第68話 デッケ・サーカの日々

 「もう、お昼も食べないでお部屋にこもって! 今まで何をしていたのっ! 夕食が始まっているわよ」

 お怒りのリサがドアの向こうに仁王立ちしていた。今のリサはだいぶ実際の年齢に近い話し方だ。


 「いや、ずっとナニをナニして」

 俺は平静を装ったが、奥では上機嫌のセシリーナが弾むような胸を刺激的に揺らしてシャワーを浴びている。


 獣人ジャシアが私を抱くと気持ち良すぎて大概本当に死ぬよと言っていたけど、セシリーナは軽々とその遥か上をいくから恐ろしい。まさに天女の抱き心地。

 窓から差し込む明るい朝の陽射しを受けて輝いた彼女のすべては美しかった。誘うように微笑むセシリーナのあまりの色気に興奮して、そして二人は再び時間を忘れた。


 「カイン! 服の前と後ろが反対! ズボンも前が開いてる。それにその首筋のキスマークと歯型!」

 リサの指摘は鋭い。


 「そういえば、ほら、リサにお土産だ。探してきたんだぞ。木彫りの髪止めなんだ」

 俺は宝石のついた髪止めを見せた。

 セシリーナがちょっと失神している間にベッドサイドで綺麗に磨いてみたら、やはり中々の一品だった。まともに買ったら数十倍の値が付いたかもしれない。


 「ええっ、私にお土産? うれしーい。カイン大好きー」

 ふっ、容易いぜ。俺はリサの髪を止めてやる。


 「うん、かわいい」

 「そう? リサはかわいい? カインの好み? 好き? 結婚する?」

 「うんうん、好みだよ。大好きだからね」

 なんとか取り繕い、俺たちは1階の食堂へ降りる。

 「やっと出て来たか」とサンドラットが待ちくたびれた顔をしている。


 少し遅れてオリナの姿に変身したセシリーナがふわふわした足取りで下りてくる。まだ腰がいってるらしい。

 やがて全員揃うと、宿屋の亭主ゴッパデルトがあそこに座れと無言で空いている丸テーブルを指差す。


 「今日のお勧めは湖で採れたばかりの魚だ、それで良いな? 好き嫌いはなしだ」

 ゴッパデルトが夕食のメニューも見せずに言う。宿泊料金込みなので最初から決まっているということだろう。


 「お任せする。ただ、そうだな……女性にはデザートを付けてくれるか?」とサンドラット。


 「じゃあ俺は追加で、あの壁のメニューにある奴がいいな」

  俺が指差すと、宿屋の亭主ゴッパデルトは親指を中指と人差し指の間に入れてニヤニヤ笑う。


 「おう! 旦那、まだまだヤル気満々だな! あれは本当に精力がつくから、お勧めだ! まあ今晩も励んでくれ!」

 そう言ってちらりとオリナを見る。


 満足しきって聖母のように微笑むオリナの首筋にキスマークが浮かんでいるのに気付いたらしい。

 そっと俺のそばにくると耳元でささやく。

 「――しかし、旦那も悪い男だな。こんな結婚年齢をぎりぎり過ぎたばかりの少女に既に手をつけて……。まあ、本人同士が良ければそれで文句はないんだがね」と言ってから。


 「おーい、注文だぞ!!」

 キッチンに声をかける。

 そして熊のように立ち去っていくその背中に大きな文字のタトゥがくっきりと見える。

 『クリスティリーナ我が命!』


 ヤバイ、ゴッパデルトにオリナの正体がばれたらきっと殺されるやつだ!!


 食堂は宿に泊まっている者だけではない。

 家で飯を作る習慣のない職人らの姿も多い。今の時間は混み合っており、亭主は壁際のいかにも馴染みの客という感じの男たちと和気あいあいと話をしている。


 「お待たせしましたァ」

 宿屋の男の子が元気に料理を運んできた。

 「わー。美味しそう!」

 リサが目を光らせる。


 「向こうはずいぶん大勢で賑やかだな。馴染み客のようだが、会合でもあったか?」

 サンドラットが男の子にチップを渡す。


 「あのお客さんたちは父さんの友人で、あるアイドルの親衛隊だって言ってたよ。今日は『アイドル入隊式からその初陣まで』と言うドキュメンタリー作品が来月影鏡で配信されるのを祝ってるらしいよ」

 その一言で俺はますます青ざめる。


 「アイドル?」リサが顔を上げた。

 ズキューン! その瞬間、男の子が初恋に落ちる瞬間を俺は目撃してしまった。


 しまった。リサのフードが脱げてる。

 俺はさりげなくフードを戻すが、手遅れだ。


 「あ、あの、その、人気のある女の子のことだよ。クリステなんとかっていう」

 リサは男の子の胸の鼓動が高まっているのに気付きもしないで、さらなる笑顔で男の子の意識を吹き飛ばした。


 「あー、クリスティリーナか。今はカインの妻だよねーー」 

 オリナの方を見てうなずく。

 オリナの眉がぴくっと動いたが、彼女は黙って微笑を返す。


 意味がわからない男の子はふらふらとカウンターに戻り、熱い視線をリサに送り始める。


 リサは見た目8歳だ、幼いがそれでもその美少女ぶりはダントツ! 既に男を魅了するかわいらしさを備えている。可哀そうにあの子はもうリサの虜だ。リサが命じれば炎の中にも喜んで飛び込むんじゃないだろうか。魔族と人間の混血であるがゆえの恐ろしいまでのカリスマ性だ。


