨てられ、腐臭ただよう病みきった世界、絶望が支配する重犯罪人だけを隔離した監獄エリア。収監された者は二度と生きて出ることはない。ここに収監されたということは死刑宣告を受けたと同義なのである。


 「どうした、どうした? 逃げないのか?」

 「びびってんのか?」

 安全なところから高みの見物を決め込んでいる兵士が声を上げた。


 今、その目の前の路上で、安い賭けの対象になっているのは荒い息を吐いて肩で呼吸している一人の囚人である。

 裸足で汚いパンツ一丁の男が、今まさに猛獣の餌食になろうとしている。


 そう、そして残念なことにそれが俺!

 これが追跡者から逃げ切れなかった男の末路である。




 グルルルルルーーーーーー


 低い唸り声を上げ、狼男のような猛獣が牙を剥く。


 剛毛の生えた両腕は荒々しく逞しい筋肉が発達している。間違いなくあれは一撃で人間の頭をえぐり、吹き飛ばすだろう。素手で受けても腕がらみ持っていかれる。あの剛腕が生み出す破壊力は人間の肉体など容易たやすく肉塊にする、そんな猛獣の気配だ。


 受けてはダメだ。

 どう逃げる。

 どう攻撃をかわせば良いのか。

 問題はあの両手の爪と裂けた口から覗く長い牙、そしてその腕力だ。


 野獣の一挙手一投足を見逃さぬように、全身の神経を張り詰め、野獣の目を睨み続けているが、この睨みあいもいつまでも続く訳がない。


 だが、俺はまだ萎縮していない。ただでさえ大きい股間の一物が緊迫し、生存本能でさらに硬く大きくなっている。パンツを突っ張らせている姿は見るからに下品そのものだが、それを今さら気にする余裕すらない。

 何か策はないのか、早く考えろ、と自分を叱咤するのが精一杯だ。

 

 野獣は路上で軽く前足を地面につけ、後脚に体重を乗せている、もはやいつ飛びかかってきてもおかしくない状態だ。ひりひりと肌を擦り切るような気配、奴の初撃が近い。


 だが、動けない! 


 ーー視線を逸らしたら襲われる。

 どう動いても食い殺される自分の姿しか思い描けない。生き残る姿を想像できない。


 こいつら魔獣は敏捷で残忍な恐ろしい血に飢えた肉食獣である。毎日何人もの囚人が生きたまま食い殺される。


 その順番が、ついに俺に回ってきた。

 猛虎を絞め殺したと豪語する筋肉隆々の亜人が勇敢に立ち向かったのを見たが、一撃で上半身と下半身が泣き別れだった。

 あれほどの猛者ですら一撃なのだ。俺では全く歯が立たないのは十分すぎるほどわかっている。


 「ほらほら、どうした! しょんべんがちびったか?」


 「見ろよ、あの無様な格好、くくくく……!」


 帝国兵の連中が野次を飛ばしてくるが、今はそれを気にする余裕もない。どうせ、奴らは最初から囚人など生きた人間だとは思っていない。そもそも人間というだけでゴミ虫扱いだろう。


 血生臭い気配と共に、やけに静かに乾いた風が吹き抜けた。


 武器、救世主、何でもいい。何かないか。

 この場を切り抜ける方法は? 


 帝国兵は剣や槍をもっている。だが、それを奪い取ることなどまず不可能。俺の股間の雄々しい槍も全く無意味だ。

 装甲馬車の下に潜り込むか? いや、こいつだって入って来る。どこでこいつに食われるかが少し変わるだけだ。魔馬を奪うこともできないだろう。


 と、そこで時間切れだ。奴も睨みあいにいい加減飽きたらしい。


 獲物を前にその大顎が開いた。


 真っ赤な口腔に肉の残りかすと粘液まみれの牙が濡れ光る。その血走った眼をいくら睨みつけても、もうこれ以上、奴を止めることは不可能だ。


 野獣が手の平を広げていく。長いカミソリのような爪が俺に向けられた。

 おそらく死は一瞬だろう。野獣がその爪を振り下ろせば、骨も肉もざっくりと削ぎ落されて終わりだ。抵抗も防御もこいつの前には無意味なのだ。内臓を引き出されて生きたまま貪り食われる。


 凶悪な面構えの獣がまるで人間のように二本足で立ち上がり、低く唸りながら両脚に獲物に襲い掛るための力を込める。


 だが、意外な事実に俺は息を飲む。


 その剛毛でおおわれた腹。

 そこに俺が身に着けている物と同じ色のボロ布の切れ端が巻き付いているのが見えた。それは間違いない。ーーーー囚人服、俺たち囚人に唯一与えられた小汚い下着の断片である。


