第 8話 獣化の少女

 「ここが塀か、実際に見ると、かなり高さがあるな」


 重犯罪人地区の西辺となる塀だ。


 大戦後に急ごしらえで造られたものらしく、あちこちの造りは雑で、上端の処理は適当そのものだが、大きな石を抱えて打ち付けて見ても表面にヒビすら入らない。見ため以上に堅牢そうだ。


 ヨデアスの地図は布に炭で描いた大雑把なものだが、要所はしっかり把握されていて頭に入りやすかった。塀沿いに目印となっている特徴的な残骸や枯れ木を探せば良いのだ。


 しかし、言葉で言うのは簡単だが、実際歩くと障害物がとても多い。破壊された家の残骸や市街戦で設置されたままの尖ったバリケードや逆茂木、塹壕、そして厄介な有刺鉄線までもが行く手を阻む。


 それでもトムの形見の少し大きすぎる長靴のおかげで、裸足では危険すぎる場所にも入れるようになったのは大きな進歩だ。高熱で辺り一面を尖ったガラス質の破片だらけにした着弾跡を横切ることもできる。

 

 あれから一週間、俺はずっと脱出路を探して移動を続けていた。


 脱出地点を示す地点は、もっとさらに北の方らしい。


 この先は、多少は草が生えている土地である。食料となる小獣が生息しているが、魔獣も多い地帯なのであまり近寄りたくないエリアである。こっちが先に食料になっては元も子もない。


 俺を襲った鬼の仮面の監視者もどこに潜んでいるかわからない。ただ、こいつは心配してもしょうがないとも言える。どんなに警戒しても相手はその存在を全く気付かせることなく忍び寄るだろう。奴が姿を見せた時に対処を考えるしかない相手だ。


 「それにしても、この付近は大きな障害物が多いな」


 崩れた家屋の唯一残っていた壁が行く手を遮っている。ぐるりとこれを回り込んでいくと、だいぶ大きな屋敷だったことがわかる。


 商人の屋敷だったのか、蔵の土台だけがいくつも並んでいて、ちょっと離れた所に立派な門扉だけがぽつりと残っていた。


 ここも、とにかく鋭利なガラス片が多い。尖った針のような鉄くずとともに一面に散乱している。油断すると針を踏みぬいて足の裏に突き刺さりそうになるが、大丈夫、歩けないことはない。


 折れ重なった瓦礫を上り降りして、崩れた壁を乗り越え、やっと地面近くに降り立つことができた。


 ここだけは尖った破片が無い。周囲を針に床で囲われた安全地帯のような所だ。


 屈伸運動の連続で腰が痛い。ううん、と腰を伸ばし、次の目的地を眺めたが、まだこの先にも大きな屋敷跡が続いている。


 どう進もうか、と目を細めた時だ、風に乗って妙な呻き声が聞こえてきた。その音は倒れている壁の下から聞こえてくる。


 「何かいるのか?」


 瓦礫の下の隙間を覗き込んだ俺の顔がその大きな瞳に映った。


 「うへあっつ!」


 思わず妙な声を上げてしまった。カッコ悪いが、まさかそんな所に人がいるとは誰も思わないだろう。しかも女の子だ。


 瓦礫の下の暗闇の中に苦悶に歪む少女の顔が浮かんでいる。かなり可愛らしい顔立ちで、どこかの貴族の令嬢のような気品すら感じさせる。


 「そんな所で、どうかしたのか?」

 「構わないで、あっちに行って」

 その少女は気丈な声を上げたが、どことなく苦し気だ。


 こんな場所に来るような男だ。警戒されるのも当たり前だろう。

 「心配するな、敵意はない。何もしないよ。獣化も起きていないし、ほら、人間だ。君は1人かい? どこか怪我でもしたのか?」


 暗がりの中で少女はわずかにうなずいた


 「薬草があるんだ。分けてやるよ、待ってな」


 ここに来るまでの間に少しずつ集めてきた薬草だ。これでも薬屋を営む妻の影響で薬草には多少自信がある。

 俺は彼女の不安を取り除くため、手元が見えるように少し距離を取って壁際に腰を下ろすと薬の準備をする。


 手持ちの薬草をパンツから抜き取ると、少女が「うげっ、そんな所に?」という顔をしたのが分かる。


 「大丈夫、この葉っぱは塗薬になるんだよ。こっちの根っこは痛み止めだ。かなり効くんだぞ」

 そう言って少女から見えるようにしながら薬草を丸い石ですりつぶす。少女は無言で穴の中から睨んでいるようだ。


 「俺はカイン。東の大陸出身、貧乏貴族の出で旅商人だよ。別に犯罪を犯してここに収監されたわけじゃない、何もしないから出てこいよ、ほらできた。この薬を使うといい」

 少女は瓦礫の影からじっと俺を見ていたが、恥ずかしいのかもしれない。

 

