即興短編集

紺野智夏

『走る犬』

犬は走っていた。ボロボロになりながら、駆けていた。


なぜ、逃げているのだろう?


犬は、その理由を知らなかった。知らないまま、夢中で街を駆けた。


知らないのは、それだけではなかった。


自分がなんという名前か。

自分がどんな姿の生き物か。

自分は誰から生まれ、どこから来たのか。


何一つ知らずに、走っていた。


追っ手はすぐそこまで迫っていた。逃げ込もうとした道は、犬にはちょっと狭かったけれど、それでも無理矢理に通り抜けた。


追っ手を撒いて逃げた先は、小さな公園だった。


「おかあさん、かいじゅう!!」


無邪気な子供の声と、若い母親の小さな悲鳴。母親は、水飲み場で手を洗っていた我が子を抱え、公園から走り去る。


犬は、啼いた。


悲しげな声は、すぐに闇に吸い込まれて、跡形もなく消えてしまった。閉め忘れた水道から流れる水の音だけが、聴こえる。


犬は、身体中に水を浴びた。体の汚れを洗い流すと、いくらかスッキリした。ドロまみれでガチガチに固まった毛がほどけて、真っ黒い塊にしかみえなかった体が、金色に輝いている。


犬は、しばらく公園を走り回り、風を感じた。開放感を感じていた。とても、気分が良い。


だんだんと毛が乾いていく。気持ちが良い。このまま走っていたい……。


その時。


「どこにいったんだ、まったく」


男の声がした。


犬は一瞬、たじろいだ。さっきの追っ手の声だ。どうやら、すぐ側まで追い付いてきたようだ。


犬は、いっそのこと噛み付いてやろうかと、公園の入り口を駆け抜けて、追っ手の前へ飛び出した。


しかし、犬の予想を反して、彼らは犬を捕まえようとはしなかった。


「あれ?この犬、捜索願がでてた犬じゃないっすか?」

「ああ、あの、しつこいくらい何度も問い合わせがあった犬か」

「"可哀想に、ゴールドちゃん、きっと今頃、震えているわ"」

「"うちのゴールドちゃんは、薄汚いそこらの野良犬なんかとは違うのよ"ってか。だったら、逃げ出さないように、見てろよなって話だ」

「ほんとそうっすよね。保健所に"間違えてうちのゴールドちゃんを殺したら、ただじゃおきませんわ"なんてクレームいれてたけど、責めるところが間違ってるっつの」


彼らは呑気に談笑をしている。犬は、どうしたらいいものかと、その場で様子をうかがうことにした。


「で、この犬、どーする?」

「どーするって・・ほっときましょうよ。」

「まあ、俺らの仕事はあくまで、危険な野良犬を捕まえることだからな」

「そうっすよ。下手に連れて帰って、"うちのゴールドちゃんをどうするつもりだったの"なんて言われたら、たまりませんし。まぁ、ここに居たことくらいら、教えてあげたらいいんじゃないっすか?」

「迷い犬は管轄外、そういうことだな。」


2人は、話ながら、路肩に止めてあったトラックに乗り込んでしまった。どうやらもう追ってこないらしい。


泥だらけじゃないから?誰かの飼い犬だと、分かったから?


犬はなんともいえない気持ちになった。とぼとぼと、街の中をゆっくり歩く。30分くらい歩いていただろうか、急に背後から、大きな声がした。


「ゴールドちゃん!!!!」


振り返ると、年配の女性が、こちらに向かって、駆け寄ってきていた。


誰だ?

なんだ?

一体、どうする気だ!?


犬は走った。女性は必死で追ってくる。


「ゴールドちゃん、私よ、私がわからないの!?」


そう問われても、何も思い出せない。


だから犬は、逃げるしかなかった。恐かった。自分は、なぜ追い掛けられているのだろうか。


犬は、なにも覚えていなかった。


「私のことがわからないなんて!!ゴールドちゃんはそんな子じゃないわ!この犬はゴールドちゃんじゃない・・・・・・どこかの間抜けな野良犬よ・・・・・・!そうよ、そうにきまってるわ!!」


遠くから、声が聞こえたあと、足音が聞こえなくなり、追っ手の気配も消えた。だけど、犬は立ち止まらなかった。何も考えず、走った。


  「知らない」


茂みを抜けて


   「分からない」


泥まみれになって


それでも、走り続けた。


気が付くと、暗い空の下に、取り残されていた。


今日はどこで眠ろうか。昨日は空き地のドカンの中で夜を過ごした。


走り疲れて、ハッ、ハッ、と息をした。喉が渇いている。どこかで水を飲みたい。


そう思った時、急に目の前が真っ暗になった。


「コイツっすね、例の野犬」

「ああ、間違いないな」


街には「黒い獣」のウワサが流れていた。



犬は犬だった。


犬はゴールドちゃんだった。


犬はかいじゅうだった。


犬は薄汚い野良犬だった。


犬は飼い犬だった。


犬は黒い獣だった。



犬は犬だった。


犬は 記憶を無くした 犬だった。

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