高嶺の花との遭遇

 朝は眠い。本当に苦手だ。


 玄関を開けた途端、目に入ってくる眩しいほどの朝日。そこから目を背けるように部屋の鍵を閉めた。


 普段はとても静かなお隣さんから、ドア越しにも聞こえてくるぐらいのどたどた音が聞こえる。引っ越してから一度もあったことがないお隣さん。


 見たこともないからどんな人か知らないが、俺と同じく朝が苦手な人なのだろう。隣の部屋の扉が勢いよく開けられ、興味本位で隣を見たことに後悔した。


「む、村上君⁉」

「⋯⋯高嶺さんおはよう」

「おはよ⋯⋯おはようございます。村上君」


 高嶺さんは少し切れ長な目を柔らかく細め、桃色に色づいた口で弧を描く。透けるような乳白色の肌は肌荒れを知らないように滑らかだ。


 まるで作り物のように高校生の段階で完成されたその大人びた美貌と物腰は、女神と言われても信じてしまうほどに美しい。⋯⋯荒れに荒れまくった髪さえなければ。


 これは突っ込んで良いんだろうか。


「まさか村上君がお隣の部屋だったなんて。朝から驚いちゃいました」


 ふふふっと笑いながら、わずかに首をかしげる様子はまさに高嶺の花。学園で見る高嶺さんだ。


「えっと、そうだな」


 高嶺さんは相も変わらず美しい笑みを浮かべる。


「⋯⋯髪、どうしたんだ?」

「あば⁉⋯⋯な、なんのことかしら?」

「⋯⋯触れちゃまずかったみたいだな。じゃあ、俺先行くから」

「ちょ、ちょっとまって」


 高嶺さんの細い指がコートの袖をつかむ。


「や、やっぱ無理あるかな」


 無理というのはその髪のことを言っているのだろう。耳にかけられた髪がワックスをつけて頑張った結果なのか、変にカチカチと固まってしまっている。そこからアホ毛のようなものも数本出ており、もう残念としか言えない。


