『夢の最果て』
「おめでとうございます。あなたは見事、当選しました」
電話口から聞こえた言葉は、僕が待ち望んでいたものだった。
***
"今年の受賞作は『最果て』に決定"
"期待の新人作家、彗星のごとく現る!"
朝刊の1ページに、そんな謳い文句が並ぶ。 長い冬を越えて、やっと掴んだ賞だった。
投稿歴は七年。投稿回数は最早数えきれない。しかし、二次選考を通過した回数は、数えなくても分かる一度きり。最終選考まで残ったことは、なかった。
唯一の通過作品に頂いたコメントは、「きれいごと」 だった。僕の作品に悪人はいない。当たり前の日常から、小さな幸せを探しだす、そんな物語ばかりだ。 天使のような心を持つ主人公に、温かい家族、楽しい友人たち、それからちょっとキツいけど根は優しいライバル。 僕の描く世界には、悪い人なんていなかった。これは僕にとっての譲れないポリシーなのだ。
元々は、一人で僕を育ててくれた母のために小説を書いていた。 昔から、僕のつくった物話を、母はいつだってニコニコしながら聞いてくれた。賞に応募するようになってからも、原稿を読んでは必ず感想を書いてくれた。 「悪人のいない世界」は、僕にとって、母に喜んでもらうための大切なルールだった。
だけど僕は、一度だけ、このポリシーを破ってしまった。 後にも先にも、一度きり。 たった一つ、この受賞作、だけ。
「現代日本の闇をよく現わしている」
「実に残酷な話だ」
「救いようのないこの作品に、人々は救いを求めた」
様々な批評が飛び交った。 その傍らで、僕の処女作は飛ぶように売れた。 お茶の間では、この作品を書いた僕の人格についての議論が絶えない。 母は僕の本を読んで、それからお昼のワイドショーを見て、週刊誌を買ってきて、静かに泣き崩れた。
どうして僕はこんな話を書いてしまったのだろうか。 復讐に生きる主人公が、次々に人を殺してしまうサスペンス。 そこに「許し」など存在しなかった。 「聖人君子」はこの作品では悪魔のように扱われる。 信じる者は殺される。 そんな作品を、僕はなぜ書いたのだろうか。 書けてしまったのだろうか。
きっと答えは簡単で、それほどまでに、賞を取りたかっただけだろう。 母に楽をさせてあげたい。そのためにはお金が必要で、賞が欲しい。 売れるためなら何だっていいんじゃないか、そんな風に僕は追い詰められていた。だから、母に賞金を黙って付き返された時は涙が出た。
「受賞おめでとうございます。今のお気持ちはどうですか?」
そんな質問に、耳をふさぎたくなってしまう。
違う。
こんなはずじゃなかった。
僕は、1人でも、僕の作品で幸せを感じて欲しかったはずだ。 許すということを、知ってほしかった。 人を許して生きることが、とても幸せなことだと、それを伝えるために僕は物書きになったのに。母のように笑って欲しかっただけなのに。
だから決めた。
僕は僕の作品を書こう。 等身大の僕の作品を。
***
「こんな本は出せない」
編集者は原稿を僕に突き返す。
「君に求めているのは、救いようのない残酷さだ。こんな、おままごとのような世界は誰も求めていないだろう」
それでも僕は押し通した。 本当の僕を見て欲しかった。僕が欲しかったのはお金や名声なんかじゃない。他でもない母の笑顔だった。
二冊目の本は驚くほど売れなかった。僕は典型的な「一発屋」として、週刊誌の格好のネタにされた。 だけど後悔はしていない。 二度と作品を世に出せないかもしれない。それでもいい。
地元だから、と長い間、最寄り駅の本屋はわざわざ僕の本を平積みにしてくれていた。売れているのは受賞作の方ばかり。二作目は申し訳程度に、数冊おいてあるだけだ。 それを一冊手にとって、レジに向かう。自分のために買うのではない。母の為に買うのだ。今度こそ、母に笑ってもらうために。
レジで本を差し出すと、店員の女の子が驚いた顔をして僕を見た。どこかでみたことのある顔だ。もしかして、知り合いなのだろうか。だとしたら覚えていないのは少々きまずい。それとなく彼女から目をそらす。
「あの…えっと、作者の方ですよね…?」
今度は僕が驚いて彼女を見た。話を聞いてみると、著者近影を見たらしい。 ファンなんです、とはにかむ顔が可愛かった。
是非サインが欲しい、という彼女は、もうすぐバイトあがりらしい。 それなら、と近くの喫茶店で彼女を待つことにした。 僕の作品を読んだ感想を、生の声で聞いてみたかった。しかし同時にそれは恐ろしいことでもあった。受賞作である『最果て』に盲信する若者が多いことは知っている。彼女の口から出る言葉が、楽しみでもあり、怖くもあった。
「すみません、待たせてしまって」
三十分ほどで彼女は僕の待つ喫茶店に現れた。急いで来たようで、肩で息をしている。 一息着きなさい、とコーヒーを奢った。彼女は何度も頭を下げた。
「サイン、いただけますか?」
おずおずと、鞄から本を出した。持ち歩いているの?と聞くと、何度も読み返してるんです、と笑った。
