第11話 回想の美神官

 

 手を広げても、掴めるものは何もない。


 たった今、この手からすり抜けて行ってしまったもの。それはあまりにも大きすぎる。


 高い塀からの落下、地面に直撃すれば死ぬ高さだ。

 喪失感と傷の痛み、そして落下の感覚で意識が遠のく……


 ドバシャア!!

 次の瞬間、盛大に泥しぶきがあがった。


 「く、臭さ、おええええ……」

 俺は背中からドブに落ちた、らしい……。


 その衝撃と余りの臭さが、遠のきかけた意識を現実に引きずり戻した。茶色い汚泥水が俺の身体を覆い尽くそうとしている。

 衝撃で意識を失ったり、頭からドブに飲み込まれたりしていれば上下感覚すらわからなくなって溺れ死んだかもしれない。


 俺はもがきながらも立ち上がった。


 「うおおおおお……! エチアーーーー!」


 俺は肩に刺さった矢を引き抜いて叫んだ。鋭い痛みが走ったが、返しの小さい鏃だったためか意外に出血は酷くはない。


 「エチアーーーーーー!」

 大声で叫んだが返事はない。


 何度も、何度も繰り返し叫んでもだ。

 

 塀の向こう側から俺に答える声は無い。

 ギリッ、と歯を噛みしめるが、何の気配すら一切伝わって来ない。ただそこには、俺の思いを拒絶する白壁がそそり立っている、それだけだ。


 「!」

 あまりにも無情すぎる。塀に拳を叩きつけるが、どうしようもない。

 涙がにじむ。

 胸が苦しい。

 こんなたった一枚の壁、それなのに俺にはどうしようもないのだ。


 「くそおっ!」

 塀に血が染みついた。

 擦り切れ、血のにじむ両拳を冷たい壁に押し当て、歯を食いしばって感情を押し殺す。


 今は傷の痛みよりも心が痛い。

 エチアを置いてきてしまった。

 その悔しさが胸を締め付ける。

 重犯罪人地区、その塀は全てを拒絶する。


 ドブの溝の擁壁ようへきにもたれかかって、どのくらい放心していただろう。

 エチアの返事はない…………。


 このままではダメだ……。

 この場所で、俺にできることはない。

 それならばだ。

 それなら、俺ができることを探さなければならない。


 エチアは無事だと、ただ信じるしかない。

 エチアは数本の矢を受けていたが致命傷ではない、きっと彼女を助ける、そんな日が来る、そう思うしかない。

 そして彼女が言ったように、俺はやはり前に進むしかないのだ。


 心を無理やり押し殺して落ち着いてくると、今度はドブの臭いが無性にキツイ。

 かなり汚いドブだということに今さら気づいた。

 住民がトイレとして使っているのだろうか、腰まで浸かっていたのは泥ではなく、ほとんどが糞だ。

 これは臭くて鼻が曲がりそうだ。


 溝の石壁を上ろうともがいてみたが、よじ登ろうにも溝は意外に深い。しかも糞尿まみれの泥水が滑って上がれない。糞とはこんなにも滑るものなのだ。


 手を引っかける所も無く、腕を無理に動かすと肩に激痛が走る。何度か上るのに失敗したため全身糞まみれになってから、やはり俺はここから離れるしかないのだと悟った。この場所では溝が深すぎて這い上がることなど不可能なのだ。


 俺はどぶに浮かんでいた長靴を両手に持ち、生き延びるために溝の上流へ向かって歩き出した。



 ーーーーーーーーーー


 「ついに俺は重罪人地区を脱出したんだぞ。喜べよ、俺!」

 歩きながら一人で声を上げてみたが少しも嬉しさはない。

 

 どんなに感情に蓋をしても重く心にのし掛かってくる思いがある。忘れようとすればするほど、どうしてもエチアの顔が目に浮かぶ。助けに行く手段すら俺にはない。なんという無力さだろう。


 「エチア、いつか俺は必ず……」

 だが、必ず何なのか。

 そもそも、いつかって、いつだ? 