 「ほら、早く使えよ。俺はあっちを向いているから……」

 俺が後ろを向くと、やがて背後で動く気配がした。


 「どこを怪我したんだ?」


 「いいから、こっちを見ないで」

 そう言って少女の手がすりつぶした薬草に伸びる。

 その手を見て、俺は思わずぎょっとした。


 それは既に人の手ではない。

 厚く大きな掌は、短い毛に覆われた野獣のものである。爪は少しだけ鋭い鍵爪状に変化し始めている。しまった。この娘は獣化している。

 俺の心臓は早鐘のように鳴った。

 獣化した者に背中を見せるなど、さあ殺せと言っているようなものだ。


 「貴方の心臓の音と血流、やけに早くなったね。どうかしたの?」

 不意にすぐ後ろで声がした。恐怖が先立つ。離れていても人間の鼓動を読み取る、彼女の感覚の鋭さはまさに肉食獣と同じだ。


 「き、君は!」

 俺が思わず振り返ると、少女はかわいい悲鳴を上げた。


 「み、見ないでって言ったのに!」


 ぼろぼろのマントを羽織ってはいるが、色気もなにもない囚人パンツ一枚でほぼ全裸の少女がいた。手足に短い毛が生えてきているが、背中はともかく前の方はまだ完全に人間で、少女はマントで胸元を隠して押さえている。その片足に矢が突き立っていた。


 「す、すまん!」

 俺は顔を赤くして再び背を向けた。

 どうやら後ろの少女は獣化の病に侵されてはいるが、初期症状でヨデアスと同じように人の心はまだ失っていない様子だ。


 「その足、射られたのか?」

 「そう、帝国兵の連中が面白がってね」

 傷が痛むのか、その言葉が震えている。


 「矢が抜けないのか?」

 「力が入らない。痛いけど、抜くのも怖いの」


 「俺が引き抜いてやろう」

 「いいの? 私は獣化しているのよ。傷が治ったら貴方を襲うかもしれないと考えないの?」

 「見た目じゃないよ、心は人間だろ? 君の名前は?」

 彼女は意外そうに一瞬目をきょとんとした。


 「私はエチア。元カッツエ国の……貴族。国が滅んでからずっと隠れていたのだけれど、見つかって捕まったの。仲間のほとんどは収監されたその日のうちに食われて死んだわ」

 エチアは俺が彼女を人として扱ったのが嬉しかったようだ。


 「そうか、どれ足を見せてみろ」

 俺は恥ずかしがるエチアの足を見た。幸い矢は血管から外れている。

 「これなら抜けば大丈夫。少し痛いぞ、我慢しろ」

 そう言って俺は矢を引き抜いた。


 「くっ!」とエチアは震えたが、大丈夫のようだ。

 「薬草を塗ってやろう。何かで縛って止血したいところだが、ここには何もないしな。まさか俺のパンツで縛るわけにもいかないだろうし」

 エチアはくすっと笑った。パンツで縛るという発想が面白かったらしい。


 「これを使うか」

 俺は地図の描かれた布切れを取り出した。既に地図は頭に入っているし、問題はないだろう。

 ぎゅっと布で縛ると、エチアはつぶらな瞳で俺を見上げた。貴族の令嬢というのは嘘ではないだろう。獣化し始めているが正直かなり可愛い顔立ちをしている。胸は発育途上だがスタイルも良い。逃亡生活をしていたせいか、屋敷に閉じこもっている御令嬢とは比較にならないほど手足が引き締まっている。おそらく数年で周囲の男が放っておかない美人になる。


 「明日には動けるようになる。今日はじっとしているんだよ」

 照れ隠しに後ろを向けた俺の裸の背中に、生温かくて柔らかな感触が押し付けられた。


 「ありがとう」

 エチアが抱きついてきたのだ。


 おそらく彼女も一人で不安だったのだろう。だが、俺も男である。今の俺にとってはその体温と、小さいながらも理性破壊力抜群の乳房の感触がヤバイ。俺は遠くの瓦礫の数を数えて冷静を保った。


 「少し休むといい、俺はこの先の塀を調べてくる」

 彼女が落ち着いてきた頃合いを見て、俺は少し前かがみで立ち上がった。


 ーーーーその日から、俺はエチアと行動を共にすることになった。





 ーーーーーーーーーーーーーーーーー


 ここは、中央大陸バザス、南北に長い大陸で、北は魔王国、いわゆる帝国の発祥の地である。中央の平原地帯とは山脈に隔たれ、山々に囲まれた地に昔から魔族の国が広大な版図を誇っていた。


