第 3話 死の宣告の呪いとともに
◇◆◇
シャアアア………と簡素なシャワー室に水音が響く。
正面から水を浴び、クリスティリーナの濡れた長い髪が背中で漂う。
ほのかに染まった柔肌は水の粒を弾いて輝くようだ。
蜂のようにくびれた腰からお尻のラインはまさに神の造形を思わせ、その窪んだ
湧き上がった湯気が微妙にその肢体を隠している。
カサカサカサ……と床を這って近づくものがある。
大きな目玉に手足が生えたようなそれは生き物ではない。
盗み見をするために、術によって放たれた
その邪な目が近づく。
目玉の向こう側にいる男の血走った眼と、はぁはぁ……という荒い鼻息が聞こえてきそうだ。
美しい滑らかな素足、その太ももが見える。
もう少し近づけば、その先には……。
ボン! と突然、床が
予め周囲に展開していた結界を踏んだのだ。
「またですか、
彼女はため息をついてシャワーの栓を閉め、バスローブをまとった。
湯気で曇った窓を拭くと、月夜に幾つもの尖塔が浮かんでいる。天に向けられた槍の穂先のようなシルエットは月明りを浴びて優雅さと共に神聖な雰囲気を醸し出している。
それは滅びた王国のかつての宮殿である。
今は、囚人都市中央基地という。
宮殿を占拠した魔王軍が駐屯地を拡張して造った囚人都市管理地区の総称である。
華麗な宮殿には総指揮官である総督が暮らす総督府が置かれ、囚人都市を含めた旧王国領を統治している。
宮殿の両翼に立ち並ぶ画一的な建物群は、官僚機構が存在した施設で、今は駐留軍の部隊毎に使用する建物を割り当てられている。そこから少し離れた位置にはかつての後宮や神殿が見える。
その様々な建物を取り囲むように美しい庭園が広がっており、その奥にひっそりと建つ飾り気の無い建物は宮廷女官らが住んでいた屋敷である。今は上級の女性将校の居住地として利用されていた。
ーーーー番犬として放たれている魔犬が遠くで吠え、騒いでいるのが聞こえた。続けて何者かの悲鳴が響く。
異変に気付いたのか、将校屋敷の二階の窓に一つ、二つと明かりが漏れ、そのうちの一つ、大きなバルコニーのある窓が静かに開いた。
バルコニーには簡素だが持ち主のセンスの良さをうかがわせる猫脚のアンティークな丸テーブルとイスが置かれている。
白い素足がバルコニーの床を踏んだ。
煎れたばかりの薬茶の入った白いカップが静かに置かれ、夜風に嗅ぎなれた匂いが混じり、ほのかに湯気が立ち昇った。
満天の星空の元に姿を見せたのは女神か。
まさにたった今、天上世界から降り立ったばかりのような神がかり的な絶世の美女がそこにいた。
誰もが思わず見とれてしまう整った気品のある顔立ちに、ぱっちりと澄んだ瞳。その目はとても綺麗だ。
愛らしく膨らむ唇は優しく魅力に満ちている。
神秘的な気配があるが、その容姿にも関わらず冷たく近づきがたい雰囲気というわけではない、むしろ男なら守りたくなる、恋人にしたくなる、そして抱きたくなる美女というべきだろう。それほど魅力的だ。
お飾りにしたい女性ではなく、一緒に生きたいと思わせる女性である。彼女が選んだ男は間違いなく世界一の幸せ者になる。それが思い描ける女性というべきか。
月下に輝く長髪が柔らかに風にそよぎ、髪をかき上げるとバスローブの隙間から兵装を解いてようやく自由になった美麗な双丘が大きく弾むのが見える。
手すりの向こう側に広がる庭園に異変はみられない。魔犬の声もしなくなっている。どうやら大事にはならなかったようだ。
彼女は白く長い指を広げ、星の輝く天にかざした。
両手の間に淡い光が膜状に広がり、そこに血が滲むような邪悪な文字が浮かび上がった。
自身の状態把握スキルの発動はもはや癖に近い。そして彼女はいつものように少し肩を落とす。
もしかしていつの間にか呪いが無くなっていたりしないだろうか、そんな何の根拠もない儚い希望にすらすがりたくなる。例え姿がどれほど美しくても、帝国の一兵士として気張っていたとしても、彼女も一人の生身の乙女である。
