第 9話 獣化の少女2
「そっちに行ったよ、カイン!」
獲物を追いかけ回していたエチアが叫ぶ。
「よしっ!」
俺は飛び跳ねて逃げる小獣めがけ、次々と石を投げた。エチアから逃げ回ってだいぶ動きが鈍ってきた。
「この! 当たれ!」
兎に似た獣が着地した瞬間、その頭についに石がヒットした。
「やったあ!」
エチアがぴょんぴょん跳ねて喜ぶ。
「晩飯ができたな」
俺は駆け寄って、その獣を捕まえた。
「先にもらうね」
エチアはそう言って、まだ温かい獣に牙を立て、ちゅうちゅうと血をすすった。出会って三週間だが、それでも獣化がかなり進んできたのが目に見えてわかる。
だが、こうやってエチアに血を抜いてもらえると、この後の調理が楽である。もっとも調理と言っても火が無いので、主に天日で乾燥させた干し肉だ。時には生肉のこともある。危険だがこの場所で生き延びるにはそれしかない。
「カイン! ほらほら見て、花を見つけたのよ」
獲物を担いで、今日の隠れ家に決めた廃屋に向かう途中、エチアはちょっと照れながら俺に花を差し出した。
美しい薄いピンク色の小さな花の可憐な雰囲気はどことなくエチアに似ている。
「花か? へえ、珍しい、かわいいな。この辺で花が咲いている場所なんかあったのか。気づかなかった」
花を受け取るとエチアは満面の笑みを浮かべた。
「えへへっ、向こうの壊れた屋敷の窓の下に咲いていたのよ、薬草の一種よ。これ」
俺が花を覗き込んでいるのを嬉しそうに見ている。
「これも薬草か、どんな効能かな? 何て言う名前なんだろう?」
「滋養に効く薬草だったはずよ、食べる種類のね」
「そうなのか? 知らない薬草だな。食べられるのか」
薬草にはかなり興味があり、人より詳しいはずなのだが、この花は東の大陸では見た事がない。
俺はぱくりと花を食べてみた。特に変な味はしない。草の匂いがするだけだ。
エチアは俺の行動に目を丸くした。
しまった。女の子からもらった花を目の前で食う男がどこの世界にいるというのだ。
「あ、あの、これは習性というか……」
慌てて弁解しようと思ったが、意外にエチアが嬉しそうな顔をしている。怒ってはいないようだ。
「まさか、食べちゃうなんて、びっくり。でもこれで……どんなに離れていても一緒にいられるよね」
不意にエチアが俺の背中に額を押し付け小声でつぶやいた。
「え? 何か言った?」
「なんでもないよ」
その時だ、不意にぴくりとエチアの猫のような耳が動いた。
「カイン、大変、囲まれている!」
ハッとしてみると、周囲の瓦礫の影から出会いたくない奴ら、幽鬼化した死人の群れが姿を見せた。獣化した奴らよりは動きが遅い分マシだが危険な魔物である。
唯一の脱出地点の付近には魔獣が多い。そんな危険地帯ほどではないがこの辺りにもいることは分かっていた。しかし、一度にこれだけの数が現れるとは予想外だ。
「これはまずいぞ」
俺はエチアが俺のために見つけてきてくれた護身用の骨棍棒を手に取った。今はこれが俺の最大の武器だ。何か大型獣の大腿骨らしいが、適度に大きく手になじむ。意外に軽くて強靭で、打撃武器として骨は優秀だ。
ぐるるるる……エチアが爪を立て、牙を剥いて唸った。
幽鬼は全部で5体、動きは遅く単純だが、既に死んでいるため活動を停止させるまで執拗に噛みついてくる。
倒すには頭部を切り離すか、打ち砕くしかない。恐ろしいのは足音がしない点で、寝ている間に襲われて食われることもあるらしい。一旦しがみつかれると逃げ出すことは不可能に近いほど力があるという。こいつらに生きたまま食われるのだけは御免である。
「退路を断たれる前に、倒すしかないぞ!」
俺は両手で骨棍棒を握りしめ、一番近い敵に向かって飛び出した。同時にエチアも飛び出して、俺が狙った敵の右にいた幽鬼に襲い掛かった。
ガッ! と幽鬼が俺の渾身の一撃を片手で止めた。
なんという力か! 生きている時はリミッターがかかるものだが、こいつら死んでいるからそのリミッターが無い状態なのだ。
