004-3-06 侑姫の秘めごと
少し考えれば、この事態は予期できただろう。相手は侑姫を幼少より知る者たちなのだ。彼女がどのように本件を対処するかなど、お見通しに決まっている。
それでも、侑姫は諦めるわけにはいかない。命令に従うことと友を守ること。相反するふたつは侑姫にとって重要なものであり、彼女の人格を支える構成要素なのだから。
だからこそ焦燥する。このままでは己を形成する要素が欠如してしまう。それは死神の鎌が首にかかったような恐怖を与え、思案するだけでも体が震えた。
残された時間は僅か。夕食も終わり、監視期限だった一日も五時間とない。こんな短い猶予でできる手段など限られていた。
(何とかしなくちゃ)
先程から侑姫の頭を占めるのは、その言葉ひとつ。ジリジリと湧き上がる焦りや不安からロクに考えがまとまらず、こじんまりとした自室をウロウロとするだけ。
どれくらい不毛な行動に時間を割いただろうか。相も変わらず部屋の中を歩き回っていたところ、不意に扉がノックされた。来客を相手している余裕のなかった侑姫はそれを無視したが、二回三回とノックは続く。
いい加減、考察する邪魔になると感じた侑姫は、嫌々ながら訪問者の対応をすることにした。
「どちらさま?」
誰何しながら扉を開ける。
果たして、そこにいたのは、
「こんばんは、侑姫」
笑顔で片手を上げる
訪問者の正体を知った侑姫は、露骨に顔をしかめた。何故なら、彼女は牛無を婚約者と認めていな上、彼のことを嫌っていたからだ。まぁ、反勇者派である桐ヶ谷の人間は全て苦手なのだが、その中でもこの男は群を抜いて拒否感を覚えていた。
最初から嫌っていたわけではない。というより、今回の帰省まで牛無の存在を関知していなかったのだ。彼は数多くいる門下生の一人にしかすぎなかった。だが、この一年で急成長を遂げ家に貢献したため、婚約者に抜擢された。面と向かって顔を合わせたのは、ついこの間だったりする。
その短い間に、どうやったら心底嫌われるのかといえば、原因は牛無の行動にあった。彼は発言のひとつひとつが傲慢に満ちていて、なおかつ相手を見下した態度を取る。加えて、出会って早々だというのに体を要求してきた。そんな男に
心から嫌う相手が夜遅くに訪ねてきた。これを警戒しない者はいないだろう。侑姫は密かに【身体強化】を発動し、牛無の一挙一動へ注意を払った。
「こんな夜分に何の用ですか?」
眉間にシワを寄せ、硬い口調で問う。
対し、牛無は軽薄な笑みを見せた。
「いや、なに。急ぎで伝えたいことがあってね。内密に話したいから、部屋に入れてくれないか?」
グッと身を乗り出し、入室して来ようとする牛無。その表情は下卑たものであって、どう見ても伝達事項があるようには思えなかった。
当然ながら、そんな彼を部屋に招き入れる愚行を侑姫は犯さない。扉――引き戸の両端に手をかけ、自身の体で通せんぼうをする。
さすがに無理やり押し通るまではしないのか、進路を阻んだ侑姫を前に、牛無は立ち止まった。
「通してくれないか? 中に入らないと話ができないんだが」
「ここで話してください」
「内密の話だと言っただろう? 廊下では誰に訊かれるか分かったもんじゃない」
変わらず薄笑いを浮かべる牛無に気色悪さを感じつつ、侑姫は目つきを鋭くする。
目の前の男が何を企んでいるのか判然としない。初対面の時の反応や現在の顔つきからして、彼女の体を求めての行動とも取れるが、それが叶わないことは牛無自身が理解しているはずだ。一般の人間が【身体強化】を始めとした肉体強化の異能を施した者を組み伏せるわけがない。
何かしら侑姫を無力化する術を持っているのか、別の目的が合ってきたのか。はたまた、彼の言い分が真実なのか。
実際のところは不明だ。しかし、直感が告げている。牛無を部屋に入れてはいけないと。
侑姫は己の直感に従った。何としてでも、この扉は死守する覚悟を決めた。
嘲笑と侮蔑の混じった視線と、覚悟と怜悧さが伴った視線が交差する。
睨み合いが幾分か続くと、牛無はやれやれといった風に肩を竦めた。
「よく無駄な努力を続けるものだね。予想できた展開ではあるけどさ。仕方ない、あの手を使うか」
「何を──」
──するつもりか。そう問おうとした侑姫だったが、それを押して牛無が続ける。
「侑姫、部屋に入れてくれ。
「ッ!?」
