2 囚人都市からの脱出

第17話 男の名はサンドラット

 ◇◆◇


 囚人都市の暗部である重犯罪人地区の一角に、囚人はおろか帝国兵すらも近づかないという魔物の生息区がある。


 ーーーーざあざあと音を立てて降りしきる雨の中、崩れ落ち荒れ果てたダンスホールの廃墟が陰鬱な影を落としている。


 かつては美しく着飾った紳士淑女が華麗に舞っていたであろうホールは見る陰もなく、内側に向かって抜け落ちた天井からは大量の雨が濁流となって流れ込んでいる。


 もはや外と変わらぬホールの中を水飛沫を上げて華麗に舞うのは一匹の美しい銀の毛なみの魔狼まろうだ。

 

 ホールを埋め尽くさんとする何十匹もの魔獣や幽鬼を相手に、銀狼ぎんろうが派手に暴れまわっている。その稲妻のように冴えわたる攻守一体の動きについていける敵はいない。

 それでも、どうにか意地で食らいついてくるのは、もはや三匹。——狼男と二対の虎男だけになっている。


 ギャブッ!

 ひときわ大きな叫びを上げて吹き飛ばされる狼男のような魔獣。そいつが白目を剥いて顔面から泥水にうつ伏せると、宙を舞っていたそいつの折れた牙がぶすりと地面に突き刺さる。


 グシャラッツ!!

 さらに剛腕を振りかざして左右から襲い掛かった二匹の虎の魔獣! 直後、その爪が互いに相手の頭を吹き飛ばし、破裂した果実のように血肉をぶちまけた。

 

 ーーーー相打ち!

 周囲の魔物の眼が気配を察して空を見上げる。

 そこに銀狼がいた。

 二匹の同時攻撃を難なく回避した銀狼は高々と跳躍している。


 トン……と銀狼はまるで重さを感じさせない仕草で着地する。

 刹那、その姿が消える!


 銀狼は支える屋根をなくした円柱に向かって疾駆すると、回転鋸のような無音の刃を飛ばす。直後、ホールの円柱が斜めに切断され、その背後から黒服を纏った鬼面の男が血を吐きながら地面に倒れた。

 

 ドンドンドン…………!

 その様子を遠巻きに見ていた古老の魔獣たちが一斉に前足で地面を叩き出した。


 その音の変化に気づき、周囲を取り囲んでいた獣の群れが一歩退いた。兄弟の仇と目を怒らせた虎娘も飛びかかるのを止める。


 誰もがとても敵う相手ではないと認めたのだろう。

 敵愾心てきがいしんをむき出しにしていた牙が口唇に収まり尻尾が垂れる。それと同時に幽鬼すらも攻撃を止めた。


 その様子を見た銀色の魔狼が素早く瓦礫に駆け上がって高々と吠えると、その周りの地面で魔獣たちが一斉にひれ伏す。

 その遠吠えが辺りに余韻を残しながら響き渡ると、その声に呼応してあちこちから声が上がっていった。


 「新シイボス決マッタ!」

 「見ロ! ボスガ監視者ヲ倒シタッ! マサニ復讐ノ時ダ!」


 「――ソウダ! オデタチヲ、コンナ姿ニシタ、帝国、許サヌ!」

 「――殺ス! 皆殺シイ!」

 「――逆襲ダ!! 奴ラニ死ヲ! 恨ミヲ晴ラセ!!」

 と途端に周囲の魔物が騒ぎ出す。


 「待テイ! 全テハ、ボスノ判断ダ!」

 野太い声がそれを一喝する。

 その声に抗う者はない。静まり返ったホールをただ雨の音だけが支配する。


 「アンタガ、新シイボスダ、何ナリト、ゴ命令ヲ」

 泥まみれの男。

 片方の牙が折れた狼男が、膝をついて銀狼を見上げる。その傍らには惨殺された黒服から流れ出る大量の血が赤黒い血溜まりを作り始めている。


 やがて荒々しく白い息を吐きながら、銀毛の魔狼が王者の風格を見せて地面に飛び降りる。水たまりの水を跳ね上げたその足が、無造作にメキっ! と鬼の面を踏み砕いた。

 

 もはや誰もその死んだ帝国兵には見向きもしない。通常なら、我先に肉に食らいつき貪り食ったかもしれない。だが、集まった魔獣の無数の眼は、その美しい銀狼に注がれている。