「もう残された時間はわずか、これが呪いか……」
自らに言い聞かせるように愛らしい唇がわずかに動いて、やがてその瞳に呪いに負けてなるものかという意志の光が戻って来る。ただ運命に流されるだけの受け身な深窓の令嬢ではない。
白いカップを手に取り、就寝前の薬茶を口に運んだ時、コンコンと誰かが部屋の入り口をノックした。
「?」
「クリスティリーナ隊長、明日のお着換えをお持ちしました」
「カタリアですね、今鍵を開けます。入っていいですよ」
クリスティリーナは椅子に掛けてあった就寝用のフリル付きの寝間着を手にして答えた。
カタリアは2つ年下で、準中級貴族出身の部下である。囚人都市駐留軍の弓兵隊は魔族の女性部隊で未婚者が多いが、彼女には半年前に結婚した夫がいる。
少しして、ためらいがちに扉が開いた。
「失礼します」
カタリアは、部屋に入って思わず息を飲んだ。
月明かりを背に窓辺に立つクリスティリーナの容姿は、人の域を超えている。彼女が仮面を外した私服姿、いや、寝間着姿を見るのは初めてだった。
まさに美の女神がこの世に降臨したとしか思えない美貌に絶句し、男の理想を具現化したそのスタイルに驚愕した。
まさに美の結晶と呼ぶ以外ない。
普段、兵装している時は無骨な鎧をまとい、顔が隠れるような兜や仮面を被っているため、彼女の素顔を見る機会は滅多にない。何年か前、まだ幼さの残る彼女が社交界にデビューした時、魔王様が姿を見せた彼女に思わず求婚を申し出て、あっさりふられたというのは有名な話だ。
それだけでなく、色々な意味で彼女が国民に与える影響は大きすぎる。そのため彼女は兵役に就く際にその居場所や正体を極秘にした。常に顔を隠し、姿が目立たぬように振る舞っていることは部隊員同士の暗黙の了解である。
ギリ、とカタリアは奥歯を噛んでいる自分に気づいた。
カタリアとて美女である。
そんなカタリアを妻の一人に
だが、事実は違った。
彼は、この基地にクリスティリーナが配属されていることを知り、彼女を手に入れるための手駒として彼女が率いる弓兵隊員の自分を妻にしたのだ。
他の女を物にするための道具に過ぎなかった。
それを知ったとき、カタリアは夫を恨むよりもその欲望の対象になった美女を憎んだ。
だが、要は彼女を亡き者にし、自分が彼の子を産めば良いのだ。その子がいずれ王座につく可能性もゼロではない。放っておいてもいずれ彼女は短い命だ。
カタリアらは彼女の呪いを解く方法を調べる協力を申し出ていたが、その実は逆だ。呪いが解けぬように上がって来る情報を握りつぶし続けている。それだけでカタリアの望みは叶う。
「何か外が騒がしかったようですね」
「ええ、侵入者があったようですが、ご安心ください。対処済みです。危険はございません」
「そうですか」
対処済みということは、捕まえたか殺したか、魔犬が騒いでたことを考えれば後者だろう。侵入者は魔物だったのだろうか、この基地の防備から考えれば生身の囚人が塀を乗り越えることはありえないだろう。
「クリスティリーナ隊長、ここに儀式用の装備を入れておきますので、明日はこれを着てくださいとの伝言です」
カタリアはそう言いながらクローゼットを開けると、その中に持ってきた儀式用の華やかな軽装鎧を掛け、横目でクリスティリーナの様子を伺った。
「わざわざありがとう、カタリア」
クリスティリーナは鏡の前で髪を直している。
カタリアは素早く小瓶を取り出し、男に言われたとおり、クリスティリーナに気づかれないようクローゼットの中に積まれている彼女の下着に毒の粉を振りかけた。
魔術の込められた二種類の混合毒である。一つは徐々に彼女の心を
じきに気が弱くなった彼女を男は間違いなくものにするだろう。
だが、そうなったとしても呪いが彼女を殺してくれる。彼女が彼の寵愛を受けるようになったとしても、その月日はそう長くは続かない。そして万が一にも彼の子を産む未来はやって来ない。