悪魔のセリフだった。その言葉を耳にした侑姫はビクッと体を強張らせ、青い顔で
動揺を隠せない彼女に、戸を守る気力は残っていなかった。緩んだ抵抗を牛無は見逃すはずがなく、あっさりと彼の入室を許してしまう。
「あっ」
情けない声が上がると同時に、侑姫は畳の上へと転がった。牛無が部屋へ入り込む途中に彼女の腕を取り、強引に放り投げたのだ。茫然自失となっていた侑姫は抗えない。
侑姫を見下ろす牛無は混乱する彼女を睥睨した後、ゆっくりと首を巡らせる。それから、小さく溜息を吐いた。
「年頃の女の部屋とは思えないほど、殺風景なところだ」
声色には落胆の感情が見え隠れする。
彼の言う通り、侑姫の部屋は飾り気がまるでない。勉強机と丸い座卓、あとは布団や服を入れる押し入れしかない。いくら普段使っていない部屋とはいえ、華の女子高生の私室にしては、あまりにも物が少なかった。
牛無が呑気に部屋を眺めている間も、侑姫は床に倒れたままだった。無防備な彼を叩き出すことも、隙を突いて逃げ出すこともできたというのに、彼女は呆然と横たわっているだけ。その瞳は茫洋としていた。
部屋を見終えた牛無は、改めて侑姫を見下ろす。
「クックックッ、本当に抵抗できないんだな。この情報を聞いた時は半信半疑だったが」
動く気配のない彼女を認め、彼はクツクツと笑った。
「侑姫。まさか君が『頼みごとをされると絶対に断れない』だなんて秘密を持っていたとはね」
「どうして、それを……」
混乱する思考の中、ようやく侑姫が絞り出した言葉だった。それは牛無の言を認めるもの。
本来なら惚けるなりして駆け引きをするところだが、今の彼女にそのような余裕はない。ただただ、ひた隠しにし続けてきた己の秘密の出所を問い質す他になかった。
弱々しい姿を見せる侑姫に対し、牛無は嘲笑を浮かべる。
「僕には有力なスポンサーがついているんだよ。君程度では敵うわけもない、ね」
そう言って、彼は近づいてくる。顔は下卑たそれであり、侑姫は恐怖から後ずさった。
しかし、
「
「うぐっ」
牛無のお願いにより、侑姫は抗う術を失ってしまう。
徐々に接近してくる彼の存在は恐怖でしかなかった。背中に氷柱でも刺したように寒気が走り、胃をひっくり返されたかのような吐き気が込み上げてくる。
だが、それでも、侑姫の体はピクリとも動かない。全ては、彼女が背負ってしまった性分のせいで。
とうとう牛無が侑姫の元へ辿り着く。彼は彼女の上に乗りかかると、無造作に片胸を握り締めた。
「っ」
容赦のない動作に、痛みと嫌悪感が襲う。
侑姫の表情は大きく歪んでいたが、牛無は気にした様子もなく手を動かし続ける。
「前々から大きいとは思ってたけど、想像以上だな。今日からこれが楽しめると思うと滾るよ。『イビルドア』って汚点に目をつむれば、容姿だけは一級品だからな」
下品なセリフを吐きつつ、彼は空いている手で侑姫の頰を撫でた。そして、その手は彼女の体を上からなぞっていき、ついには女性の象徴とも言うべき部位へと到達せんとする。
「では、美味しくいただくとしますか」
「うあ……」
最終通告を聞いた侑姫は声を漏らす。嫌だ、止めて。そういった言葉さえ発せない自分を情けなく思うけれど、体は言うことを聞かない。お願いを受け止めるため、頑なに固まったままだ。
こういった事態に陥る可能性が考えられたから、これまで秘匿にしてきたのだ。自分をどう見せれば露見しないか。どういう対応をすれば悟られないか。常々それらを考慮しながら行動をしてきた。幸運に恵まれたという点もあるだろう。
だけれど、その運も尽きてしまったようだ。一番バレてほしくない人間に気づかれ、今まさに恐れていた展開が起ころうとしている。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
初めては好きな人と、といった乙女思考を意外と持つ侑姫は、心の中では拒絶を絶叫している。でも、それに反して体は微塵も動かない。そのギャップが彼女の心を酷く蝕んでいた。
苦しさ、気色悪さ、寒気などの負の感情がごちゃ混ぜになり、精神をすり減らしていく。胸の奥が締めつけられるように痛く、今にも吐き出しそうな嘔吐感に襲われる。それでもやはり、指先ひとつ動かせず、そんな自身への嫌悪感が深まっていった。
そうこうしているうちに牛無の指は下腹部を超え、次の瞬間には最終地点へと到達してしまう。
(誰か助けて!)
