恩田一

第70話 真司の策

「井塚さんの内縁の妻ってのは、君のことだったんだな」

 真司はうつむきながら言った。

 有刺鉄線の外、井塚が地雷を設置する。危ないから、と真司とちとせはすこし離れた場所で、埃をかぶった銃を綺麗にすべく布で拭っている。

 つかの間の穏やかな時間、真司は当時の思い出話をせっついた。恥ずかしそうにちとせはうなずいた。

「決して下心があったわけじゃないんです。そう言った方が自然かな、と」

「これもずっと聞きたかったんだけど──どうして成増さんをころしたんだ?」

 聞いた瞬間、ちとせの顔色が変わる。

「本来なら、君がころすべきは正蔵だった。いまさら掘り返すようでわるいがな、そのとき成増さんが生き残って正蔵が死んでいたら、もっと事態は簡単に済んでいたのに」

「それは」

 わかってます、と彼女は苦しそうにくちびるを噛み締める。

「……成増さんには本当に、償ってもつぐないきれないことをしたと、おもってます。いまのわたしならきっと迷わず正蔵をころしてる。でもあの時は」

「……………」

「──愛してしまっていたんです」

 ちとせは喉を詰まらせ、つづけた。

「どうしようもない、鬼のような人だったとおもうでしょう。わたしにもわかってるんです。だから井塚さんの優しさがとても心に染みて、この人なら忘れられるとおもった。でも、──」

 かつて。

 陣痛に苦しむちとせの手を握り、出産時もその後もいつもそばにいて、あたたかいことばをかけてくれた。男は怖いもの、とおもっていたちとせを怖がらせぬよう、人として丁寧に接してくれた。

 彼のぬくもりはたしかに本物だった、と。

 ちとせは涙をこぼしながら言った。

「あの日々が、地獄を味わったあとのわたしをどれほど支えてくれたか分からない。孝正さんが、あの人がいなかったら、わたしはハジメを生んですぐ死んでいました。皆さんからしたらその方がよかったのかもしれない。でも、おかしいと思われるでしょうけれど、わたしは──」

「……………」

 一文字正蔵をうらんで生きてきた。

 ヤツがいなければ、背負う荷のない親父はきっと清々しい気持ちで仕事をして、夏がくるたびはしゃいで、海を見ながら、遥か彼方の島でかつて戦友たちと過ごした時間を朗々と話してくれたかもしれない。

 捕虜を経て生き残り、歳を食った杉崎や井塚に会って、いろんな武勇伝を聞いたかもしれない。

 すべては一文字が生み出した闇が消し去った。

 真司はいつだってそうおもって、この年まで生きてきたのである。

(でも。──)

 空を見上げた。

「あんな人間でも、あんたにとっては英雄だったんだな。……」

「え、?」

「だれもが知らないうちに、だれかの英雄になっているもんなのかもなぁ」

 晩年の正蔵は本社に来るたびいつだって昏い顔で執務室に引きこもっていた。どうせわるいことをしているものだと決めつけて、見向きもしなかったけれど。

(誰よりも後悔していたのかも、しれねえな)

 なんておもったら、ほんのすこしだけ心は軽くなった。

 やがて、井塚のいる方がさわがしくなる。何事かとおもえば、響と杉崎、菅野がそれぞれの軍服をまとい、揃ってこちらにむかってくるところであった。先頭を歩く杉崎のすがたを見て、井塚がすかさず「地雷に気を付けろ」とどなる。

 杉崎は「おおッ」と目を見ひらいた。

「井塚ァ!」

 手を広げたふたりは、熱い抱擁を交わした。

 いつものことながら杉崎の瞳には熱い涙が溜まっている。こんなときでも口角が一ミリあがる程度の井塚とは大違いだ。杉崎はぐいと涙をぬぐいながら「よく生きてたなァ」と井塚の肩を抱いた。