俺は弾き飛ばされて、瓦礫の上に転がった。
「危ない! カイン!」
その声にとっさに身を回転させ逃げる。
俺が倒れていた場所に、跳躍していた幽鬼が二体着地して砂煙が上がった。
エチアは、一体目の幽鬼の首を両手で掴んでねじ切った。
盛り上がった上腕筋は既に人間のものではないが、その顔は俺を心配する少女である。
俺は、目の前の幽鬼の足首を薙ぎ払った。
骨が砕ける音がして、そいつは仲間を巻き込んで倒れた。
エチアはさらに別の幽鬼に向かって背後から飛びかかっている。
「無茶はするな! エチア!」
叫びながら、今度こそ、と起き上がろうともがいている幽鬼の頭を打ち砕く。両手で棍棒を強く握りしめ、さらに回転を付けて、もう一体の頭も砕いた。こいつら、力は強いが腐っているからか体は脆い。
「あと一体よ! カイン!」
エチアも二体目の幽鬼を同じように倒した。
もう一体! そう思って幽鬼に骨棍棒を向けた時だった。
ひゅうと風を切る音がしたかと思うと、矢が次々と幽鬼の身体に突き刺さった。
帝国兵である。
いつの間にか巡視していた帝国兵が矢を射かけてきたのだ。
だが、そいつらは別に俺を助けようとしているわけではない。
見ただけでわかる。憂さ晴らしか賭けでもしているのか知らないが、ニヤニヤしながら二人の帝国兵が馬車の上から矢を放っているのだ。
最後の幽鬼が崩れ落ちた時、一本の矢がエチアの肩に突き刺さるのが見えた。
「エチア!」
帝国兵の奴らから見れば、エチアも獣化した魔物にしか見えないのだろう。さすがに俺は囚人服なので俺には当てようとはしない。
エチアは肩を押さえたが、その両目が赤く光った。
矢がなおもエチアの周囲に突き立つ。エチアの回避行動の速さ、それは人の動きではない。
「やめろ! 彼女はまだ獣になっていない!」
俺は帝国兵に向かって叫んだ。
その横を黒い影が走り抜けた。
それが怒り狂ったエチアだと気づいた時には、エチアは馬車の上の帝国兵の一人に襲い掛かっていた。その腕に噛みつき、爪を振う。
「やめろ! エチア!」
叫んで駆け寄る俺の目に、帝国兵の一人の首が飛ぶのが映る。
もう一人の帝国兵は腰の剣を抜いた。
エチアが噛みついていた血まみれの牙を剥いて振り返る。
「やめろ!」
俺は走りながら拾った石を投げた。
石は帝国兵の手に当たって、剣の切っ先はエチアから反れた。
「こっちに来い! エチア!」
俺の叫びが聞こえないのか、獣の顔つきをしたエチアが逃げようとする帝国兵に襲い掛かろうと身構える。
「エチア! こっちに来るんだ!」
俺の声に、ようやくエチアははっとして動きを止め、素早く馬車から飛び降りると俺の手を掴んで振り返りもしないで走った。
「大丈夫か、エチア」
隠れ家に戻ると、エチアは震えていた。怒りに我を忘れて帝国兵を殺したのだ。獣の振る舞いをした自分自身が怖いのだろう。
俺は肩の矢を抜いてやると薬を塗って、何も言わずその身を抱きしめた。
「もう大丈夫、落ち着いた」
しばらくしてエチアが腕の中で俺を見上げた。
「カインも腕に怪我してる」
そう言って、いつものように俺の傷口を舐めてくれる。
「エチア、君の獣化を治す方法はきっとあるはずだ」
「治療方法を探してくれるってこと?」
「ああ、約束するよ。ここを出て、必ず治療法を見つける」
「そう……、嬉しい。何年でも待つから。ーーずっとね。こうしていたい」
エチアの瞳が潤んでいた。
早くここを脱出しなければ…………
獣化の病は囚人都市に来る前に通過した街では噂でも聞いたことがなかった。もしかするとこの土地特有の病かもしれない。外に出れば悪化を遅らせることができるかもしれない。エチアは獣になると人ではいられなくなるから、と
「明日、一緒にここを脱出しよう」
「外に出られるの?」
「ああ、間違いない。俺と一緒に逃げよう」
俺はその赤い唇にキスをして優しく抱きしめた。
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