008-2-08 刻を外れる
「さて」
心の整理をつけたところで、目の前の問題に向き直る。
相変わらず、呪詛を撒き散らしているエリザベートだったモノ。死の領域はすでに半径十メートルを超えており、拡大の留まる様子はなかった。
また、彼女自身の肉体にも、目に見える変化が発生していた。
「ぐがっ」
奇声を発したかと思えば、次の瞬間には大きく体を仰け反らせる。そして、胸元――鎖骨のやや上の部分がジュクジュクと溶解し始めた。溶ける速度は早く、あっという間にポッカリと空洞を生み出してしまう。拳程度の大きさの円だった。こちらから背後の景色を覗けるくらい、キレイな穴ができ上がる。
変容はそれのみに留まらない。
エリザベートの周囲の霊力が実体化を始めた。霊視をしなくても目視できるほど、濃密な波動が彼女を包む。それもドス黒さと泥の如き粘質を含んだ、怨念とも言うべき邪悪な代物。
他にも、すべての爪が武器のように鋭利に伸び、腕も膝の高さまで長くなる。小さな口は耳に到達しそうなほど裂け、むき出しの歯は牙へと変わっていった。
最後に、碧い瞳を白目ごと黒く染め、エリザベートは変化を終えた。
まるで化け物だ。日頃、ミュリエルたち人外を化け物と
数拍だけ立ち尽くした彼女は、おもむろに長大になった右腕を掲げる。元のサイズより一・五倍広くなった手の平は、まっすぐミュリエルの方へ向けられていた。
嫌な予感を覚えた彼女は、とっさに回避行動へ移る。
ところが、その行動は些か遅かった。
「シネ!!!!!!!!」
今までの比ではない強烈な呪言とともに、強大な霊砲が放たれた。
「ぐっ……あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
唐突の霊砲を避け切れず、ミュリエルの左肩は跡形もなく吹き飛ぶ。繋ぎを失った左腕も、遥か彼方へ転がっていった。
肩から噴き出る血を抑え、湧き上がる激痛を堪えながら、彼女は敵の追撃の的にならないよう、汚れるのも
今の霊砲――否、これは断じて霊砲といったチャチな代物ではない。濃密な黒。あらゆる悪逆が詰め込まれた
どのような魂にも善というものは僅かでも存在し、霊力やそれを通じた術にも混じる。しかし、この黒い霊砲――【
【黒怨】を撃てる存在など、もはや生物どころか世界の摂理さえ外れている。目の前の彼女は未だ人型の範疇ではあるが、どんな異世界においても“ヒト”とは異なる枠組みだった。
【黒怨】の恐ろしいところは、短いタメにも関わらず【隔絶】を突破するレベルの威力を有すること。加えて、被弾した存在の魂を汚染する点だ。
(あと少し対処するのが遅れていたら、完全に呑まれていた)
ある程度体勢を整えたところで、ミュリエルは息を吐く。
【黒怨】の影響で魂汚染が始まっていたのは、被弾してすぐに把握していた。だから、転がっている間に、状態回復の神罰である【
だが、状況の悪さは変わらない。敵の異形化により発現した【黒怨】は、かすっただけでも相当危険な代物。【隔絶】を突破された以上、こちらに防ぐ手段はなかった。しかも、【黒怨】の浸食のせいか、ミュリエルの回復手段では腕を治せなかった。片腕のまま敵を打倒せねばならない。
あれだけ強力な技だし、連射できないといったデメリットがあれば良いのだが――
「キエロ!!!!!!!!」
淡い期待は虚しく消え去る。
エリザベートは、再び【黒怨】を繰り出してきた。しかも連撃で。
今度の攻撃は予期していたため、全弾回避できた。だが、両手を掲げて引っ切りなしに撃ちまくってくるので、依然として接近することが叶わない。あの状態のエリザベートに霊力切れがあるのか不透明のため、長期戦は避けたいところだった。
あれこれ考えている間も、エリザベートは何度も【黒怨】を放ってくる。マシンガンの如き間断ない攻撃は、徐々にミュリエルの逃げ道を封じていった。
そうして、とうとう彼女は【黒怨】の波に囲まれてしまう。突破する手段を持たないミュリエルに、この壁を乗り越える道は存在しない。
彼女は、イラ立たしげに息を吐いた。
「ああもう。物事というものは、いつも計画通りに進まないわ」
次の瞬間、無数の【黒怨】が殺到する。
しかし、それらがミュリエルに当たることはなかった。
何故なら、彼女はすでに被弾した場所から姿を消していて、今はエリザベートの背後に回り込んでいたのだから。
ミュリエルは手にした【霊剣】を振り下ろす。
完全に不意を突いた攻撃だったが、相手は生物のカテゴリを外れた存在。信じられないレベルの反射神経を以って、彼女の一撃を防いだ。
霊剣と鋭利な爪が拮抗し、火花を散らす。
魄法で作り出した剣と切り結べるとは……。どうやら、肉体面の強化も規格外だったらしい。この分だと力押しも無理そうだ。
現状維持は不利になると判断したミュリエルは、自ら拮抗を崩した。様子見をするため、霊剣を振り払ってエリザベートの体勢を崩させ、素早く距離を取る。