都合良く助けが来るわけないと思いながらも、懇願せざるを得なかった。願うことすら諦めてしまったら、本当にどうしようもなくなると勇者の経験で知っていたから。体を動かせない侑姫の、せめてもの小さな抵抗だった。
そして、その願いは聞き届けられることになる。
「ぐはっ」
瞬きした一瞬の間、侑姫の上にいたはずの牛無の姿が消え失せ、遠くから唸り声が聞こえた。
最初は何が起こったのか理解できなかった彼女だが、自分の視界に映る人物に気づき、ようやく事態を把握する。
「か、
そう、侑姫の目の前にいたのは一総だった。
彼は侑姫の方をチラリと一瞥すると、すぐに視線を外した。それから、部屋の入り口の方へ声をかける。
「
彼の言葉に応じて現れたのは
「だいじょうぶ?」
「え、ええ」
その声音には困惑が含まれていた。助けられたという事実は理解できているのだが、こうもタイミング良いと驚愕が優ってしまう。先程までとは異なる意味で、胸の鼓動が激しかった。
蒼生の手を借りつつ上半身を起こす侑姫は、礼を言おうと一総の方を見たことで、ことの推移をハッキリと把握した。
入り口付近に一総が背を向けて立っており、その向こう側──廊下の壁に牛無が崩折れていたのだ。おそらく、侑姫に襲いかかっていた牛無を一総が放り投げたのだろう。成人男性を投げ飛ばすことくらい勇者なら容易い。
ゲホゴホと咳き込んでいた牛無だったが、それが治ると、こちらを鋭く睨めつけてきた。
「貴様、何の権利があって、僕を投げ飛ばしたんだ!」
顔を憤怒に染め、大声を上げる牛無。
しかし、対する一総は揺るぎもしない。むしろ、底冷えするような声で言うのだ。
「何の権利? 婦女暴行の現行犯だから止めただけだ。警察官なのに、そんなことも分からないのか?」
どこまでも冷めた言葉に、牛無は息を呑む。言を向けられていない侑姫でさえ、背筋が凍るほどの凄味があった。
牛無は気圧される。だが、このままでは不味いと分かっているのだろう。すぐさま反論を口にした。
「ふ、婦女暴行じゃない! 同意の上だ。証拠に、彼女は抵抗してなかった!」
「抵抗してなくても、表情が嫌だって言ってたじゃないか。あそこまで青ざめた顔は、なかなかお目にかかれないぞ。どう見ても同意があったようには思えない」
バッサリ切り捨てる一総。
実際、侑姫の顔色はこの世の終わりとも思えるほど青い。牛無の言い分が通るのは難しかった。
良い言いわけが考えつかない牛無は、口をパクパクと動かすだけで何も言えなくなった。
そのうちに、一総が振り向く。
「先輩、こいつはどうしますか? 警察に突き出します?」
被害者である侑姫に裁定を任せるつもりのようだ。真っすぐな視線が彼女を射抜く。
侑姫は迷った。このまま牛無を警察へ預けるのは別に構わないのだが、彼の持つ侑姫の秘密が問題だ。下手に言い振らされたら彼女が困ってしまう。
数分の逡巡を経て、結論を出す。
「いいえ、この場は穏便に済ませるわ。でも、その代わり、
犯罪を明るみにしない代償として、秘密を厳守してもらう。それが侑姫の出した結論だった。
それを聞いた一総は肩を竦める。
「まっ、それが妥当でしょうね。【強制】はオレが施してもいいですか?」
「任せてもいい?」
「構いませんよ」
指定した内容を必ず遵守させる異能【強制】。それを彼が請け負ってくれると言う。