 「まさか、獣化の病? お前、人間だったのか?」

 野獣の顔がぴくりと動いた。


 「ほら、さっさとしやがれ」

 帝国兵の奴が野獣の足元に石を投げつけた。


 石の砕ける音と兵士の声に反応し、野獣が帝国兵を見上げ、口角を上げて唸った。野獣の凶悪な視線に、安全な所にいながら、思わず槍を手にする兵士の姿がある。

 野獣の気が帝国兵に向けられた分だけ俺の死が少々遅くなったが、その程度の時間で何ができるわけでもない。


 「それはトムの……」 

 だが、そのわずかな時間で俺は気づいた。


 野獣が頭に巻いているバンダナである。


 剛毛の間から覗いた赤いバンダナには見覚えがある。

 屈託なく笑っていた陽気な船乗りの少年。間違いない、彼のバンダナだ。


 港町で帰りを待っている彼の美しい姉がプレゼントしたもの。


 彼らは早くに両親を亡くし、酒場の二階に住み込み、貧しいながらも姉弟で力を合わせて頑張ってきたのだ。

 いつの日か大好きな姉さんと一緒にお店を開くことが夢なんだ、と甲板で海を眺めながら目を輝かせて語っていた、そんな彼のバンダナは未来を夢見る姉弟の絆の証だった。


 こいつがトムを食い殺し、バンダナを奪ったのか?


 拳に力が入る。

 だが、疑念が湧く。

 違う、いくらなんでも特徴のあるその巻き方、そこまで獣が真似するわけがない。

 考えることすらはばかられるような恐ろしい考えが脳裏をかすめ、胃がぐぐっと締め付けられる。


 ぐっと奥歯を噛みしめ、氷が胸を貫くような心の痛みに耐え、押し殺したように息を吐く。


 「まさか、お、お前は……トム……なのか?」


 野獣はわずかに耳を動かした。


 だが、牙を覗かせ威嚇する獣面の怪物に理性の色は無い。これが本当にあの希望に溢れていた少年、トムだと言うのか。


 その体格は既に俺より遥かに大きい。眼が赤く血走り、全身は剛毛で覆われ、人間だったとはとても思えない。その口元からは、長く鋭い肉食獣を思わせる犬歯が覗き、大量に分泌された涎が光っている。


 既に人肉の味を覚えてしまったのだろう。俺を見る目は食欲と殺戮本能に染まっていた。


 弟の出航を見送って、朝霧の桟橋で無事を祈っていつまでも手を振っていた彼の姉の姿を思い出し、叫びたくなった言葉をぐっと飲みこむ。


 もはや手遅れなのか。

 だが、その答えが分かりきっているだけにどうしようもなく胸が苦しい。血に飢えた目に既に理性はない。あの頃の彼、あの純朴な少年はもうそこにはいない。


 なんという残酷な光景だろう。


 帝国……奴らは彼に一体何をしたのか、恐怖よりも先に怒りと、やるせ無さがこみ上げてきた。

 そのわずかな感情の振れと脈拍の変化を感知し、ぴくっと奴の爪が蠢いた。それが契機だった。


 「カグァアイン!」


 野獣になった彼が突然叫んだ。

 狼のような顎が発した言葉は壊れた機械の摺り切り音のようだ。


 だが、それが俺の名前カインを意味する叫びだと混乱する脳が理解した時には、奴は足元に砂塵を発し、禍々しい殺気を放って肉薄していた。


 賭けに興じる帝国兵共が色めき立つ気配がしたが、そんな事を気にする余裕すらない。


 人間には不可能な予備動作無しの突進である!

 俺は本能的に死に直面したのだと理解する。

 全身が総毛立ち、奴が狂爪を振り上げたのが見えているのに、体がぴくりとも反応しない。

 これが死の瞬間だ。


 ビッ! と一瞬、頬に痛みが走った。


 爪よりも早く、たまたま奴が足先で蹴った小石が頬をかすめたのだ。それが思わぬ引き金になった。

 爪が俺を切り裂く寸前、急に金縛りが解け、体が反応した。


 ギリギリ身をかわすのが精一杯だったが、一撃で引き裂かれなかっただけマシだったのかどうか。


 脇腹から鮮血が噴き出し、俺は痛みに顔を歪めて地面に転がった。カミソリで切ったような鋭い痛みが血の脈動と共に大きくなる。悪魔のように尖った剛毛が掠めただけで、皮膚は裂け、血が滲み出ていた。


