第72話 母と息子

 旧棟の床に張り巡らされた管の上。

 母はひとり腰かける。膝上に、愛息子の首を乗せて。

 首は、うっすらと瞳をあけて母を見つめている。目が合うと、愛しげに息子の首を胸元へと抱き寄せた。


 ──はじめ。

 母がささやく。


 ──かあさん。

 首がこたえた。


 母は首に頬をすり寄せる。

 ──ありがとうね。

 たいへんだったね、と。


 つぶやいた母の瞳から涙がひと筋こぼれ落ちた。頬を伝って落ちた先は、息子の鼻頭。息子の目がきろりと寄って鼻頭を見据える。


 ──俺ね、大鳳の艦上機パイロットになったんだよ。


 ──すごいね。どんな飛行機に乗るの。


 ──彗星といってね、名ばかり格好良くってあんまりたいしたものじゃない。


 ──まあそんなこと。


 ──でも、ちゃんと戦って、お国を守ることはできますから。


 ──うん。


 ──かあさん。


 ──うん。


 ──船に乗ったら手紙、書けないかもしれないけれど。待っていてね。


 ──いいわ無理しないで。


 ──かならず帰ってきますから。


 ──うん。……ううん。


 母が、息子の頬をやさしく撫でた。


 ──もういいの。もうあなた、すっごくがんばったんだから。

 ──もうかえろう。もう、どこにも行かなくていい。母さんといっしょにかえろう。


 息子の目が見ひらく。


 ──ごめんね。母さんのせいで苦労かけたね。ごめんね。


 ──ちがうよかあさん。俺は。

 あわてた声色で息子が言った。


 ──かえろう。

 涙声で母が言った。


 ──俺はただ、かあさんを助けたくって。

 ──ホントは、……。

 息子の瞳に涙が浮かぶ。


 ──死なない兵隊なんて、どうでもよかった。ただ、……ただあなたがいるこの国を、あなたを、守れるならそれで。ただ、ふつうにかあさんと、わらって、泣いて、いっしょに生きていけたら、それで──。


 息子は、嗚咽を漏らして泣いた。

 母はただ、抱きしめていた。

 周囲に散らばる息子の肉塊がうごめいて、ゆっくりと母を包み込んでゆく。まるで、母の抱擁を抱き返すかのごとく。


 ”箱”が爆発したのは、その直後のことであった。



 ※

 夢か現か。

 私は、その島が巨大な火葬場のように見えた。


 島から五百メートルほど離れた海上、揺れるボートの上で、安堵と疲れによって眠りについていたはずの私が、だれかの叫び声を聞いて意識を戻す。声の主はロイだった。

 彼は必死に私の父の名を呼んでいた。

 いったいどうしたのか、とだるい身を起こして気付いた。島が、燃えていた。


 一般棟から出火した火が、民家方面へと走り、瞬く間に旧棟へ。

 まもなく旧棟がおおきな音を立てて爆破する。

 右も左も、島は火で覆われた。

 東西から空に向かって濛々と立ち昇る煙。

 まるで、あの夏に取り残された彼らを送り出すように。


「真司さん、杉崎さんッ。響さん、菅野さん!」


 ロイがさけぶ。

 まだあの島にいる。

 逃げ場などどこにもない、あの島に。


 そう思えば私も悲しいはずなのに、なぜか涙は出なくて。

 ふたたび襲いくる睡魔に誘われるそのときまで、私はただ、島を焼き、すべてを燃やし尽くす炎をこの目に焼き付けつづけていた。




 ────。

 ──。

 病院で目が覚めた。

 ベッド脇にはロイが座っていて、となりのベッドではエマが泣きじゃくるすがたがあった。

 あれから何が起きたのか。

 母体や感染者はどうなったのか。

 ロイに問いかけても、彼は肩をすくめるばかりで答えは返ってこなかった。

「……親父は?」

 一番知りたいことだった。

 けれど、一番聞くのが怖くもあった。

 声を震わせながら聞いた私に、ロイはにっこりわらって身体を避けた。奥のベッドに全身を包帯で巻かれたすがたの人間が横たわっているのが見えた。ベッドの脇には見覚えのあるシルエットが座っている。あれは──母だ。

 ロイは声をひそめて言った。

「火だるまになって海に落っこちてきた。火傷は負っていたけど、医者が言うにはそこまでひどくねえってさ。数か月もすりゃあ普通に生活できるだろうって」

「…………」

「奇跡だって。オレも、拾い上げたときはもうダメかと──おもったけど。でも、たぶんみんなが助けてくれたんだとおもう。……そう思いたい」

 といって、ロイは腰をあげて母に声をかけた。

 私が目を覚ました報告をするためだ。母は、何度もロイにお辞儀をして私の方へやってきた。その顔がだいぶ怒っているように見えたので、怒鳴られることを覚悟してぎゅっと目をつぶった。が、母の口調は想像の百倍はやさしかった。

「からだはどう? 痛いところはない?」

「……だ、だいじょうぶ」

「なんでもいいよ。気持ち悪いでも、張ってるでも、気になることがあればいいなさい」

「いや、マジで大丈夫──べつにおれ怪我とかしてないし」

「そう。よかった」

 いつもなら「まったく無茶して!」なんて目くじらを立てるところを、母はその日、いつまでも私にやさしくて、なんだかすこし不気味におもうほどだった。

 母曰く、父はまだ目を覚まさないのだという。

 無理もない。が、命に別状はないと診断を受けたのだからきっといつか目を覚ますわよ、と彼女はわらった。見たことないほど憔悴しきった笑顔に、私はとても胸が痛くて目をそらす。

 しかし、そらした先には涙をぬぐうエマのすがたがあるので、私はどうにもならぬと目を閉じた。すると母もいたたまれなくなったのか「なにかおやつ買ってくる」と病室を出ていった。

 結局私は、またロイを見る。

 彼はエマの頭を撫でていた。

「エマもとくに異常はないとさ。ついさっき目が覚めて、起きたときは元気だったのに……軍人たちがいないって聞いてずっとこの調子だ」

「────」

「まあとにかく、いまはゆっくり休もうぜ。すこし元気になったらいろいろ話そう」

 彼の声にも疲労が混じる。

 私は黙ったままうなずいて、また目を閉じた。

 

 和真。かずま!

 ありがとう──。


 聞こえるはずもない声が脳みそに響いて、鼻奥がツンとした。


 ────。

 ふたたび眠りについた夢のなか。

 そこには、円卓を囲んで猪口を掲げる杉崎や菅野、響や宮沢、果ては祖父や宍倉、私の知らぬ老若男女までがあらわれた。

 すこしだけ居心地が悪そうな男も、女性に促されてともに猪口を持ちあげる。

 彼らは、それはそれは楽しそうに「乾杯」とわらって、酒をかっくらった。

 ある男が、たったの一口で顔を真っ赤に染めてごろりと横になる。

 そうかそうか、と男がわらった。


「未来もなかなか、捨てたもんじゃねえってことだ。なあ──英雄どもよ!」


 みんな笑っている。

 とても楽しそうに酒を呑んで、ある人たちは肩を寄せ合って、ある人たちはうまそうにつまみを食って。

 ある人は幸せそうに──チョコアイスを齧って。


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