 食事が終わって、そろそろ部屋に戻ろうかという時。


 「こ、これサービスです」

 リサの前に色とりどりのベリーがのったお菓子が置かれた。特に真ん中の小さな赤い実は宝石のように輝いている。


 「わーい。セシリーナにもあげるね」

 隣で目を丸くしてお菓子を見たオリナの皿に取り分ける。


 その様子をカウンター越しに皿を拭きながら男の子がうっとりと眺めている。時折、手が止まるので亭主に頭を小突かれている。


 「今日はねー。セシリーナと一緒に寝る」

 リサがオリナの顔を見た。

 「私はオリナですよー。リサ」

 「あ、うん。オリナと寝る」


 「わかりました。それでは今日は、カインはサンドラットさんの部屋で寝てくださいね。それと明日は午前中から私と出かける約束よ、忘れないでね」

 「大丈夫、忘れていないよ。それじゃあ、おやすみセシリーナ」

 俺は彼女のおでこに軽くキスをした。

 それを見て「ぷん! リサにもキス!」とリサがふくれた。

 


 ……深夜である。


 ミシミシ……と階段を上がってくる音。

 蝋燭の灯が揺れる。

 影は二階の廊下を歩いて行く。

 その歩みがふと止まる。カインたちが寝ている部屋の前。

 しばらくすると再び歩き出す。

 廊下を曲がると、夜陰に冷たい刃が光った。


 「!」

 「動くな! 静かに!」

 喉元で光る鋭利なナイフ。三日月のように反った刀身。


 「何をしているのです?」

 闇の中から女の声。


 「ぼ、ぼくは……廊下の灯り用の油を補充しに……」

 「なんだ宿の子ですか」

 闇の中に年上の美少女が潜んでいた。


 「あ、あなたは誰です? お客様じゃない、まさか盗人!」

 「しっ。起きるじゃないですか。盗人みたいな怪しい者じゃありません。気になさらずに。私の事は忘れなさい」

 そう言ってアリスは少年の額で指先を動かす。


 「あれ、何をぼーっとしてるんだろう。さっさと仕事終わして部屋に戻ろう」

 男の子は隣にいるアリスに全く気付かない様子で再び歩きだした。記憶操作と認識阻害など、アリスには息をするように簡単な技だ。


 「さて、せっかく私の当番なのに、今夜はお静かなのですね」

 そう言ってアリスは黒いマントを頭まで被って壁にもたれかかり、しばらく何か思案していたが……。



 ーーーーあの3姉妹が交代で警護していることなど全く知らず、俺はサンドラットの豪快なイビキに耐え続けていた。


 「ね、眠れん。今までは屋外だったから良かったが、部屋中にイビキが反響して、ものすごくうるさい……。」


 ヤバい……少し冷えるし、うるさい。本当に眠れん……これではせっかくセシリーナと2人で出かける予定があるのに、明日は寝不足でふらふらだぞ……、あれ?


 いや、眠い……。急激に闇が瞼を覆ってきた。

 おかしい? イビキも聞こえないし、とてもいい匂いがしてきた、ああ、安らかだ……


 俺は意識を失いかけながらも幻を見た。

 いつの間に部屋に入ってきたのか、月下に湖畔に舞い降りる天女というこの地の昔話にでも出てきそうな美女が微笑んだ。


 天女は誘うような目つきで服を脱ぐと全裸になってベッドに入って体を重ねてくる。夢だとは分かっている。しかし、至高の天女が添い寝をしてくれる、そんなうれしすぎる夢だ。


 しなやかな手が愛おしく俺の肌に触れる。最初はためらいがちに、そしてしだいに大胆に。


 せっかくの夢だし、と俺はその温かくて柔らかい美乳に顔を埋めてみる。聖母のような笑みを浮かべた美女の腕に抱かれて眠るのはなんて至福! こんな夢があっていいんだろうか? 俺はさらに夢に没入する。


