島民たち

第62話 夢のなかで

『クラスターが起きてる』

 と、エマから連絡を受けたのは、私たちがとある秘薬を手に入れた直後のことである。

 恒明から、細菌をころす薬液があると聞いた。脅しに脅して、しまいにはちょこっと身体を痛めつけ、私たちはなんとかその薬液を手に入れることができたのである。

「早くこれを島に届けないと!」

 と、担った大役の完遂を間近にして浮き足立っていた矢先の電話だった。

 現状を語るエマは泣いていた。東南東小島には一定の島民が帰島したばかりで、たったひとりの男を皮切りに、水が浸透するくらいの速さでみるみるうちに感染拡大しているのだと。

 逃げおおせた健常者を一般棟に誘導するなか気がついたのは、無事なのは子どもが多いこと。とっさに親が庇ってのことだろうが、細菌に侵された親を見た子どもたちの心傷は計り知れないものがあるだろう、とも言った。

 彼女は電話を切る間際、悲痛な声でさけんだ。

 もう終わらせて、と。


「この薬で何人の人が助かる?」

 恒明の首にナイフを押しつけた杉崎が問う。さんざんいたぶられた恒明に、もはや社長の面影はどこにもない。彼はひひ、とひきつった笑いを浮かべる。

「つ、使い方はいろいろある。母体に注入すれば動きは止まって、感染した者の細菌たちも一気に止まる──その代わり、すでに細菌に乗っ取られた身体は、細胞の機能を果たさなくなるんだから、とうぜん死ぬよね。あとは感染した人間に直接注入する。その場合、そ、その人は助かるけど母体は止まらないし、感染は広がりつづけるよ。ひとり助けたところでどうなることもないし、ま、まあ妥当なのは前者じゃないかな」

「なに他人事みてえに言ってんだバカヤロウ貴様!」

 と、菅野が恒明の肩を小突く。

 しかし実際問題、感染した人間をひとり助けるよりは母体を止めることが先決なのはまちがいないだろう。私は携帯で時間を確認する。

「ここから熱海まで、車でも二時間かかる──それまでむこうが持ちこたえてくれたらいいんだけど」

「クソ、なんで中野なんだここは!」

 と、杉崎が理不尽なところに怒りを覚えたときである。応接間の扉が開き、息を切らした佐々木が駆け込んできた。

 まだいたのか、と菅野がおどろきの声をあげる。しかし佐々木は気にせず、上を指さした。

「一文字にはヘリがあります。東南東小島の一般棟屋上にはヘリポートが作られているので、海が荒れてる日などに視察をおこなうときは、空から行くんです。それならもっと早くつけるはず!」

