『トンネルを抜けて』
「凄い人になりたかった」
東京行きの新幹線の中で、隣に座る彼女はそう呟いた。
「こうして、この席に座って東京に行くことは、凄いことではないと?」
心外だ。
この権利は、誰もが手に入れられるものでは無いのだ。僕と彼女の努力の結晶。それが春からの東京での生活で、僕たちは共に上京するために涙ぐましい努力をしてきたはずだ。
「違う、そういうことじゃないの」
彼女は、溜め息をついて、窓の外に目をやったが、既に新幹線は長いトンネルに入っていた。
「どうしたんだ。もう、ホームシックか?」
「違うってば。なんて言うのかな…才能の話よ」
「才能?」
「そう。私には、これといった取り柄も、なにか打ち込める趣味もないわ」
「だけど、絵、うまいじゃないか」
「あんなの、ダメよ。才能ないもの。私より上手い人は、それこそ山ほどいるわ」
「……画家になりたかったのか?」
理解力の無い僕に腹を立てたのか、彼女は膨れっ面でそっぽを向いてしまった。
いいや、彼女の言いたいことはわかる。彼女が、「あなたは特別だから、私の気持ちはわからない」と思っていることも。
僕は、才能を評価されて、東京へ行くのだ。
「私は結局、努力が足りないのね」
「努力の出来ない人が、東京の国立大に進めるとは、僕は思わないよ」
「勉強ができたって仕方ないのよ。全然、凄くなんてない」
「そうかなぁ……僕は勉強は、からっきしダメだから」
だから、聡明な彼女が羨ましかった。羨ましかったけど、僕にはやりたいことがあって、僕は僕に必要な努力をしただけだ。もちろん、彼女が努力をしなかったわけではない。負けず嫌いの彼女は、それこそ僕の何倍も、あらゆる努力を重ねてきたはずだ。
「言いたいことはわかるよ。だけど、才能がなんだ。博打みたいな人生を歩みたいのか?そんなのは、僕だけで十分だろ」
「違う、わかってない。私は、凄い人になりたかったのよ。特別になりたかったの。私でなければいけない、私の代わりはいない、そういう人になりたかった。器用にあれこれできたって、特筆した才能がなければ、結局意味がないのよ。私の代わりはいくらでも、いるの」
彼女が涙ぐむ理由を僕は知っている。彼女が強く、特別であることを望む理由を、誰よりも知っている。知っているのに、僕には言えなかった。君は僕の特別なんだよ、と。僕には君が必要なんだよ、だから今、僕は君の隣に居るんだよ、と。言ってあげたかった。だけど、できなかった。彼女が切望するのは、僕の言葉ではないのだ。
「じゃあ頑張れば?って、言えば良いのかな。でも、頑張っている君に、僕はそんなことは言えないよ」
「言ってよ」
「頑張れ、そうすれば報われる、って?」
「……そう思うの?」
「思うよ。でも、君は、その考え方から脱け出すべきだ。心配だよ」
「……どうしたら良いのか、私には分からないの。分からないのよ。恵まれてる?満たされてる?そうなのかもしれない。私は、甘えて来たわ。私は」
「自分を責めるのは辞めようよ。君は頑張ってる。僕はそれを知ってる」
「…分からないわ。分からない」
駅で買った、少し温くなってしまったお茶を、彼女に飲むように差し出した。彼女は小さく頷いて、少しだけコクリと飲み込んだが、それも続かなかった。手に缶を握ったまま、震える彼女から、僕は目を反らした。
きっと、新しい生活への不安や、あの家を飛び出したことや、他にも色んな心の負担が、彼女の中では渦巻いているのだろう。僕にできることは、励まさないことと、側にいること、それだけ。
「ごめんね」
涙は乾いたようだ。寝た振りを見抜かれた僕は、ちょっと気まずく彼女に笑いかけた。彼女も、少しだけ笑った。こんな時は、きっと手をとって、安心させてやるのがセオリーってもので、それは僕みたいな男のロマンでもあるけど……まだ見ぬ彼女のパートナーのために、僕は逸る左手を押さえ付けて
「眠いから、ちょっと寝るよ」
と寝た振りを公言した。彼女は何も言わずに、頷いた。そして窓の外をぼんやり見ることに決めたのか、窓際の手すりに肘をついて、顔を傾けた。
トンネルはとおに抜けていた。
僕の寝た振りが、本当の眠りに入るのも近そうだ。あと一時間もすれば東京に着く。僕はきっと、彼女の特別である権利を、すぐに失うだろう。だけど忙しい毎日に、それを惜しむ時間すら無いかもしれない。
愛しい愛しい隣の
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