その本は、『最果て』ではなかった。
『夢』と題された、僕の2作目。
「本当に感動したんです。私、親が離婚したことで、受験に失敗したんです。どうしても行きたかった私立中学があったのに、親の都合で行けなかった。凄く悔しくて、親を憎みました。だけど、それって悲しいことなんです。許すことができないって、辛いことです。もう、疲れてしまいました。そんな時に、この本を読んだんです」
号泣しました。許すということ、優しさとはなにか、大切なことがたくさん書いてありました。私はこの本に救われたんです。
彼女はそう続けた。
それなら僕は、今この瞬間、彼女に救われたのだろう。
「僕は、終わりにしたかったんです。この作品を書くことで、受賞作をなかったことにしたかった。僕が伝えたいことは、憎むことではない。許すことだから」
彼女はそんな僕の言葉をきいて、なぜか満足そうに頷いた。それから、まっすぐ僕の目を見て言い放つ。
「じゃあ、おしまいにしましょう」
「おしまいに……?」
「そうです。こんなに素晴らしい話が作れることに変わりはないんです。それに、『最果て』だって、誰かに何かを与えたかもしれないじゃないですか。決めるのは読み手です。だからいいんです。センセイはセンセイの書きたい話を書いて下さい。世間とか、そんなものはいいんです。自分の為に、書けばいいんです。だから、これで――…」
*
**
***
「…――これで、おしまいです。」
急に部屋が明るくなった。ボーっとする。あれ、ここは、どこだっけ。
「いかがでしたか?」
ずいぶん前にどこかで聞いた声。
「どうしました?」
目の前が揺らぐ。視界がはっきりしてくる頃には、僕はおぼろげに状況を思い出していた。
「えー。今回、貴方にはこのドリームメーカーの最初のテスターになって頂きました。並行世界へ行ける、これだけでも素晴らしい技術であるのに、その人の思うがままの夢が叶う。世界中が注目するこのマシンの最初の運転です。副作用や問題がないか調べますので、今日は簡単な質問と検査をして、帰って下さって結構です。明日、また来て下さい。質問はあちらの部屋で行います。どうぞ」
そうだ。当選したのだ。開発されたばかりの、夢がかなう機械。その実験第一号に。
そして、僕は行ったのだ。僕の夢、賞を受賞することが叶っていた世界へ。
簡単な、といっても、三桁近い数の質問に答え、身体検査を受けてから、僕は家に帰された。
ドリームメーカーの最初の利用者として選ばれた僕には、もう一つ副賞がついていた。本来実用化された場合は利用に数億かかると言われているこの機械を使って、永久に夢の叶った世界へ住む権利を与えられていたのだ。
だけど僕は、最後の確認にも首を振った。研究者のイラついた態度にも、頑なに首を振り続けた。
僕は行かない。 僕の夢は叶わなかった。 現実の僕は、しがない書店員だ。 諦めきれなかった僕の夢。その夢を追って、応募したテスター。
だけど、おかげで確認することができた。
夢が叶うかどうかは、今の僕の幸せには関係なかったのだ。僕が夢のこだわり、引きずっていただけで、僕を取り巻く環境は、こんなにも満たされているのだから。
「ただいま」
「おかえりなさい。どうだった?」
「やっぱり、夢は所詮、夢だった。」
「ふふ、私の言ったとおりだったでしょう?」
「君はこうなることを分かっていたから、テスターに参加することを止めなかったのかい?副賞で僕が永久に夢の世界に囚われる可能性もあったろうに、引き止めることもなかった」
「自信があったもの。あなたはここに、戻ってくるって」
「まあ、確かにね、本当に大切なものを、僕はもう全部持っていたよ」
彼女はまた、満足げに頷いた。
「ありのままを許すこと、今あるものを大切にすること、それを私に教えてくれたのは他でもないあなたでしょう」
「僕の書きかけの原稿を勝手に読んだ君が、突然泣き出したときは、驚いたよ。懐かしいね」
ふと、テーブルの上に目をやると、見慣れた封筒が置いてあることに気がついた。僕の視線を辿って、彼女もそのことを思い出したらしい。
「そうだ、お
そっと封筒を開く。 小さな文字でびっしりと書いてあるのは、僕の物語の感想だ。 僕は顔を綻ばせて夢中になって読んだ。大人になっても続く、僕と母の文通。 きっと、これもまた、僕の幸せの形なのだろう。
夢は叶わなかった。どんなに懸命に走っても、夢との距離が縮まることはなく、より遠くに、より高くに、夢は逃げていく。
僕はその夢を追いかける。ずっと追いかけ続ける。 振りかえれば、僕らの歩んできた道には、幸せの花が咲き乱れていた。
この花に水をあげよう。大切に大切に育てていこう。夢を追うのに夢中になって、踏み荒らさないように。
諦めきれなかった夢を、本当の意味で諦めることができた。僕が育て花はもう満開なのだ。他になにが必要だというのだろう。
それが、『夢の最果て』で僕が知ったこと。
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