第10話 獣化の少女3

 ーーーー朝が来た。廃墟の壊れた壁の隙間から朝日が穏やかに差し込んでくる。


 だが、なぜか空気が虚ろだ。

 俺は、ハッとして身を起こした。

 隣に寝ていたはずのエチアの姿がない。

 床を触ってみるが既に冷たい。


 「エチア!」

 廃墟から飛び出して見回すが、そこに彼女の姿はなかった。

 一晩で獣化が進んだとは思えない。おそらくエチアは彼女の意思でここを出たのだろう。

 

 大声で叫びまわりたかったが、ここでは危険だ。魔獣を呼び寄せてしまう。

 彼女が行きそうな場所に足を運んだが、どこにもいない。不安で胸がざわざわする。振り向くとそこに彼女が微笑んでいそうでつい振り返るが、空しい風が吹きぬくだけだ。


 俺は隠れ家を変えずに待った。

 翌日も、その次の日も待ったが、エチアは帰って来なかった。心に穴が空いたような、こんな気持ちは初めてではない。だが、やはり辛い。


 ◇◆◇


 一週間近くエチアを探してみたが、無為な時間だけが経過し、二人で蓄えた干し肉の残りももはや無い。

 周辺で危険な魔獣を見かけるようになった。ここを隠れ家として使うこともいよいよ限界のようだ。移動しなければ奴らに見つかってしまうだろう。


 もう覚悟を決めるしかない。エチアを思うと胸がえぐられるが、俺には東の大陸で帰りを待っている人がいる。俺はここで死ぬわけにはいかないのだ。


 昼の太陽が容赦なく降り注ぐ中、二人で準備してきたロープを肩にかけ、俺は例の地点に向かった。

 

 廃墟を後にして、用心しながら進む。所々に幽鬼や野獣のような奴がうろついているが、少し遠いのでこっちには気づいていない。

 「用心しなければ……」

 できるだけ物影になるように迷路のような路地裏を選ぶ。以前下調べに来た時と違い、繊細な感覚を持つエチアがいないので、いつどこから襲われるかわからない。


 辺りは静かすぎる……

 カッポカッポ……

 残骸の間に足音だけがやけに反響する。

 その音を聞きつけ、背後に嫌な気配が集まってきた。

 カッポカッポ……

 長靴の間抜けな足音が妙に周囲に響く。


 立ち止まった俺の背後に気配がある。エチアが付いてきたわけではなさそうだ。


 魔獣だろうか。それは次第に近づいてきたようだ。

 間もなく飛びかかってくるのは確実だろう。背中にじっとりと嫌な汗が滲み、俺は意を決し棍棒に触れた。



 「へひあっ!」

 俺はとっさに奇声を上げ、骨棍棒をかざして振り返った。



 ふいをつかれた二匹の雌の魔獣の一匹が驚いて尻もちをつくのが見えた。そいつらも元は人間だったのかどうか、二足歩行の化け猫のような魔獣である。


 「ひよっ、へ、変態だ!」

 「変態を食ったら変態がうつる! こいつは食ったらダメな奴だ」

 顔を手で覆い、そこにいた魔獣の雌が2匹して逃げていった。


 俺の足元にたごまるパンツ。

 からくも危機を脱したようだ。

 「ふっ。恐れをなしたようだな」

 少々キザにつぶやき、俺は冷静にパンツを履きなおした。棍棒を抜いた時にパンツのひもが切れたのだ。


 雌の前で、突然、真っ裸で棍棒を振り上げ、朝からずっと元気なあそこ丸出しで奇声を放つ男……。

 魔物の目で見ても、ただの変態だったらしい。

 自尊心が傷ついたが、まあ、戦闘にならなかっただけ儲けものだろう。


 幾多の瓦礫を越えて進むと、最近崩れたのか、壊れた家屋が倒れかかって塀が一部壊れている。ここが例のポイントである。向こう側に行ける唯一の地点だ。この屋根に上れば塀を越えられる。

 俺は塀の残骸を集めて足場を作り、手を伸ばして屋根の端にぶらさがった。

 そこで這い上がろうともがく姿はまるで壁に張り付く死にかけのヤモリだ。そのうちパンツが脱げかかる。危険だ……後ろから見たら丸見えかもしれない。俺は片手で半ケツ状態のパンツを押さえた。



 「待て! 貴様! その手を離せ!」

 その時、背後で男の声がした。

 帝国兵である。


 しまった! 見つかった。

 おそらく、崩れたこの廃屋が塀に倒れ掛かって、逃げやすくなっていることに気づいたのだろう。廃屋を撤去しに来たらしく、数人の帝国兵が道具を担いで集まっていた。


 「早くその手を離せ!」

 今、手を離せば、パンツが脱げて丸見えだ。変態かこいつ? と一瞬思ったが、そういう意味ではないことにすぐに気づく。

 

 「待てるかよ!」

 俺はパンツを上げ、それが脱げる前に両腕に力を込め体を引き上げにかかる。


 「待てと言っているのだ!」

 帝国兵が剣を抜いて走り寄ってきた。ぶら下がっている状態では何もできない。しかもパンツが下がっていく。

 ヤバい! やられる!