 その勢いにとまどいながらも、井塚はわずかに笑んだ。

「……研究室では話もできなんだ。それこそペ島で捕虜になったとき以来だな」

「ハァ。そうなのか。いやなにせ研究室とやらにいた記憶がいまだになくて、そう言われてもいまいちピンとだな」

 と頭を掻く杉崎を見て「なんだ貴様」と響が呆れた声を出す。

「まーだ思い出していなかったんですか。この菅野でさえ思い出してきたというのに」

「えーッ。ナオさんもかよ!」

「なっはっはっは。やっぱ身体が頑丈なぶん、頭は壊滅的だな!」

 さらりと酷いことを言ってのける菅野。

 意外にも井塚が吹き出してくつくつと肩を揺らした。それをすこし照れた表情で見ていた杉崎は、やがて「いいんだ」と胸を張った。

「過去のことなら俺は、井塚のこと、戦友のこと、おふくろのことだって覚えてた。なによりここで、忘れられない思い出をたくさんもらった。俺にはそれだけでじゅうぶんだ」

「……貴様らしいな」

 井塚は不器用な笑顔を浮かべて言った。


 さて、と。

 仕切り直しの合図を出したのは響である。

 なごやかな雰囲気がピリリと締まる。ちとせがわが身を抱いて、民家方面へと目を向けた。同時に井塚もおなじ方角を見る。

 真司らには分からぬ細菌の動きを感じ取ったらしい。

「ハジメがこちらに向かってるわ、……」

「感染者の一個小隊を引き連れている」

 と、井塚は機銃を地面に設置する。

 感染者の一個小隊とはおだやかではない。向こうが五十人ならばこちらはたったの六人である。とはいえ杉崎と菅野、響の顔は涼しいものだった。

「情を捨てた兵隊など大和男児の足もとにも及ばん」と、杉崎。

「ひとり頭十人弱とおもえばかるいかるい!」とは、菅野。

 あくまでこちらの目的は母体ひとりです、と響は髪をかきあげた。

「感染者は島を燃やせばいっしょに燃える。懸念すべきは、火焔によって母体が消滅してくれるかどうかくらいだ」

「……それなんですが」

 と、真司が控えめに声を出す。

 一同の視線が注がれた。自身の懐に忍ばせた、成増の最後の手記に手を当てながら、真司はごくりと唾を呑み込む。

「万にひとつの可能性に、かけようとおもってます」

「可能性?」

「……ええ。ぼたんちゃん──いや、ちとせさんにも協力してもらう必要があるけど、いいかい」

「わ、わたし?」

「ああ。だから皆さんはとにかく、ちとせさんの身の安全を確保しつつ、母体を旧棟に追い込むことだけを考えてください」

「なにか策があるってことなんだな?」

 杉崎の瞳が光る。

 たいそうなもんじゃない、と真司は苦笑した。

「策──かどうか。でも、きっと大丈夫だともおもってます」

「……真司さんがそう言うなら、きっと大丈夫なんだろう。なっ、ナオさん!」

「ああ。オレは地上戦にゃ慣れとらんが、なんとかならぁな」

「機銃がこんだけありますから、感染者たちの足止めくらいは出来よう」

 菅野、響もほくそ笑み、うなずいた。

 そうと決まれば動きを確認しよう、と井塚を含めた四人で顔を突き合わせはじめた。一方でちとせは、不安げに真司を見上げる。

 いったい自分になにができるのかと言いたげな顔をしている。

「わたし、お役に立てるでしょうか」

「立てる。君にしかできないことだ」

「わたしに?」

「パイロット──恩田一の最期のとき、そばにいてやってほしい」

 真司は口角をあげた。

 えっ、という顔でちとせは固まった。まさか策とはそれだけか、と顔に出ている。けれど真司はそれで充分だともおもっていた。

「彼だって好きでこうなったんじゃない。七十年、苦しんできたはずだ。だからいま、ただの母親として彼を抱きしめてやってほしいんだよ」

「…………」

「きっとハジメくんのなかではまだ、君に戦地へ送り出されたあの日から時が止まったままなんだ。だから、よく頑張ったね、立派だったねって、言ってやってほしいんだ。もう頑張らなくていいってことも」

 振り上げた拳を下ろしたときにこそ、本当の勝利が得られるものなのだ、と。いつだかエマが言っていたと聞いた。

 戦を終わらせるために必要なのは武力でなく、赦す心なのかもしれない──。

 そうおもったら、自身のなかにあった憎悪のしこりが溶けてゆく気がして、自然と瞳からは涙がこぼれた。

 赦すとはこういうことか、と涙を拭いながら真司はおもった。

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