だが、狂い切った化け物は獲物を逃さそうとしない。離れようとするミュリエルを、強靭な脚力を使って追った。完全に重心がブレていたというのに、万全の状態と変わらぬ速度で接近してくる。
とはいえ、これを想定しないミュリエルではなかった。
エリザベートの爪が届きそうになった刹那、ミュリエルは掻き消えた。まるで、鉛筆で描かれた絵を消しゴムで消したかのように、一切の前兆なく彼女はいなくなった。
ただ、化け物に堕ちた敵に、物事を深く考える知性は残っていないみたいだった。驚きも何もなく、逃がした獲物を求めて周囲をキョロキョロと見渡す。
それから、不意に地面を殴りだした。おおかた、地中に隠れたとでも考えたのだろう。殴打のみで砂地を盛大に爆ぜさせるのは凄まじいけれど、当然ながらミュリエルはそこに存在しない。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
ミュリエルを完全に見失ったことで怒りを覚えたのか、周りへ見境なく呪詛と霊力を放つエリザベート。
感情のままに繰り出す八つ当たりは、実に無防備だった。だからこそ、その隙をミュリエルは逃さなかった。
「隙あり」
突如としてエリザベートの懐に現れた彼女は、霊剣を一文字に引いた。霊力と闇の精霊魔力を込めた一撃は深い斬痕を残す。
「ギャアアアアアアアアアアアア」
痛みで悲鳴を上げるエリザベートはミュリエルへ拳を放つ──が、その場にはもう誰の姿もなかった。
代わりに、背後から声がかかる。
「こっちよ」
声と同時に、左肩が斬り裂かれる。切断とは言わないまでも、動きを阻害するには十分すぎる傷が生まれる。
エリザベートは振り向きざまに拳打を見舞うが、やはりミュリエルは姿を消していた。
その後も、幾度となく同じ状況が繰り返される。ミュリエルが幻影のように現れては攻撃し、即座にいなくなる。一方的な蹂躙が続いた。
全身を斬り刻み、もはや頭くらいしか動かせなくなった頃。ようやく、ミュリエルはエリザベートの眼前に現れる。
「やっと大人しくなったわね。さすがと称賛するべきなのかしら。あなたタフすぎよ、常人なら百回以上は死んでいるわ」
呆れた調子で愚痴を溢すミュリエル。
それを油断と踏んだようで、エリザベートは唯一動く顔を彼女へ向け、【黒怨】を撃った。
しかしその攻撃は、首を軽く横に動かすだけで呆気なく回避される。そして、返す刀で口を斬られた。もう二度と開けないようズタズタに。
「呆れた。それ、口からも発射できるのね。警戒しておいて正解だったわ」
ミュリエルは、相手が何をしても不思議ではない怪物だと認識していた。ゆえに、先の不意打ちに対処できたのだ。
勝敗は決した。こちらは五体満足なのに対し、敵の手札は一切残されていない。
ただ、純粋に喜ぶこともできなかった。
ひとつは、エリザベートが狂ってしまったから。彼女の恨みのすべてを受け止めると決意していたために、正気を失う展開は望んでいなかった。これは、魄法習得の負の側面を把握していなかった、ミュリエルの失態だ。
ひとつは、今の戦いに全力を費やしてしまったから。エリザベートの攻撃を回避した、あの出たり消えたりする技。あれは彼女最大の切り札だったのだ。
名を【絶刻】という、【留定】を応用したミュリエル独自の術式。術理はそう難しいものではない。魂をピン留めする範囲を拡大し、対象を時の流れから隔離するのだ。対象を時間という乗り物から強制的に降ろす、と
つまり、姿を消していたあの瞬間、ミュリエルは世界から完全に存在を抹消していたわけである。生物は基本的に時の
まぁ、裏を返せば、【絶刻】は【次元魔法】の下位互換ゆえ、かの異能の素養を持たないミュリエルくらいしか使わないだろう。本来の能力の範疇ではない魄法で、無理やり時間に干渉しているためか、消耗は段違いに多いこともあるし。
暴走したエリザベートを倒すには他に方法がなかったとはいえ、幾度となく【絶刻】を使用してしまった。それによる霊力の消耗は相当なもので、脱出する余力を残さなくてはいけない以上、続く戦闘は不可能に近い。
一総の後を追う気でいたミュリエルにとって、その点は本当に無念でならなかった。
「悔いても仕方ないわね。彼女にトドメを刺して、マミの元へ向かいましょう」
世話の焼ける子だと苦笑いを浮かべながら、ミュリエルは瀕死のエリザベートに向き直る。
体を揺らして未だに抵抗の意思を示していたが、手や足どころか口も出せない状態の彼女に、今さら何もできやしない。
それでも呪詛を吐くことを止めないのは、呪う以外の感情を抱けないためかもしれない。それほどまでに、エリザベートの魂は汚染されていた。
「ふたつの国の
祈りを込め、【浄化】の魄法を発動する。
専門である神術には及ばぬが、弱ったエリザベート相手には十分の効果を発揮した。彼女の体を霊力の光が包み込み、徐々に崩壊させていく。
光が消える時、戦場にはミュリエルと灰の小山が残るだけだった。
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