「無理あるだろうな。イメージ壊したくないならその髪型で学校行くのはやめといた方がいいと思う」

「だ、だよね」

「時間もあるわけじゃないしな」


 少なくとも、後13分後には家を出ないと間に合わない。


「今日は諦めていくのやめたらどうだ?」

「それはできない」

「親御さんに怒られるからとかか?」

「私は一人暮らしだからそれはないけど、学校には行きたいの。サボりたくない」


 今まで不安そうに泳いでいた眼が、打って変わって強い意志を持って俺を見つめる。


「じゃあ、俺の家来るか?遅刻するかもしれないが」

「え?」

「そのワックスはさすがに一回落とすかしないと、無理だから」

「直してくれるの?」

「困るんだろう?」

「うん。ありがとう。でも、それなら私の家で」

「さすがに女子の家に上がるのはちょっと」


 高嶺の花の家に入っただなんて知られたら後が怖い。


「そ、そっか。じゃあお言葉に甘えて」


 了承を得たのを確認し、部屋の鍵を開ける。


「なにもないけど」

「お、お邪魔します」


 見られたらまずいものは全てリビングに置いてあるし、洗面所は手前だから大丈夫だろう。


「洗面所はそこの右の扉だから。同じ作りだろうからわかるかもしれないけど」

「うん」


 高嶺さんは返事をするものの、俺をじっと見て動かない。


「えっと、そんなに靴脱ぐところじっと見られても困るんだが」

「え、ご、ごめん。どうすればいいか分からなくて」

「洗面所先に入っといていいぞ?」

「ど、同級生の家入るの初めてだし、なんか家主より先に入るのも失礼な気がして」

「そうか」


 要するに先に入ればいいんだな。このままだと本当に遅刻してしまう。


 洗面所に入ると、言っていた通り高嶺さんがとことこと後をついてくる。


「じゃあそこの洗面台の前に立って」


 洗面台の前に立つ高嶺さんを尻目にヘアゴムとアミピンを取り出し、ヘアアイロンを温める。


 蛇口をひねり、お湯が出ていることを確認すると、こわばった顔で固まる高嶺さんが鏡越しに見えた。


「そんなに緊張しなくていいから」

「ひゃ、ひゃい!」


 あぁ、これは緊張が解けないパターンだ。さっさとすましてしまおう。


「じゃあちょっと髪に触るね」


 高嶺さんが事故を起こししている髪以外の部分をヘアゴムでまとめていく。


「高嶺さん頭下ろして」

「う、うん」


 お湯をかけ、ワックスがついている部分だけを洗い流していく。ワックスがギトギトでなかなか落ちない。


「もしかして、これハードワックス使った?」

「はーど?わかんないけど、おと……父が置いて行ったワックスを使ったよ?」

「だからか」


 通りで落ちないわけだ。


 こんなこともあろうかと、手元に用意していたリンスを髪に揉み込む。これで少しは落ちるはずだ。


 ほんとうはシャンプーもしっかりした方がいいが、時間がない。


 揉み込んだ後、洗い流すと幾分かマシになった。タオルで叩くように乾かしながらドライヤーを手に取る。


 後、9分。間に合うかどうか……。


「村上くん、ごめんね」

「え?」

「迷惑かけてしまって」

「あぁ、いいよ。隣人のよしみってことで」


 今の俺のこの立場に変わりたい奴はきっと、学園中に山ほどいる。


 それに、こんな体験なかなかできないから小説を書くのに良い経験になると踏んで、打算的な思いで誘ったから迷惑という思いは少しもない。


 俺が小説家なことは家族以外には言ってないから言えないけど。


「でも、申し訳ないです……」

「とりあえず気にしなくていいよ」


 高嶺さんの髪が乾いた。

 やっぱり完璧には落とし切れずギトギトしているから、昨日と同じ髪型はやめておいた方がいいだろう。


「高嶺さんその額が赤くなってるのを隠したくて、ヘアアレンジしてたんだよね?」

「えぇ」

「ちょっと、流石にワックスを落とし切るのは難しくて少しベタベタしてるから、髪では隠せそうにないかもしれない」


 鏡越しに高嶺さんの顔を見ると、顔色がかわいそうなくらい青ざめている。


「だから、メイクしよう」

「め、めいく?私したことないからできないかも……」

「それは分かってる。俺がやるから」


 後ろ髪を前に持ってきて前髪と馴染ませて、流し前髪を作る。割と簡単なヘアアレンジができない高嶺さんだ。


 メイクができないことなんてわかり切っている。


 部屋から急いで、小説でメイク関連の話を書いた時に買ったグリーンベースのコンシーラーを持ってくる。


「高嶺さんこっち向いて」

「ひゃい!」


 高嶺さんがこっちを向いて目を固くぎゅっと閉じる。

 こう見るとやっぱりとても整った顔をしている。まつ毛が長すぎて、目に影を落としている人なんて初めて見た。


 だからこそほんのりと赤くなった額は目立つ。


「もう額は痛くない?」

「うん、腫れは引いたから」

「そっか、じゃあ触るね」


 リキッドコンシーラーを手の甲に少し出し、赤いところに重点的にのせていく。そして、肌との境目の部分を違和感がないようにぼやかす。


「できたよ」


 高嶺さんは恐る恐る目を開けて自分の額を見た。


「すごい!消えてる!ありがとう!村上くん!」


 高嶺さんがキラキラした顔で俺を見る。


「どこで覚えたの?メイクなんて」


 まずい。誤魔化さなくては。


「それよりも時間がないからヘアセットしよう。高嶺さん、少し屈んでもらっても良いかな?」

「あ、そ、そうだね!わかった」


 高嶺さんのつむじが目に入る。


 俺は背が低いわけではない。173センチはある。だが、高嶺さんはクールビューティーという名に合うように背が高い。多分168センチぐらいあるんじゃないだろうか。


 屈んでもらって、やっとヘアアレンジがしやすい体勢になった。


「あみこみ……は時間がないから三つ編みにしとこうか」

「村上くんあみこみできるの!?すごい!どこでそんな技術を?もしかして彼女さんに?」

「いや、彼女はいないよ。前に少し本で見たことがあって」

「そうなんだ」


 部屋に首から上のマネキンがあって、それで練習したからとは言えない。


 仕方ないだろう。体験した方が文が書きやすい体質なんだから。


 深く突っ込まれないよう黙々と高嶺さんの髪を編む。ギトギトになっていた一部の髪を耳の上まで編んだところでゴムで結び、耳にかけ、耳の上辺りを編みピンでとめた。


「これで編み込み風になったかな。どう?自分で確認してみて」


 高嶺さんが中腰になって伏せていた顔をそろそろとあげる。


 鏡越しに高嶺さんの顔がぱぁぁぁと華やいでいく。


「ありがとう!村上くんすごい器用だね!!」


 高嶺さんの手に両手を掴まれ、上下にぶんぶんと動かされる。


「い、いや、どういたしまして。それより時間ギリギリだから早く行った方がいい」

「あ、本当だ。早く行こう!」


 手を繋いだまま引っ張られる片手をそっと離す。


「俺はもう少し立ってから行くから」

「え、遅刻しちゃうよ?」

「大丈夫だから」

「そ、そうなの?じゃあ先に行くね」


 慌ただしく玄関へ向かい、ありがとうと言いながら外へ出ていく高嶺さんを見送る。


 ドアがしまったところではぁとため息を一つ落とした。


 あれは反則だ。


 自分の手で綺麗にした高嶺さんがいつものクールな表情を崩して、子供のような笑みをこっちに向ける。


 これがいわゆるギャップ萌えってやつか。不覚にもドキドキしてしまった。


 高嶺さんと登校時間をずらすためにも、この感情を忘れないためにも、小説を少し書いてから学校へ行こう。


 今までとは違う作品ができるかもしれない。


 久しぶりに仕事で無理やりにではなく、自分で書きたいと思えた気がする。

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