「さ、佐々木さんどこから聞いて──」

「気になって立ち聞きしちゃったんですよッ。そんなことより、島には真司さんもいるんでしょ。だったら早くそれを届けないと!」

 と、佐々木はさけんだ。

 しかし恒明は高らかにわらった。

「か、肝心の操縦者はだ、だれがやるんだよ。うちのヘリを操縦してたのはあの新母体の男だよ!」

「な、…………」

 私はことばを失う。が、つぎの瞬間には鈍い音がして、恒明はふたたび地面に倒れ伏せた。どうやら菅野が殴ったらしい。

「俺がやる。空は任せな」

「か、菅野さん」

「おい、たぶん戦闘機とはワケがちがうぞナオさん。無茶じゃねえか?」

「エマが待ってんだろ、なら行くしかねえべ。おいアンタ、ヘリの場所まで案内してくれ!」

「こ、こっちですッ」

 佐々木が駆け出す。菅野もあとにつづく。

 ええいもうヤケだ、と杉崎は恒明を俵担ぎして、ともにそのあとを追った。


 一文字家最上階、重厚な扉を開けた先にヘリはあった。

「なあナオさん、やっぱ無茶だぜ」

「じゃあ誰がやるんだよ。なぁに、あの頃とちがって操作にもたついたところで、どっかから撃墜される心配はねえんだろ? 飛びながら覚えるよ」

「撃墜王は言うことがちがうなァ──」

「うん」

 と、菅野は私から薬液の入ったワクチン注射器を取り上げて、ヘリコプターに乗り込む。操縦席の中をマジマジと確認しながら、ウンウンと数度うなずく。

「分かるか?」

「感覚でできそうだ」

「撃墜王は度胸もちげえなァ」

「だろ」

 後部座席に我々三人が乗り込むのと、荷物のように恒明が放り込まれるのを確認してから菅野は「よし」と気合いを入れた。

「行くぞ、撃墜王直々の空旅だ。心して楽しむように!」

「ひゅう!」

 楽しんでいる。

 私と佐々木は顔を見合わせ、苦笑した。恒明はまた気絶している。まもなくヘリはけたたましい音を立ててふわりと空へ飛び立った。

 みるみるうちに一文字家が遠ざかる。

 今日がはじまってまだ半日だというに、ずいぶんと濃い時間だった。一気に気が抜けたのか、私は飛び立って五分もせぬうちに夢のなかへ旅立った。


 ※

 ザザ、ザ。

 よみがえる波音と祖父の声。

 彼はむかし、まだ幼い私を海へ連れていったことがある。波打ち際が怖くて泣いた私に、海を指さしてなにごとかを言っていたっけ。──

 あのとき彼は、なんと言った?

 そう、あの日はとても暑い日で、私は宥められるようにアイスを食べながら、祖父の膝上で彼の横面を見上げていた。

 シワだらけの指が海の先を指さす。

「ほうら和真、そんなに泣くもんじゃない。そうだ知ってるか。海のむこうには英雄さんがねむっているんだ」

「あんぱんまん?」

「ははは、そうか。和真にとっての英雄さんはアンパンマンか」

「あんぱんまん、えーゆーだよ」

「ああそうとも。でもな、なにも英雄はアンパンマンだけじゃない。彼を助けてくれるバタコさんも、ジャムおじさんも、みんな英雄だ。わかるか?」

「うーん?」

「難しいかな、まだ。……」

 祖父は物悲しそうにわらった。

 だから私は、子どもながらに励まそうとして

「おじいちゃんもえいゆーでしょ?」

 と言った気がする。

 英雄なんかじゃない、とわらって祖父は首を振った。

「おじいちゃんは、ジャムおじさんにもなれなかった。──」

「ジャムおじさんになりたいんならね、もっとふとらなきゃね、だめだよおじいちゃん」

「ハッハッハッ、そうかそうか」

 和真には言っておこうかな、と彼が小さな声で囁いた。

「ナイショのはなし?」私はにっこりした。

「ナイショのはなし」祖父もにっこりわらった。

「おじいちゃんの友だちにはな、ジャムおじさんがいるんだぞ。りっぱな研究者で──いまも、がんばって雫を作ってくれている」

「しずく?」

「ホントはおじいちゃんがすべきなのにな、でもおじいちゃん、いろんな人に見られちゃってるから、好きなことできないんだよ。情けないねえ」

 祖父の声はふるえていたような気もする。

 だから私は一生懸命励まそうとしたけれど、なにせ幼いゆえに語彙力もないものだから、ただ楽しく聞くことしかできなかった。

「しずくってなぁに。おいしいもの?」

「うん? うーん、きっと英雄さんたちの助けになるもの、かな」

「ふうん」

 そうだ。

 そういって祖父は私の頭をやさしく撫でたのだ。そのあと母に呼ばれて私は祖父の膝から飛び降りて──。


「和真」


 祖父が呼ぶ。

 あのとき、呼ばれたのだっけ。よくおぼえていない。

「和真、お前ならばだいじょうぶだ」

「おじいちゃん──」

「雫をさがせ」

 雫。しずく?