 俺はあまりにも非力で無力だ。しかし今は、そんな言葉で自分を騙すしかない。


 俺の心に、こんな囚人都市を作った帝国への憎しみが沸き上がってくる。今までは自分の不幸を思うだけだったが、エチアとの出会いと喪失で何かが変わった。


 獣として死んだトムの泣き顔とともに胸の奥に帝国の残忍な行いへの怒りが宿る。


 俺は暗い火を目に灯しながら、生きるため、その重い足を引きずりながら糞だらけのドブの中を進んでいく。




 ーーーーーーーーーーー


 やがて溝の左右には石壁の家々が建ち並び始めた。集落地に入ったらしい。多くの人が住んでいる気配があるが、溝を背にして家が建っているらしく、溝の中を歩く俺に気づく者はいない。


 時間が経ち、鼻が臭いを感じなくなってきている。肩の傷も麻痺しているのか、怒りが痛みを凌駕しているのか、もう何も感じない。


 魂の抜けた幽鬼のように汚水をかき分けて歩く。

 

 どのくらい曲がり角を過ぎたのか、複雑に入り組んだ溝の壁にようやく地上に登る石段らしきものが見えた。


 「……やっと上に出られるのか」

 俺の言葉には感情の色が無い。

 自分で自分を観察するようにそんな事を思いながら、糞まみれの身体を引きずって石段を上り、顔を出した。


 「!」

 目と目が合った。


 「ぐ!」

 「ぐ?」


 「ぐぎゃーあああーーーー! ち、痴漢、変態だあーー!」

 エチアより明らかに年下だろう。

 渡した板の上でパンツを履きかけていたくりくり目の少女が叫んだ。


 トイレであった。

 糞まみれでほとんど全裸の男が、暗い顔をして女子トイレの中から顔を出したのだ。まさしく疑いようのない痴漢、そして変態であった。


 少女は悲鳴を上げながら脱兎のごとく飛び出していく。


 すぐに大勢の足音が近づいてきた。

 流石にこれはまずい、魂が抜けたような状態だった俺だが、急に血が巡り、朦朧もうろうとしていた意識がはっきりしてくる。人間らしい感情と身体の感覚が戻ってきた。


 扉は一つ、周囲に逃げ場は無い。だが、また階段を降りて糞の中に戻ることなど到底考えられない。

 こんな時はどうする?

 とにかく逃げねば、と思ったが足がもつれる。


 「あれ? 体が動かない? み、妙だな……」

 

 人の声を聞いて、急に張り詰めていた何かが切れたようだった。突然、景色が揺らめいて、開いた目にトイレの床板が迫ってきて、頬が板に触れたのに気づく。

 ーーどうやら俺は倒れたらしい。


 高い塀から落ちた衝撃、矢傷の腫れ、エチアを失った痛み、ヘドロの溝を延々と歩き続けた疲れ、それらが一気に俺に襲い掛かったのだ。


 その直後、バンと扉が威勢よく開け放たれた。


 「この変態!」

 「乙女の敵!」

 僅かに開けた目に誰かが棒を振り上げたのが映る。次の瞬間、パコーンという音が響き、目の前に火花が散った。

 まったく前途多難だ……他人事のように思いながら、俺は意識を失った。



 ◇◆◇


 ーーーーざわざわと音が響く。反響して混ざり合い、絡み合った糸のように意味をなさなかった言葉が、ようやくほぐれ出す。


 「ーーこいつ、本当に最初から倒れていたんだな?」

 「なぜ、トイレに侵入して倒れた?」

 「俺が知るかよ、そんなことはどうでもいい! 怪我をしているようだが、見ろよこの身なり、パンツ1枚だぜ。おかしげな骨を持っているし、やはり変態じゃねえか?」

  

 目を開けようとするが、どうしたのか、目の開け方を忘れてしまったかのようだ。深い闇の中に俺は漂っていた。


 「いや、単にどぶに落ちただけの哀れな迷い人かもしれん」

 「これは矢傷だぜ。それに服はどうした? どぶに落ちたくらいで服まで無くすか? こいつはきっと帝国兵に追われた囚人だぜ。そのくせパンツ一枚になってオリナを襲おうとした変態野郎だ。犯罪者だ、許せんな、さっさと殺しちまおうぜ!」


