第68話 英雄のしずく

 ヘリから降りた私たちが向かったのは、栢山の宍倉家であった。

 あのとき祖父がジャムおじさんと例えた友人とは、これまでの手紙から推察しても宍倉健三のことに他ならない。

 おそらく祖父は、老いさらばえる身が朽ちるその時まで『雫』の完成を待ちわび、されど待たずに亡くなった。であれば、宍倉がいまだ手元に残している可能性は十分にある。

 道中、杉崎に夢の話をした。

 ふしぎな話だな、と彼は壁に張り付きながらうなった。

「でもたぶん、まだ文彦さんは成仏せずにお前のことを見守ってくれているんだ。きっとその雫があれば、この一件も無事に終わるかもしれないぞ」

「うん。……」

「ところで、撒いたかな?」

「たぶんね」

「あぶねえ、やっぱり着陸しないで正解だったな。いまごろ守衛さんに取り囲まれてただろうぜ」

 カッカッカ、と杉崎は豪快にわらう。

 ヘリから地上へ降り立った私たちにわけを聞くためか、学校の守衛が数人ほど追いかけてきたのである。杉崎は私を背負ったまま風のように駆けて、こうして住宅街の一角に逃げ込んだのだった。

 きっといまごろ、ヘリの機体から一文字社のものだと特定されていることだろう。とはいえ、ヘリが島につけばこっちのもの。

 周囲の静けさを確認し、私たちはようやく宍倉家へ向かう。

 ここでも杉崎は役立った。

 道をおぼえるのが苦手な私に対して、彼は一度訪れた場所は覚えてしまうのだ、と迷うことなく宍倉家にたどり着くことができたのだ。

 あのとき杉崎が「ともにゆく」と言わなければどうなっていたか──と、私は恥ずかしいやら情けないやら。

 インターホンを鳴らす。

 しばらくして、先日の老婦人が玄関に出てきた。

「あらまあ、倉田さんの」

「か、和真です」

「杉崎もいまぁす!」

「またいきなりですこと。ちょうどよかった、貴方たちにお渡ししなくっちゃいけないものが出てきたのよ」

 渡すもの?

 私と杉崎は顔を見合わせる。

 どうぞおあがんなさい、と老婦人はうれしそうにわらって、私たちを招き入れた。


「貴方たち、主人の遺品見るの好きでしょう」

 第一声で人聞きのわるいことを言った。

 好きというわけでは、と口ごもる私に対して杉崎は、

「はあ、背徳感が癖になるといいますかな」

 などと調子のいいこと言っている。

 彼女はまず、高齢での遺品整理がどれほど大変なことかを滔々と語りはじめた。息子夫婦はめったに帰ってこず、重いものを動かすのはいつも自分なのだ、と。はあ、だの大変ですね、などと相槌を打つものの、正直はやく雫の話をしたい。

 が、なかなかどうして彼女の話が終わらない。しかし十分ほどしたところで、話はおもわぬ方へ進みはじめた。

 冷蔵庫を掃除したのだ、と彼女は言った。

 冷蔵庫ですか、と私は台所に見える背の高い冷蔵庫を見る。しかし彼女はちがうちがうと首を振った。

「そっちの冷蔵庫じゃなくてね。ちょっとこっち、もしかしたら貴方たちに見せた方がいいかしらとおもって。さあどうぞいらして」

 どちらに、と杉崎が腰を浮かせる。

「主人の部屋に冷蔵庫──あ、なんかひんやりしてる箱だからそう呼んでいるんですけれどね。あるんです。いじるなって言われていたからいままで中を見たことなかったんだけれど」