 いったいそれは──。


「和真やーい」

 耳元で声がして、私の肩が跳ねた。

 呼び掛けてきたのは杉崎らしい。ずいぶんぐっすりと寝入っていたらしく、現地点を聞けばもうすっかり小田原上空だと菅野から返ってきた。

「あぇ、おれそんな寝てた──」

「よく寝てたぞ。いやほら、せっかく家の近く来たから空から見たいかなとおもって起こしたんだ。あそこが城で、たぶんあっちの方だよなァ」

「貴様ら、これから島までひとっ飛びだ。心の準備はいいな?」

 いいとも、と腕をつき出す杉崎と佐々木。

 しかし私はいまだ夢に囚われていた。ざわざわと焦燥に駆られ、おもわず操縦席のシートを狂ったように叩く。

「まって、まって菅野さん。おれここで降りる!」

「えっここで?!」

「おい無茶言うなよ和真。なんだウンコか?」

「ちがうっ」

 探し物があるんだ、とさけぶ。

 雫。祖父のいうそれがなんなのかは分からぬが、夢のさいごに語りかけてきた祖父は、記憶のなかの彼ではなかった。理由はないが確信があった。

 とはいえ、こんな住宅街の真ん中でヘリが降りられる場所なぞあるものか。菅野は困ったようにさけぶ。

「ありますッ」

 と。

 叫んだのは佐々木だった。

「各市には、防災拠点として臨時離着陸ができるよう、ヘリポートが指定されているはずです。小田原は──ここから近いのは小田原城北高校グラウンド!」

「ガッコのグラウンド、勝手に降りていいのか?」菅野はとぼけた声で言った。

「いいわけないですけど、どうせこれ一文字のヘリだしいいんじゃないですかね。あとで怒られるのは会社でしょ。和真くん降ろしたらすぐ逃げましょう」

「なははは、佐々木さんアンタもなかなか言うな。そういうことなら和真、俺もいっしょに行こう」

 と、杉崎が私の肩を抱く。

 私はホッとした。彼といっしょならなにが起きても怖くはないとおもった。たいした荷物もないので、心の準備をするだけである。

「おーおー、学校が休みでよかったな。グラウンドは見たところ使ってねえぜ。このまま降下するぞ!」

 と、ヘリが降下を始めたときである。杉崎が降下用梯子をじゃらりと抱えて、扉を開けたではないか。すさまじい風圧が顔を襲う。

 なにやってんですか、と佐々木が絶叫する。

 しかし杉崎はうれしそうに「だってよう」とわらった。

「着陸したら飛び立つのに時間かかるだろ。地面が近くなったら俺と和真がこれで降りていくから、そのまま島へ急いでくれよ。エマたちが待ってんだから」

「おうわかった。和真のことたのむぜ杉さん」

「おう。そっちもエマたちのことたのむな、ナオさん。あと佐々木さんはその男、逃げねえように見張っててくれよ」

 といって杉崎は梯子を降ろす。

 けたたましく空を飛ぶヘリコプターの正体をたしかめるべく、周囲の家々から住人が顔を覗かせる。学校校舎の方も、おそらくは職員室であろうところから数人の大人が窓際に寄っていた。

 これほど人様に注目されることがあったろうか。いや、ない。しかし不思議と私の心はおだやかだった。たぶん、杉崎の腕がいつまでも私を支えてくれていたからだろう。

 地面が近い。梯子で降りればすぐに着地出来そうだ。

「いけ!」

「いくぞ和真、俺にしがみついておけよ」

「う、うん」

 菅野の声を合図に、杉崎は私を背負いながら器用に揺れる梯子を降りてゆく。梯子の途中、およそ二階ほどの高さに到達すると、杉崎はいきなり宙を飛んで落下する。恐ろしさのあまり声も出せずにいた私だが、杉崎は余裕の顔でしっかりと両足を地につけて着地した。

 上空では、梯子を回収する佐々木がこちらに手を振る。挨拶を交わすようにわずかに機体を揺らして、ヘリはふたたび海の方へ飛んでいった。

「お、降りちゃったね」

「降りちゃったなぁ」

「よし、行こう」

「どこにでも供するぜ、相棒」

「……おう!」

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