 「まあ待て、まだ殺すな、今、薬屋の親父が来た……。目を覚まさせてから、容赦なく徹底的な尋問をすればよかろう」


 「おい、起きやがれ!」


 俺は体をゆすられるのを感じた。


 肩が熱く、頭がずきずきと痛む。

 意識が戻ろうとして俺は幻を見た。

 “薬屋” という俺にとって大切なキーワードを耳にした、そのことが後頭部の懐かしい痛みとともにある美しい妖精の姿を俺の脳裏に描かせた。

 エチアを救い出せなかったことも、心優しい妻を思い浮かべる一因になったのだろう。


 俺の脳裏に浮かんだのは、北の国で薬屋を営んで俺を待つ愛しい一番目の妻ナーナリアの微笑みである。


 「薬……ナーナリア……君なのか?」

 俺はつぶやいてわずかに目を開く。


 俺を抱きかかえて、口移しで薬を飲ませていたのは美しい妻、妖精族の高位神官ナーナリア……ではなく、厳ついひげ面の親父だった。


 「おい! 気づきやがったか、この野郎!」

 ぶーーーーーーっ! 俺は薬をそいつの顔面に吹き出した。

 

 そして言うまでもなく、次の瞬間、俺はさらに青ざめて気絶していた。



 ◇◆◇


 ーーーー意識が無くなるなか、俺は最初の妻、妖精族の美女で神官だったナーナリアとの出会いを思い出していた。肩の傷が悪化して俺は死ぬのだろうか、走馬灯というやつだ。


 ナーナリア・ア・アベルティア。俺の初めての妻で、俺のへその下のど真ん中に彼女の婚印紋があるのはそのためだ。アベルティアはアベルト家の女という意味である。


 妖精族は人間族とほぼ背格好は同じだが、長命種で全般に細身で可憐で愛らしい。争いを好まない平和主義者が多く美男・美女が多いが人口は少ない。いわば希少種である。


 ナーナリアは神官だった。

 神官は、妖精族にとって特別な存在で、成人前に容姿端麗な美少女から特に聖魔法の才能に優れた者が選ばれる。


 ナーナリアは稀に見る美しさと魔法の才能で数十年に一人と言われる最上級の神官位を授かった。神官は一生独身で過ごすのが通例で結婚する者は極めて稀である。しかも最高位の神官が結婚するなど数百年に一度の珍事と言われ、大騒ぎになったほどだ。


 ナーナリアは白い雪のような素肌に金髪碧眼で、人間には無い妖精独特の美しさを纏っている。争いごとや冒険には全く向かない。線が細くておっとり系の美女で、ちょっと天然系だ。妻問い婚なので、ナーナリアの家には年に数週間程度しか滞在できないのが惜しいが、俺とナーナリアはもちろん相思相愛である。


 俺が不在の時は、ナーナリアに妻問い婚を申し込む男共が群がってきて、結果的にお店は繁盛している。ナーナリアが街に出かけようものなら、道行く男共はその美しさに皆振り返る。既婚であることを示すチョーカーの意味を知らずに言いよる男は跡を絶たないらしい。

 

 今から約5年前、旅商人として港町を訪れていた俺は、そこでナーナリアと運命的な出会いを果たした。


 犯罪組織に誘拐されるところだったのを俺が救ったのだ。と言ば聞こえが良いのだが、実は飲み過ぎたので路地裏でキラキラ吐いていたら、ナーナリアを担いで走ってきた悪漢がゲロで足を滑らせ、転倒して気絶したのだ。


 これがナーナリアとの出会いだ。


 彼女の依頼を受ける形で、数週間かけてようやく犯罪組織が支配するその町を脱出したまでは良かったが、森に入ってすぐに半人半獣の野族やぞくたちが襲撃してきた。

 野族というのは、顔はネズミだが二足歩行で、わりと知能が高く、短剣等の武器を扱うのにも長けている奴らである。10匹前後の集団で狩りをしながら放浪しており、東の大陸では亜人というより魔物の一種と見られている。


 俺は少々かじった程度の下手くそな剣さばきで勇敢に戦った。

 その頃の俺はまだ騎士の訓練も受けていないズブの素人で、もちろん見た目だけである。


 「えい、えい!」

 念のために持たせた護身用の木の杖をナーナリアは必死に振り回していた。


 「大丈夫かい? ナーナリア」

 「はい」

 俺を信頼して愛らしく微笑むナーナリア。


 よし、と再び格好をつけて、目の前の敵に剣を向けた時、目玉から火花が散った。後頭部への強烈な痛み!

 やりやがった……杖がナーナリアの手からすっぽ抜けて俺の後頭部を直撃したのだ。


 「あらら」

 気まずそうに口元を押さえるナーナリアの姿が次第に薄れて……

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