 服従の姿を示した魔獣の群れを前に、銀色の狼は大きくうなづき歩き始めると、群れはその後ろに付き従う。


 ホールの入口を塞いでいた幽鬼の群れが、もぞもぞと左右に分かれ、銀狼は逞しい魔獣を引きつれ外に出る。


 まるで川のように水があふれ始めた路上に歩み出た銀狼の前足に、どこからか流れて来た一枚の板きれがコツンと小さく当たった。


 「!」

 何気なくそれを見た銀狼は急に立ち止まり、そのまま動かない。


 「ボス、ドウカシタカ?」

 四つ足で歩く狼男の姿をした魔獣が怪訝けげんそうに首をひねった。


 隣を見ると、板きれに視線を落としていた銀狼の口角がわずかに上がったように見えた。



 ◇◆◇


 カポ……カッポ……カポ……


 グルルル………。

 魔獣は随分前からそいつを遠巻きに尾行していた。


 少し離れたところに妙な音を立てて歩く獲物がいる。

 一見すると旨そうな肉がさあ食えとばかりに誘っているようにも見える。


 しかし、なぜ近づかないのか?

 理由はその耳障りな音である。


 幾多の修羅場をくぐりぬけている賢い野獣たちは、隠そうともしないその音に警戒心をひどく刺激されていた。

 経験豊富な獣ほど知っている。つまり、音を出して歩く生物はその存在を隠す必要がないという絶対的な強者だ。

 近づいたら死ぬぞと宣言しているに等しい、非常に凶暴・凶悪な存在、かなり上位レベルの生物に違いないのだった。


 表皮の腐った狼のような姿をした野獣は群れをなし、獲物の背後から襲撃の機会を伺うと同時に互いに警戒し合っている。


 カッポ……カッポ……カッポ……

 あまりにも間抜けな音である。

 まったく強そうには聞こえない。

 だが、それだけに、そいつを襲うことをためらわせる。


 こいつは未知の存在だ。罠かもしれない、と老齢な獣は若者を制止する。血の気の多い雌が襲い掛かろうとするが、そのたびに威嚇して止めさせる。それを許すにはあまりにも危険な雰囲気がある。


 そいつはどうにも様子もおかしい。

 発情期なのか、歩きながら時折意味もなく下半身を露出したりする奇行が見られる。


 その行動はいちいち意味不明で異常だ。


 だが、雄の強さを示しているモノであることには違いない。改めて周囲を見ると、若い雄たちが奴の股間のモノを目撃して怯え始めた。中には戦意を喪失して尻尾を垂れた者までいる。


 やがてその音の主はテリトリーの外に出ていく。


 どうやら自分たちを捕食する恐ろしい敵ではなかったようだ。襲えばどうなっていたか? あの股間の獰猛な大毒蛇が火を吐いただろうか? いや、考えても意味はない。……わけのわからない存在には関わらない方が良いのだ。


 群れのリーダーはくるりと背を向けて離れた。

 

 

 ◇◆◇


 カッポ、カッポ……

 カッポポ……カッポ……


 俺は立ち止まり、またも足首までずり下がったゆるゆるのズボンとパンツを引き上げる。そして再び水溜りの道をボロ長靴の足音を響かせて歩く。

 

 珍しく1日降り続いていた雨はようやく上がり、道はきれいに洗われている。どうやら危険だという廃墟街は抜けたらしい。


 それにしても意外だった。

 魔獣の姿を一度も見かけなかった。

 別に隠密スキルが向上したわけではないし、この辺には元々魔獣なんか棲息していないのか?

 もしかすると魔獣の餌になるようなものもなく、魔獣の絶対数も少ないのかもしれない。

 うん、きっとそうだ。重犯罪人地区が異常過ぎたのだ。あそこに比べれば、魔獣が少ないのは当たり前なのかもしれない。


 トム、ボルン、ヨデアス、ーーーーエチア……

 多くの大切な仲間が目の前から消えていった。

 残してきた思いが胸に響く。


 ジャシアとの激しい勝負の日々……は別にしても。

 投獄されてからの出来事は、その多くが胸を痛ませ、ざわつかせるものだった。


 ついにここまで来た、という思いはあるものの、まだ囚人都市を出たわけではない。ここもまた監獄の中、犯罪人が暮らす街に変わりはないのである。


 今も油断は禁物だ。 

 物陰から俺を見ている複数の気配がある。

 直射日光を避けるためか、人目を避けているのか、壊れた家の中からいくつもの目がこっちを見ている。


 何か嫌な感じだ。

 大きな建物の窓から、やけに色っぽい感じの女たちが値踏みするようにこっちを眺めていたが、片手でズボンを押さえながら、上半身裸で歩く、いかにも貧乏そうな俺への関心はすぐに消えたらしく、誰一人声をかけてこない。