 「うふっ。……かわいいカイン様。私に全て任せてぐっすりお眠りください」


 とても優しい声はどこかで聞いたことがあるような気が……。


 天女は大胆に全身を俺に預けて素足を絡めてくる。俺の太ももを挟むように触れるすべすべの肌が気持ちいい。


 まだ青い早熟な果実。

 夢の中の天女はかわいい。何をしても恥ずかしそうに受け入れる。

 俺はその美しさに溺れる。その熱く秘めやかな生肌は手に吸い付き、俺の指先をさらに奥へ奥へと招き入れる。


 やがて火照った天女は俺の胸にキスをしながら次第に布団に潜りこんでいく……。


 暗闇でも見えるその目がまん丸になるほど、そこに潜んでいたのは人並外れた大蛇。


 「素敵です……」と彼女は唇を舐め、俺は夢の中で惚け、そのまま泥のように眠った。



 ーーーーーーーーーー


 「ここなのか?」

 「ええ、この先よ」

 美しい木立を抜けると、道は黒い鋳鉄製のゲートの向こう側へと続いていた。セシリーナは奇怪な怪物の顔の模様が描かれたそのゲートの前で立ち止まる。


 ゲートの左右に続く石積みの塀には緑の蔦が絡まって、その歴史を感じさせる。


 「今、開けるね。たぶん、昔と変わっていないはずだから、これで開くはず」

 そう言って、セシリーナが鉄柵の正面にある丸い窪みに手のひらを当てる。カチャリと軽い音がして、重厚な扉にはまるで重さが無いかのような滑らかさで開いていく。


 「へぇ〜。これも魔法なのか? 自動で開くんだ。鍵の魔道具か?」


 「ええ、そう。セ家の血縁者にしか開かないの。さあどうぞ、カイン。中に入りましょう」とセシリーナが俺の手を引く。


 「うわあ、開放的できれいな場所だな!」

 目の前に美しい芝生の丘が広がっており、道は芝生の真ん中を丘の上へと続いている。


 「カイン、こっちよ!」

 「待てよ!」 

 弾むように駆け出したセシリーナを追って俺も走る。セシリーナの楽しそうな声が響く。


 ここはデッケ・サーカの郊外にある高級住宅地の一角、セ家の私有地だ。


 早朝から二人で丘の下に広がる墓苑に行き、セシリーナの叔母のお墓参りを済ませた。その後、彼女が幼少の頃によく遊びに来たというこの懐かしい丘にやってきたのである。


 今回セシリーナは墓参りなのでオリナには化けてこなかった。サングラスと帽子で変装して、薄手のワンピースを着ている。旅装でない彼女の姿を見るのは初めてかもしれない。


 顔は隠しているが、それでもはっきり言って誰もが振り返るほどかなり魅力的だ。

 そして今、子どものようにはしゃいで、まぶしい太陽の光を浴びながら、ひらひらと舞うセシリーナはあまりにもきれい。


 「待てったら!」

 「きゃっ!」

 一度は言ってみたかったお決まりの恋人セリフ。


 「あっ!」

 しかし、俺はセリシリーナに手を伸ばした拍子につまずいた。我ながらどんくさい! と思ったが時既に遅し。ゴロゴロと彼女を抱えて一緒に芝生の上に転がる。


 「痛ったーーい!」

 「ごめん」

 そう言って、ハッと見るとセシリーナを芝生の上に押し倒している。サングラスがずれて、その美しい瞳に俺だけが映っている。


 「本当にきれいな目だ」

 「こんな状況で、バカっ!」


 しかし……見つめあう二人は言葉を無くし、どちらからともなく手を伸ばすと抱き合って熱いキスを交わす。


 カインの腕の中、厚い胸板に顔を埋めるととてもうれしい。セシリーナは蕩けるような笑顔でカインを見つめる。


 こんなの、燃えるだろ!

 二人は青空の下、熱く抱擁した。





 ……美しく陽光を反射してキラキラと輝く湖を見下ろす丘の上で二人っきり、これはもはやデートだろう。


 誰もいない芝生に座って、セシリーナはサングラスを外した。その手が俺の手を求めて近づき、指と指が交差する。


 「ああ、この景色をカインに見せたかったの」

 「良い気が満ちている場所だな」


 セシリーナが言うとおり、この場所は美しく、すごく気持ちが良い。この景色を眺めているだけで不安や心のもやもやが無くなっていく気がする。


 「ここには昔は屋敷があったらしいの。叔母さまが管理なさっていたセ家の私有地だから他の人は入ってこないわ。周りも全て広い高級住宅地よ。丘を下っていくと昔は花壇もあったの。ほら、あそこに高い木が見えるでしょう? 子どもの頃、あの木に登ってよく𠮟られたものだわ」

 セシリーナは遠くを指さし、くすっと笑う。


 「空気がすがすがしくて、とても良い場所だな。全て上手くいったらここに俺たちの家を建てるなんて良くないか? まあ、今はただの思いつきだけど」

 「え?」

 俺の言葉にセシリーナが思いがけないという表情を浮かべ、次の瞬間には満面の笑みに変わった。


 「それ、希望があっていい! だったらあの辺りには薬草畑、あっちの斜面は一面の葡萄畑にして、葡萄酒を作って! ……どうかしら?」と夢は広がっていく。


 「ここに子ども用のブランコを作って……」

 セシリーナが裸足で駆け出してくるりとまわった。長髪とスカートが花のように広がって揺れる。その目には、芝生で遊ぶ子どもたちの姿が見えているかのようだ。


 「ねえ、カイン、どうかな?」

 その素晴らしい笑顔! まさに本物の美の女神だ。


 「セシリーナ、君は何もかも最高だよ!」

 俺は思わず駆け寄って、彼女を抱きしめる。

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