第36話 願掛け文通
小田原市
私がこれまで住んでいた都内に比べたら、倉田家がある小田原駅周辺もずいぶん長閑な土地だとおもっていたけれど、このあたりはさらに時の流れがゆるやかであった。
倉田家から車でおよそ二十分ほどの距離。閑散とした住宅地の一角に、われわれの求めていた宍倉家は存在した。今どき古い瓦屋根と、ところどころ剥がれ落ちた漆喰の壁が哀愁をもたせる。ちなみにロイと響、菅野の三名はエマを迎えにいくため、倉田家で待機している。
開け放たれた窓。中から薫るは線香の匂い。父はゆっくりとインターホンを押した。十秒ほどして、扉がひらく。
中から、やつれた顔の老婦人が顔を覗かせた。
アポなし訪問ゆえ、父は平身低頭の姿勢で来訪の意を告げた。かつて手紙のやり取りをした倉田の息子です、と名乗れば、彼女の瞳はわずかにかがやく。
「どうぞおあがりくださいまし」
老婦人は深々と頭を下げた。
────。
「え?」
仏間に通された私たちはことばをうしなった。
白木で組まれた祭壇に白木位牌。額に立てかけられた写真は快活にわらう老人が写っている。夫人は「
「夜中に息が止まって。老衰だろうってお医者様はおっしゃってましたのよ主人はもう九十近かったですから。それできのう葬式が終わったところでした」
「さ、一昨昨日って──だってうちに来たんですよこの人、一昨日の昼に。杖をついて姿勢もよくて、それで」私はちらと杉崎を見る。「杉崎軍曹はお帰りかって」
「まあそうですか。もう夏ですものねえ、そんなこともあるのかもしれませんね」
といって老婦人は長いろうそくに火をともす。さしておどろいたようすはない。
成増が正座した膝をすべらせて「よろしいですか」とたずねた。親指と人差し指でなにかをつまむ動作をしている。老婦人は「おねがいします」と微笑んだ。
なるほど、線香のことだったか。
ろうそくの火に線香をかかげる。白い香炉に一本、煙がくゆる。しずかに手を合わせる成増にならって、父と私、杉崎もつづいて線香をあげた。
私が見よう見まねに合掌するあいだに父が「申し訳ない」と頭を下げる気配がした。
「きのうお葬式でお疲れのところ、こんな突然お訪ねしてしまって──今日はこれで失礼したほうがいいかもしれませんね」
と、最後のことばは成増に向けての発言だったが、老婦人は父の手をやさしく握った。
「いいんですよ。今朝ね、主人の荷物を整理しててちょうど見つけたところだったんですよ。ほらその、倉田さんからのお手紙」
「ほ、ほんとうですか」
「いえね、ほら。死亡通知っていうんですかあるでしょ、はがき。それを出さなくちゃとおもって主人の知り合いの住所をさがしてたんです。ただ倉田文彦さんが亡くなったっておはがきいただいてましたでしょ。だから出そうかどうしようかって悩んでたんです──でも、そう。そうですか、お宅にうかがってたんですねえ」
チーン、と輪の音がひびく。
杉崎が鳴らしたものだった。彼は合掌し、じっと頭を垂れている。真一文字に結ばれたくちびるをふるわせて、すこし涙をこらえているようにも見えた。
そうだ、と父が言った。
「宍倉さんがずっと捜していた、杉崎茂孝という軍人は奥さまもご存知ですか」
「ええもちろん、主人の上官でずいぶんお世話になったんだって。あの人がいなかったら俺はこうして母国に帰ってきてはいないんだぁなんていつも言っててね。よほど感謝していたみたいです」
と聞くや、杉崎はパッと笑みを浮かべて老婦人に向き直る。
「いやあ、宍倉は根性があって見上げた男でしたから。あいつはきっと生き残るとおもってましたよ」
「はあ──」
「あ、杉崎茂孝がそう言っていたってことです。はは、……あの、自分杉崎の縁者なもので。宍倉が、いや宍倉さんがこんなに杉崎茂孝のことを待っていてくれたとは知らず」
「か、彼とは最近お会いしたんです。いろいろあって宍倉さんのことを知って、それで杉崎さんの行方を捜していると聞いたものですから」
父はあわててフォローを入れた。
私と成増は互いに顔を見合わせて頬をゆるめた。まさか杉崎茂孝本人が帰ってきただなんて言えるわけもない。しかし老婦人はきょとんと眼を見開いたまま、杉崎の顔を凝視した。どうしたのかと問う間もなく、彼女は腰をあげて別室へ行ってしまった。
まもなくもどってきたその手には分厚いアルバムが抱えられている。重そうだったので私が受け取ると「ありがとねえ」とわらった。
「それは?」
「これね、戦前からずっと大事にしてた宍倉のアルバムなんですけどね。ほらここ、このあたりがちょうど戦争中から……そのあとの写真でね。ああこれ、この写真」
乾燥した彼女の指が一点を指す。