 かつては多くの人々が華やかに行きかい、お洒落なお店が建ち並んでいただろうメインストリートに乾いた風の音だけが空しく響いている。


 道端の所々に残る黒いシミは血の跡だろうか?

 通りには多くの囚人が行き交うようになり、帝国兵の姿もちらほら見られるようになった。二人一組で巡回しているが、あれがここでは普通のようだ。


 囚人の中には危ない薬でもやっているのか、街中をふらふらと夢遊病のように歩いている連中もいる。むろん、あんな連中には関わらない方が良さそうだ。


 それ以外は男も女もすべて似たような上下揃いの囚人服を着ている。ざっと見た限り、この街にいるのは大きく三種類の人間に分けられそう。

 つまり、ふらつく変な奴ら、囚人服の奴ら、そして帝国兵の連中である。


 そんな中で上半身裸という俺は目立つらしい。通りすがりの囚人たちも俺を変な目で見て行くのだ。



 ーーーーーーーーーー


 今もって大都市の威風を残す中央広場には、周りの建物とは異質な、真っ黒い建物が周囲を威圧している。

 角々に円塔を備え入口に帝国兵がいるのは、占領地を支配するための砦——帝国兵の駐屯地——だろう。


 広場の周囲には布で日よけを作った簡素な露店が並んでいる。粗末なものだが、ここに来て初めて人間的な営みを見た気がした。


 ガラガラガラ…………!

 と何の前触れもなく、路上を一台の荷馬車が走り去る。


 馬車の先頭にたなびく大きな三角の旗。

 あれは、どこの国でも見かけるような輸送部隊の旗印なのだろうか?


 朝方、軍港に船がついたのか、やがてその馬車を先ぶれに駐屯地に向かう物資補給部隊の長い列が姿を見せた。

 

 それは一列に隊列を組んで広場中央の砦へと向かっている。


 「これは、さすがに凄い数だな」

 道路わきによけて眺めていると、数台目の馬車が通り過ぎた後だった。突然、馬車の前に複数の男が飛び出した。


 「危ないッ!!」

 御者が叫んで手綱をひくと急な制動に荷馬車のバランスが崩れ、荷物が偏った。次の瞬間、荷馬車は砂塵を巻き上げつつ横転し、その激しい音が広場に響いた。


 荷物が飛び散って樽が壊れ、中に詰まっていた硬く焼かれた携帯食がコロコロと足元に転がってきた。

 良い匂いが辺りに漂って、急に空腹感が増した。それを拾い上げようとした時、罵声が聞こえた。


 「なんだなんだ!」

 「敵襲ーー!」

 「貴様らーッ、拾うな! 拾うんじゃねえ! 拾った者は叩き斬るぞ!」


 横転した荷馬車の周囲にバラバラと複数の騎兵が現れた。駐屯地からも手に長槍を携えた複数の兵士が飛び出してくる。

 だがその叫びにも関わらず、散らばった食料に気づいた人々が殺到してきた。


 「手を出した者に容赦はするな!」


 帝国兵が剣を抜き、血しぶきが上がった。だが、斬られて転がり回る人間には見向きもせず、何人もの囚人が食料を拾い集めて逃げていく。


 「逃がすな! 追え! 追え!!」

 帝国兵が槍を手に周囲に散った。


 「貴様も拾うか?」


 俺の前に影が落ち、そいつは腰の長剣に手をかけた。

 その目は俺の足元に落ちている丸い携帯食をちらりと見た。


 「いや、いりませんよ」

 辺りを見ると食料に群がった囚人が何人も斬られ血に海に沈んでいる。


 「ちっ、歯応えのねえ腰抜けが。ーーさあ、片付けるぞ! 突っ立っていないで手伝え! 貴様もそいつを拾い集めろ。お前たちもだ。ただし、拾った物を食った奴はその場で殺すぞ!」