「これで失礼いたします」
「ご苦労さま」
パチンとクローゼットを閉じたカタリアは何事も無かったかのように一礼すると部屋を出て行った。
「ふぅ、今度は彼女ですか……」
クリスティリーナは立ち上がってクローゼットを開き、諦め顔でため息をついた。同じような行動をとったのはこれで一体何人目なのか。皆、あの男の妻や妾になった者ばかりだ。
クリスティリーナは毒のかかった下着を取り出し、石床に置くと火の魔道具を使って、それに火をつけた。
あっと言う間に燃え上がる炎。
その揺らめきに自分の寿命が重なる。
「もって、あと数か月といったところか……」
今さら白馬の王子が目の前に現れて、この呪いもろとも私を奪っていくなどと夢見る少女ではない。
かといってあの男の妻になるのは死んでも嫌だ。王家の権威を振りかざして良いように女を貪り尽くす男。いくら一夫多妻が常識と言ってもあいつの行為は目に余る。顔や体型も好みではない。むしろ近づかれると鳥肌が立つ。
クリスティリーナは両肘を押さえ、ぶるっと身震いした。その足元には目玉だった物の破片が落ちている。
自分の前から消えて行った仲間の顔が浮かぶ。男に囲われた彼女たちは今どんな暮らしをしているのか。王位継承権を有する王族と結ばれたのだ。彼女らの親は喜んでいるだろうが、本人たちはどうしているのか。
煙を
そのあっけなさが自分に残された月日を思わせる。
嫉妬か独占欲か、暴漢が投げつけた呪い玉である。それが彼女の運命を狂わせた。貴族の使命を果たす年齢に達したのと時期が重なったこともあり、休業と同時に兵役に就き、こうして今、彼女はここにいる。
呪いは死の刻限を定めるもの、その日がくるまで恐怖に怯えさせ、数年かけて彼女を死に至らしめるという。
ふいに心臓を締め付ける痛みと、それに伴うわずかな時間の失神という症状は薬茶を飲んですら既に3日おきにまで短かくなっている。しかし、その症状を他の誰にも勘づかれてはならない。あの男が狙っている以上、わずかな隙も見せられない。
呪いを解く方法を手を尽くして調べているが、神殿や神への信仰を排斥した今の帝国にはそもそも神官という者がいない。神殿の建物は残っていても機能していないのだ。仮に解呪方法を熟知する者がまだ生き残っていたとしても粛清を恐れて表には出てこない。神殿が残るとされる辺境の地に赴く時間ももはや残されていないだろう。
これまで分かったことと言えば、この呪いは彼女や魔族の力では解呪は不可能だということだけである。
なぜなら、それは魔族ならざる者の力が無ければ解けないという陰湿なものだったからだ。
魔族社会中でも名の知れた貴族家の令嬢が魔族ならざる者に頼ることなどできるはずがない。そもそも魔族ならざる者というのは何なのか。魔族の国から最も遠いこの地でなら、何かわかるかと思ったのだが、どうやら無駄だったようだ。
何一つ呪いに関する手がかりが掴めぬまま、その呪いによる終焉は刻一刻と近づいている。
「これからどうすれば」
いっそ全てを捨てて、残された時間が許す限り、解呪できる地を探しながら新しい世界を見分する旅に出るのも悪くないかも知れない。だが、貴族としての枷が自由に生きることを許さない。兵役期間が終わらぬ限り自由はないのだ。
貴族として爵位を受けた者は帝都にある栄光の輝水晶に名前が浮かんでいる。それは魔族にとって最大の名誉であるとともに大いなる呪いでもある。名前がそこにある限り、貴族の掟からは逃れられない。死ぬか貴族位を剥奪でもされなければ名前が消えることはない。
バルコニーの椅子に腰を落とし、彼女は静かに夜の景色を瞳に写す。
基地の周囲に広がるのは、月明かりに照らされた囚人都市の救いようのない灰色の風景。
閉塞感に満ちたそれは、彼女の心の在り様そのものであった。
◇◆◇
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