白黒の写真には、六人の陸軍青年が映っている。前列に三人が椅子に座り、後列の三人が肩を寄せ合う構図。みな勇ましく、射すくめる視線を向けていながら、その口元はわずかにゆるい。六人の仲が良いことがこの表情を見れば伝わってくる写真だ。そのうちの前列真ん中に、どうも見覚えのある顔を見た。
あれ、とつぶやいて、私はちらと杉崎を見る。
そうだ。この顔、この青年は──。
「そうそう、この方。宍倉の上官で杉崎茂孝さんっていうの。ね、そちらのお顔を見てようく似てるなあって思い出したんですよ」
「わ、す、すげえ──杉崎さんだ。ホントに七十年前の人だったんだ。……」
とは、私のひとりごとである。
写真のなかの彼は生き生きとした顔で、恐れるものなど何ひとつないと言わんばかりに、自信に満ちあふれている。その肩に手を乗せた後列まん中の青年。どこか面影のある顔だと思ったら、案の定夫人はこの青年を指さした。
「これが宍倉。ね、遺影の顔とそのまんまでしょ。もう杉崎さんのことをホントに慕ってて、うしろに写れたんだって結婚当初はよく見せられたもんです。見合い結婚だったんですけどなんだか妬けちゃってね。あんまりうれしそうなんだから」
「そりゃあ申し訳ないなぁ」
「え?」
「いやなにも」杉崎は苦笑する。
そんなに人望厚かったんですか、と成増がおどろいた顔をした。何気に失礼な反応である。
「はあ。私は宍倉からしか杉崎さんのことは聞いてませんから、だいぶフィルターがかかってるでしょうけれどね。でもとにかく、部下を一度だって見捨てることをしなかった人だっていうのはなんべんも聞きました。──まあ、そういう話は女の私にはあんまりしてくれなかったよ。たぶん倉田さんとのやり取りのなかではなにかしら話もしていたとは思いますけれど」
それです、と父は身を乗り出した。
「宍倉さんに送られた、倉田の手紙。父は死ぬまで、息子である俺にはなんにも教えてくれずに死んじまいました。ただ、宍倉さんに対しては──宍倉さんとふたりで、なにか重要なことをしていたようなんです。それを知るためにも、その手紙あるだけ見せていただけたら助かるんですが……」
「はあ、ちょっと待って」
夫人はよっこらしょ、と立ち上がり、仏壇の引き出しを開ける。やはり昔の人間が大切なものほど仏壇にしまいたがるというのは本当らしい。
中から溢れんばかりの茶封筒。
すべて倉田文彦からの手紙らしく、彼女は丁寧にそれを畳の上へ並べた。
全部で数十通になろうか。
父は「こんなに」と言った。
「なかには読んだあと、燃やしたものもあるんですよ。よほどの機密だからって」
「いったい何年ものあいだ──文通を」
「携帯のメールが使えるほど、うちの人は器用じゃありませんでしたからねえ。それでもいつか、互いの大切な人が見つかることを願って、せめてここの繋がりを途絶えないようにって。たぶん、願掛けもあったんでしょう。もうずっとです」
「…………」
杉崎はうなだれた。
叶わなかった自身の帰還を、親以外にこれほど願われていたことに胸が詰まったようだった。案の定、彼の瞳からは涙がこぼれる。もう慣れた。
成増が三つ指を畳についた。
「ご内儀、この手紙──すこしのあいだお預かりしてもよろしいですか。必ず近いうちにお返しにあがります」
「よかったらもらってどうぞ。もう、読み返す宍倉はいませんから──」
「ありがとうございます」
父は畳に額をつけた。
それからはしばらく、宍倉のアルバムから手がかりになりそうなものを探した。写真には一枚一枚、律儀に状況説明の一文が書かれている。
途中、成増がお手洗いに立ったときのこと。
アルバムをめくる父の手が止まった。
「……これは」
「あらぁ、なにかしら。やあね主人が写ってない写真なのに、後生大事に──」
ひどく不鮮明な写真に写る、白衣の男たち。
感情を押し殺した顔で一同はカメラを睨むように立ち並ぶ。背景には『特別細菌研究室』という垂れ幕と、中心で肩を寄せ合うふたりの男──。
ひとりは、父曰く一文字社創業者である一文字正蔵らしい。しかし、正蔵が一方的に肩を組むもうひとりの男は、だれだ?
裏面を見る。
私のところからは見えなかったが、こちらにも宍倉の字で説明が書かれていたのだろう。父はハッと息を呑んだ。
「親父──?」
「すみません、戻りました」
と成増が戻ってきても、杉崎が湯呑みを倒して茶をこぼしても、父は身じろぎひとつしなかった。
宍倉家を辞したのは昼過ぎのこと。老婦人は最後までおだやかにわらっていた。
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