 男は辺りを威嚇して吠える。


 荷物に手は出さず、何事かと集まってきていた囚人たちは、鞭打たれながら言われるがままにそれを拾い始める。

 俺も一つ、また一つと拾って籠に入れていく。手にした食い物を見る。空腹感が急に俺を襲う。


 手が震えた。食い物…………



 その時、ドンと誰かが俺の背中を押し、思わずぽろりとそれを落とした。


 「おい、やめておけ」

 いつの間にか隣に来た男がささやいた。


 「補給船が三ヶ月ぶりに港に入った。数日後には俺たち囚人にも食料が回るはずだ。大人しく軍港広場の炊き出しに行った方が賢明だ」

 緑色のぼろぼろのマントを身に着け、フードで顔を隠した男は鋭い眼を向けた。


 「あ、ありがとう。助かった」

 「見たところ、まともだな? 重犯罪人地区からの脱走者としては久しぶりの新顔だ」


 「!」

 

 「どうしてわかった? って顔したな。ダメだぜ、そんなに簡単に表情に出したら。帝国兵にバレたら殺されるぞ」

 男はニヤっと笑ったが、悪い男ではなさそう。


 「久しぶり、……そう言ったか?」

 「ああ、俺以来だろうぜ、あそこから正気を保って逃げ出した奴はな」


 「え、お前もか?」

 「このあたりの囚人で貴重な上着を無くすバカはいない。モドキじゃない人間がそんな恰好でうろうろしている時点でこの辺の囚人じゃないってことはバレバレだ」

 

 「モドキ?」

 初めて聞く言葉だ。

 「やはり知らないか。あれだ、あれ」

 男は夢遊病のようにふらついている人間を指差した。


 「人間くずれもどき。ーーーー化け物になり損ねて脳みそが無くなってしまった奴らだ。皆がモドキと言っている。飲み食いしなくても長期間生きている歩く人形みたいな奴だ。気にすることはない」

 「魔物なのか? 危険じゃないのか?」

 「今はな。ただ、人間くずれに触発されると一気に魔物化がすすんで凶暴になる。いずれにしても関わらない方がいいぜ」


 「凶暴になる? 大丈夫かこんなにたくさん放置しておいて。この広場だけでもモドキが100人はいそうだが」


 「まあ、問題ないんだろうよ。帝国兵は奴らにまったく無関心だ。問題だったら今頃皆殺しだろうぜ。でも、モドキを知らないところを見ると、やはり重犯罪人地区から来たと言う俺の目は正しかったらしい、あそこにはモドキはいないからな。それに、どうやらお前も神に選ばれた人間らしいな?」


 「神に選ばれた?」


 「ああ、あのエリアの毒気に耐性のある人間は少ないんだ。正気を失わないのは体質的なものか、帝国兵のように定期的に薬を服用している者だけだ」

 「毒気? それは人を獣に変えてしまうような呪いか?」

 「俺にもよくわからん。ただ一つ言えるのは、お前が無事だったのが体質的なものだとすれば、それは神に選ばれた人間ということだ。毒に耐性がある者は稀なんだぜ」


 「そう言うお前も選ばれた者ということか?」


 ふふんとそいつは鼻で笑った。

 「気が触れていないところを見るとそういうことらしいな」


 「おい、そこ! 何をコソコソしておるか!」

 突然、兵士がいぶかし気な目を向けて叫んだ。


 「おっと。いけねえ」

 そいつは軽く跳ねて距離を取る。


 「広場では貴様ら囚人が2人以上一緒にいることは厳禁だ! いいか、次からは気を付けるんだ!」

 兵士は俺の足元から食料を拾い上げ、長剣の鞘で俺の腹を小突いた。


 兵士が立ち去ると、素知らぬ顔をしていた男がすぐに手招きする。


 「俺の名は、サンドラット。向こうの広場の隅で露店を開いている。ついてこい、ちょっと話がある」

 そう言った瞬間、俺を見る口元が困ったように歪む。


 「わかった」

 俺はクールに答える。

 そして彼が目を細めた理由、パンツを道連れに足首まで落ちたズボンを何食わぬ顔で引き上げる。

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