 俺は上半身裸でパンツ一丁、身を守るものは何一つないのだ。


 奴が止まり切れずに背後の石壁に頭から激突し、派手な音を立て、土煙を上げながら壁が崩れていった。


 まともに体当たりを食らっていたら、それだけで即死の威力だろう。もはやあれはかつての彼ではない。あの陽気な少年は既にいない。獰猛な肉食獣に同情や悲嘆は無用だ。


 今はとにかく逃げるしかない。武器もなくパンツ姿で正面から戦うのは無謀と言うより愚かだ。


 「待デエエエエエ! ガ、アイン!」


 奴の言葉が今度ははっきりと理解できた。奴は俺の事が分かっている。わかっていながらも殺戮衝動と食欲を抑えられないのだろう。「嫌だ、殺したくない」と叫びながらも次の瞬間に、残忍に生きたまま獲物を貪り食うこいつらを俺は何度も目にしてきた。


 この付近にはこいつの追跡をまいて身を隠すような場所がない。大笑いしている帝国兵たちが囚人のこの俺を助けるはずもない。騒ぎを聞いて他の野獣まで集まってきたら最悪だ。確実に生きたまま食われる。……だが俺はまだこんなところで死ぬわけにはいかない!


 走り出した俺の右側に突然大きな土煙が上がった。続けて、左側の地面を何かがえぐって土煙が立つ。


 振り返ろうとして何かにつまずいたがそれが幸いした。


 さっきまで頭があった位置を黒い物体が唸りを上げて通過し、前方の地面に突き刺さると派手な土煙を上げた。土に深々と食い込んでいるのは奴が投げつけた乾燥レンガだ。運良くコケなかったら、今頃、頭が木端微塵に吹き飛んでいただろう。


 俺を単なる餌としか見ていない凶暴な眼が後ろから迫る。口から舌を出し、四足で迫るその姿はどうみてももはや人間では無い。


 「グオオオオオーー!」

 人とは思えない猛烈な速さで奴の気配が近づいてきた。

 俺には武器もなければ、魔法も使えない。どうする? 何か方法は? 馬車の槍、あれにぶつければどうだ? だが馬車があるのは今逃げている方向とは真逆、逃げる方向を間違えたか! 

 一瞬の判断ミスが死を引き寄せる。


 奴の足は速い、逃げ切れない!

 すぐ後ろに生々しい唾液の音が迫る。

 獲物を前に涎にまみれた牙が光った。


 「グワアイン!」

 トムの手が伸びたが、わずかにとどかず、鋭利な爪先が俺のうなじから背中にかけて皮膚を薄く裂き、血の匂いが風に混じった。


 くそっ、もうだめか!


 「ガアイン! ナンデ、オデハコウナッタ! ナンデ、オ前ハ、無事ナンダ! 憎イ、憎イ、憎イイイイイーーーーッ!」

 ついに追いつかれた。奴の爪が俺の首を切り落とすために振り上がっていく。


 「ちっ!」

 さっきコケた時にとっさに拾っていた小石を握り締め、体を旋回させ奴の爪をかわし、振り向きざまに投げつける。


 奴が一瞬たじろいだが、石は奴の頬をかすめただけだ。これもしくじった! 

 

 「グアィン!」

 奴が牙を剥いたのを目の端に止め、俺は逃げようと前へ転がるように一歩踏み出す。奴の腕が今度こそ逃がすまいと伸びた。


 その時だ。

 突如、俺の背面を恐ろしい轟音が過ぎ去った。


 「ぐぎゃあああーーーーーー!!」


 悲鳴と血しぶきが周囲に飛散し、振り返った俺は、千切れた野獣の上半身が宙に飛ぶのを見た。


 涙を浮かべたような獣の顔に一瞬だけ少年の面影がよぎる。俺の瞳に映ったのは、救いを懇願するような切ない表情である。

 だが、それは幻覚だったのか現実だったのか。もう一度確かめる間も無く、すぐに凶悪な車輪に巻き込まれ、血泥に飲み込まれていった。


 「!」

 最後の瞬間に人としての気持ちを取り戻したのだとしたら、それは余りにも残酷だ。


 俺は倒れ込みながら、勢いそのままに道向かいの廃墟の瓦礫を駆けあがって息を継ぐ。


 振り返ると、整然と隊列を組んで大通りを走り去っていく帝国軍の装甲馬車と、道路の真ん中でたった今馬車に轢き殺されたばかりのトムの下半身が内臓を撒き散らしながらゴロゴロと転がっていった。その上半身は形も留めていない。


 「トム、お前……」

 だが、その血の匂いに反応したのだろう、どこに隠れていたのか、すぐに何匹もの怪物が姿を現し、その死骸に群がりはじめた。


 ガリガリ……


 離れていても骨や肉を引き裂く嫌な音が聞こえてきた。ここは危険だ。奴らの気を惹かぬようにそっと後退する。

 ここではかつての仲間、陽気な少年だった彼の死を前に、涙し、感傷に浸る余裕すら許されない。


 これが現実、これが絶望の街、囚人都市なのである。

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