 大陸中央部は大河アパカラ河が東流する大平原、シズル大原だ。ここはかつて多くの人族の国が勃興した歴史ある土地らしい。


 そして、この囚人都市があるのが大陸の南端、人族最大の国が栄えた南部平原だ。こことシズル大原の間には、スーゴ高原や大湖沼地帯が広がっている。港町が多いのは東の海岸で、大陸の西は巨大なアパカ山脈が連なる山地で少数民族の小国があるという。


 俺はこの地に関する様々な知識や常識をエチアから教えてもらっていた。


 囚人都市……栄華を誇っていた人族の国、ルミカミア王国の王都ハーゲムダットである。今ではその国名を口にすることすら禁忌になっている王国は、最後の王が隣国の避暑地に来ていた美しい魔族の姫を見初め、妻にしたことが国を滅ぼす遠因になったと言われる。

 その悲劇の王女は魔王の一族で、帝国による侵略戦争にはその復讐と彼女を奪い返すという大義名分があったらしい。

 だが、結果的に魔王軍は彼女を救い出すことはできず、美しき王妃は王と運命を共にし、戦火に消えた。その報告を聞いた魔王は激怒し、旧王都の復興を一切禁じ、大陸中の囚人を集めた監獄にしたのだという。


 「カイン! こっちに蔓があった! これがそうよね!」

 エチアが元気に手を振って俺を呼んだ。


 「あ、それそれ、それの根っこが食べられるんだ。よく見つけたなあ」

 「やったー!」


 「地面が硬そうだけど、この木片で掘るぞ」

 頼りない木の板を拾うのを見てエチアがクスッと笑った。


 「それだったら、私の爪の方が早くない? 見てて」

 バリバリとあっという間に表面の硬い地面を突破して、その下の土を掘っていく。


 エチアの兄は騎士として国が滅んだ後も魔王軍に抵抗して戦い続け、最後にこの王都で消息を絶ったという。囚人都市に来れば何か兄の手がかりが……と思っていた彼女は、この街の光景に絶望したらしい。


 彼女は貴族家の娘で、一緒に収監された護衛騎士の忠義で生き延びたらしい。護衛が付く貴族ということはかなりの上級貴族だろう。もしかすると王家に連なる一族だったのかもしれない

 その護衛騎士が魔獣の襲撃で命を落とし、その時、魔獣に噛まれたことが彼女の獣化発症につながった。


 獣化の病が発症したものは遅くとも半年以内に人としての記憶をなくす。つまり、今は明るく振る舞っているが、エチアが人として生きられる時間は限られているのである。


 「ほら、こんなに大きい!」

 掘り出した芋のような根を片手に持って、俺に自慢気に見せ、屈託なく笑う。その表情がとても優しい。この荒んだ重犯罪地区に来て初めて安らぎをもらった気がする。

 



 ーーーーーーーーーーーーーーーーー


 この塀のどこかに重罪人区画から出られる場所がある。それだけを唯一の希望に、俺は隠れ家を転々と変えながら塀の調査を進めてきた。

 徘徊する魔獣に気づかれないように調べるのに時間がかかったせいで、あっという間に二週間が過ぎたが、ついに逃げ出せるポイントの目星がついた。


 塀に崩れた廃屋が持たれかかっている場所を見つけたのだ。あの廃屋を利用すれば屋根を伝って塀の上に立てるだろう。あとはいつそれを実行するかなのだが……。


 「ねえ、カイン、寝ないの?」

 エチアが俺に抱きついて純真な微笑みを見せる、そんな彼女が愛おしい。


 俺は脱出計画とその後の行動を考えていた。どうすれば獣化の病に罹ったエチアを助けることができるだろうか。その答えが未だに見えないのだ。エチアをここに残してはいけない。だが、外に連れ出しても獣化が進んだ姿では、魔獣として殺されるのが目に見えている。

 病を治して一緒に脱出するのが理想だが、治す方法は? あの鬼の仮面の男が手掛かりかもしれないが、治療法を知っているのかわからない。ましてそう都合よく治療薬を持っているとは限らない。


 「痛むか?」

 「こうしているとカインの温もりで痛みが和らぐから大丈夫」

 そういって彼女はさらに俺に身をすり寄せる。


 彼女はほぼ全裸、そして俺もパンツ一枚である。

 孤独と不安に苛まれさいなまれていた若い二人が毎晩狭い穴倉で過ごしているのだ。何かあってもおかしくはないのだが、彼女は獣化の病に罹っているためか毎晩苦しみ出す。

 優しく抱きしめてやると落ち着くのだが、俺にとっては生殺し状態だ。


 それに普通なら、こんな風に素肌を接して寝ていれば眷属紋や妾紋が生じたりするものなのだが、不思議なことに俺の下半身に紋は発生しなかった。


 彼女が人として既に存在しないからだろうか? そうだとしたらあまりにもかなしすぎる。


 「エチア……」

 俺はその髪を優しく撫で、その細い身体を抱きしめた。

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