 丸出しの尻を刺される!

 

 その時だった。物陰から飛び出した影が帝国兵に体当たりして、帝国兵を吹っ飛ばした。

 「カイン! 行って! 逃げて!」

 その声はエチアだ。

 

 かなり獣化が進んだらしく、四つ足で地面に這っている姿はもはや狼のような獣にしか見えない。


 「おのれ! 魔物め!」

 仲間を吹き飛ばされた帝国兵の三人がツルハシを手にエチアを囲んだ。武器らしい武器を持っていないのが救いか。


 俺はその間に屋根によじ登ってパンツを上げると、屋根の端にロープをつなぐ。


 そこから見える景色はまるで違う。遠くにかすんで見える塔のような構造物に目を細め、俺はついに重犯罪人地区を隔てる塀向こう側を見た。そこには広大な畑が広がっている。

 老騎士ロデアスの地図は正確だった。あと少し彼が生きていれば俺と同じように脱出できただろう。

 

 エチアは素早い動きで帝国兵を翻弄して、体当たりを食らわせている。噛みついたり爪を使わないのは、エチアが人間らしい心を保っているからだろう。帝国兵を吹き飛ばして気絶させ、エチアがこっちを見上げて二本足で立ち上がった。


 「エチア、来い! 一緒に行こう!」

 俺は急いでロープを降ろし、手を伸ばして叫んだ。


 立ち上がったエチアはほとんど人間の姿になっている。最初に出会った頃に近い。獣姿と人間の姿を行き来できるようになったのか? だとしたら、一緒に行けるんじゃないか?

 だが、エチアはそのロープを手にすると、鋭いかぎ爪を伸ばし、それを断ち切った。

 

 「な、何をするんだ! エチア!」

 「やはりダメ。私が付いて行ったら、カインが酷い目に遭う」

 うつむいたまま、エチアは祈るように、そして決意を込めて両手を胸の前でぐっと握りしめた。


 「何を言うんだ! 獣人族だと言えばいいじゃないか!」

 寒い、嫌な予感がする。エチアが今、俺から離れようとしている。しかも、それは俺を思っての行動だ。こんなに優しい子を一人にして行けるはずがない。


 「カイン、ここは人族の国よ。獣人族の国はこの辺りにはないわ。それに肉体も精神も不安定だから、すぐ獣化の病だとバレる。だから一緒には行けない! それにこの病の進行はやっぱり止まらない、カイン! 私の分まで生き延びて! 私にかまわずに前に進んで!」

 涙を浮かべて見上げるエチアがいる。


 「バカなことを言うな! 俺と一緒に来てくれ! 俺は、行けと言われて、そのまま行ってしまえるような人間じゃない! 俺は君が好きなんだ!」

 叫んだ俺の言葉にエチアがハッとなった。


 「カイン……あなたって、本当にバカ……」

 涙がその頬を流れ落ちる。


 「!」

 その瞬間だ。

 不意にエチアの背中にドスドスと矢が突き立った。

 目覚めた帝国兵が矢を射たのだ。

 エチアの全身が見る見る間に毛に覆われ、矢が盛り上がった筋肉に押し出されて地面に落ちた。


 「エチアーーーー!」

 俺の声も届かない。怒りに燃える眼を光らせたエチアが自分を射た帝国兵に向かって突進した。


 「エチア、待って! 行くな! ぐっ!」


 俺が叫んで立ち上がった時、肩が突然熱くなった。

 一瞬何が起きたのかわからない。ただ肩に一本の矢が突き立っているだけだ。


 え? 射られた……のか?


 矢の反動で思わずよろけ、塀の上端に倒れ込む俺にさらに帝国兵が矢を引き絞っていた。


 ひゅう! と俺の頬を矢がかすめる。

 

 「よくも! カインに!」

 一匹の獣になった彼女が、物凄い勢いで方向を転じて、俺に矢を射た帝国兵に飛びかかっていく。


 「くっ!」

 体勢を崩しながら、身を起そうと塀の端に手をついた瞬間、塀が音を立てて崩れた。しまった! だが、どこを掴むこともできない。


 無情な浮遊感が俺を襲う。


 「エチアーーーーーーーーーーっ!」

 叫びは天に吸い込まれた。

 視界一杯に広がった青空が一気に流れ去る。


 そして俺の身体は破片と共に塀の向こう側へと落下していった。

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