「見ても?」

「ええどうぞ」

 部屋に入る。ずいぶん整理したのだろう、簡易ベッドは折りたたまれて、部屋の隅には書類や衣類が山積みで置いてある。

 婦人の言う冷蔵庫は、たしかにあった。

 ビジネスホテルに備え付けられたような小型の白い箱。電源コードが棚の後ろを通ってプラグに刺さっているところを見ると、まだ稼働しているようだ。

「だいたいね、遺品整理なんてこんな老体ひとつじゃそうしゃきしゃき進むものでもないのよ。やっとこあの人の部屋を見て、この冷蔵庫を見たらね」

 と、無遠慮に婦人が扉を開け放つ。冷気が頬を撫でた。冷蔵庫というよりは冷凍庫というべき冷たさである。

 我先にと覗いた杉崎が「あっ」と声をあげた。

「和真見ろ。……」

 彼のうしろから首を伸ばす。筒立てに、見慣れぬ真空筒の容器が一本だけ立て掛けられていた。ラベルにはふるえる文字で“しずく”とひと言。

 手にとって筒を傾けてみる。なかには透明な液体が入っているようだ。これこそ、私たちのさがし求めていた“しずく”なのだろうか。

「これはいったい──なんの液体なんだろう」

 分からない。

 が、それについての詳細な記載は、真空筒を見る限りでは見当たらない。真空筒の液体に集中する私たちの横で、手がかりがないかと机上の荷物をひっくり返す婦人が「はららら」と情けない声を出す。

「やだそういえばそうだわ。──」

「どうしました」

「あの人、この部屋で倒れたの。そのとき書いてたのね。これ……」

 と、宍倉のご内儀は一枚の紙を差し出してきた。

「もう手ふるえちゃって、字がうまく書けなかったから──こんなだけれど」

「拝見します」

 と、杉崎が受け取った。

 力を振り絞って書いたのだろう、これまで見てきた彼の手紙にしては雑な字が目立った。本当に、力尽きたように──。


『倉田さん

 約束のしずくです

 南硫黄島の岩滴からつくりました

 ワクチン製造を誓って数十年

 我々唯一の手段ができたのです

 嗚呼

 この悲願をどうか見届けてほしかった

 僕もまもなくそちらへ逝くようですから

 その時はどうぞ話を聞いてください

 宍倉(力尽きたように筆が乱れている)』


 声を出して読み上げた杉崎は、

「これは──!」

 と目を輝かせる。

 あのとき、祖父は言った。

 ──ジャムおじさんも、みんな英雄だ。

 と。

 この薬を作り出した宍倉という男、おそらくは一文字家にも認知されていなかったにちがいない。監視の目を抜けられぬ祖父に代わって、たったひとり帰らぬ上官を想って、死の間際までこの薬精製に命を賭したのだ。

 これを英雄と言わずしてなんと呼ぶ。

 私はこみあげる涙を抑え、婦人に深く頭を下げた。

「あの、ありがとうございました」

「お役に立てた?」

「──宍倉さんはぼくたちの英雄です」

 力強く言うと、これまで気丈だった彼女も、ほんのすこしだけ泣いた。

 そうと決まれば島だ、と杉崎は頬を赤らめる。車がないため、ここから熱海まではまた電車に乗らねばなるまい。島につくまでの時間にしておよそ一時間といったところか。

 菅野はうまくやっているだろうか。

 エマは無事だろうか。

 父やロイは──島は、どうなってしまったのだろうか。

「大丈夫か、和真」

「…………」

 杉崎に肩を叩かれた。

 彼の顔には笑みすら浮かぶ。

 そうだ。

 心配は尽きぬが、したところで状況は変わらない。だったら考えるよりも行動あるのみ、である。

「大丈夫に決まってるじゃん」

 これまでの私ならば至らなかったであろう前向きな考えで、無理やりおのれを奮い立たせた。

 これからどこへ、と婦人が首をかしげる。

「熱海港に行って、島に行きます」

「熱海港までは車でいくの?」

「いや。ぼくたち免許ないから──電車で」

「あらまあ。そういうことなら送ってあげるわ」

 と、いって婦人がにやりとわらう。

「えっ、いやでも」

「急いでいるんでしょ。心配しないで、おばあちゃん運転じょうずだから!」

 さあ腕が鳴るわね、なんて。

 宍倉のご内儀はぐるんぐるんと腕を回すから、杉崎は俄然調子にのって、

「熱海の前に倉田家に寄ってください」

 と後部座席から身を乗り出した。

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