正直助かった。侑姫の所有する異能は戦闘系に偏っているせいで、【強制】を始めとした契約系はないのだ。牛無が約束を守る保証が持てるのは安心できる。
「じゃあ、オレはこいつを連れて行きます。村瀬は、今夜は先輩と一緒にいてやってくれ」
「わかった」
蒼生が頷くと、一総は牛無を引きずり去っていく。牛無は「くそ、離せ」などと抵抗しているが、一般人が勇者に勝てるはずもなかった。
二人の姿を見届けた侑姫は「ふぅ」と肩の力を抜く。よほど疲れていたのか、軽い頭痛を感じた。乱暴されそうになってからの怒涛の展開だったので、無理もない話ではある。
「ごめんなさい、村瀬さん。変なことに巻き込んじゃって」
「気にしないで。アレは女の敵」
わざわざ寄り添ってくれる蒼生に謝罪をすると、彼女は首を横に振った。
牛無をアレ呼ばわりすることに、侑姫は苦笑いである。発言自体は同意するが。
蒼生は淡々とした調子で続ける。
「ゆき、お風呂は?」
「いえ、まだよ」
「なら、一緒に入ろう。お風呂に入ってサッパリして、気持ち良く寝る。そうすれば、嫌なことも忘れられる」
「ふふっ、なにそれ」
人形のような愛らしい見た目にも関わらず、豪快な発言をする蒼生。それに思わず、侑姫は吹き出してしまった。
「でも、村瀬さんの言う通りね。今日はさっさと寝てしまいましょう」
そうして、準備を整えてから二人は浴場に向かう。
道中、侑姫が思い浮かべるのは、先程の一総だった。自分の危機に颯爽と現れ、鮮やかに助けてくれる。まるで物語の王子さまのよう。
初めて出会った時もそうだった。私が必死に追いかけていた犯罪者を、彼はいとも簡単に捕縛してしまったのだ。
周囲の人の評価は低い一総だが、侑姫は確信していた。彼は、フォース最強と謳われる彼女をも
静かに思考を回す侑姫の瞳は、大きな影に覆われていた。
○●○●○
手遅れにならなくて良かった。
彼がギリギリのところで間に合ったのには、当然理由がある。というのも、昼間に牛無に絡まれた一件があったことで、夜辺りに何か動きがあるのではないかと睨んでいたのだ。それもあって、奴を監視していたお陰で助けに入ることができたのである。
「しかし……」
人気のない廊下にて、一総は独りごちる。
思考に浮かぶのは、先の牛無の件。有益な情報を聞き出せた、というわけではない。彼が口にしたのは罵詈雑言のみで、聞くだけ疲れるものでしかなかったのだから。
だが、情報を聞くことはできなくても、得ることはできた。いや、情報どころか事の核心と言っても良いモノか。牛無が引きずられていた時、彼が密かに行なっていたのは、間違いなく“アレ”だ。そして、桐ヶ谷家が屋敷の周囲に張ったという『結界』も、予想していたものに相違ない。
(言いわけのしようもなく、黒だな)
あとは依頼していた方が完了するのを待つだけ。そうすれば、今回の一件は片がつく。その際に、
ただ、問題も浮上している。一総が牛無を撃退したことで、事態が動き出すのが目に見えていた。元々、桐ヶ谷家が様子見するのは今日一日だけだったが、より劇的な変化が起こると思われる。
今晩はいっそう警戒しなくてはいけない。
「連中はどう動くのかな」
先の展開を見据えつつ、一総はゆったりと来た道を戻るのだった。
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