第32話 家族
この町は、干物が焼けたようなにおいがする。
「腹のすく匂いだよな」
菅野は上機嫌にかまぼこ──支払いはロイのポケットマネーから──を掲げると、響とエマも「おなかが減った」と同調した。視線の圧がすごいので、仕方なくそのあたりで目に留まった鰻屋へ。
ロイがこそりとつぶやく。
「わるいけどオレ金ないぜ」
「大丈夫よ。倉田のおじさまがくれた魔法のカードがあるわ」
「文彦くん様々だね──」
エマと成増が顔を見合わせ、わらう。
一行が席につき、メニューに視線をおとしたところで響が「あっちの話」と天井を仰いだ。
「やっぱり気にならぁな。よっぽどわるい話なんですか」
「いや、別に。面倒くさい家の話ってだけ」
「ロイだけが知ってるなんて不公平だわ。私たちが聞いてもいい話なら、おしえて」
エマが真剣な顔つきで詰め寄る。
そのことばを受けて、これまでメニューにかじりついていた菅野が「そうだそうだ」と同調する。
ロイは肩をすくめた。
※
──絶対に小田原へ連れて行く、これだけは譲れねえんだ。
一週間前、倉田真司は頑としてそう言った。
彼が杉崎のみを連れ出して別行動となったわけはここにある。
「軍人のひとり、杉崎茂孝を小田原の実家へ連れて行く」──。
真司が頭を下げてまで通したこの願いには、倉田、杉崎両家の深い深い因縁によるものであった。
「この家の場所に、かつて杉崎家があったというのは、ご認識されているようですね」
倉田家の居間にて。
父──真司は卓を挟んで座る杉崎に問いかけた。私はすこし離れたところに座っていたのだが、なぜかひどく緊張したのをおぼえている。
「ああ、きのう和真が俺のために方々走り回って調べてくれた」
「和真」
「て、寺に行ったんだよ。うちの墓があるあそこ。そこに杉崎さんちの墓があるっていうから行って、名前見たり……あそこのおばあちゃんに話聞いたりしただけ」
「そう、か」
父はこっくりとうなずいた。
「お前が成人してから話そうと思ってたんだ。杉崎さんちの墓のことは」
「お金払ってること?」
「うん。……それもあるけど、どうしてそうなったのかも含めて」
父は、杉崎に視線を移してからぽつりぽつりと話しはじめた。
「うちの父が小田原の──しかもこの場所に家を建てたのはわざとなんです。杉崎さんのお父上が戦地で亡くなって、小田原空襲で妹さんも亡くなられて。多江さんがひとり残されたのを聞いたうちの父が、ここに家を建てて多江さんを引き取ったんです」
「…………」
杉崎は、黙ってうなずく。そこまではきのうの話を聞いた時点でなんとなく想像がついていた。
「当時多江さんのことを気にしていたのは井塚さんでした。井塚さんは元々父の上官で、父は途中で怪我をしてペリリューには行けませんでしたが、終戦後も井塚さんは父のことを気にかけてくださって。それで、見舞いに来るといつも「古い友人の母親が心配だ」とぼやいていたそうでした」
「────」
「ペリリューで杉崎さんと一緒になったから余計に気になったんだと思います。杉崎さんも井塚さんも、ぺ島で捕虜になったん……ですよね? でもなんでかそこから杉崎さんの消息がつかめなくなったんで、焦っていたんだと」
「おん。そりゃ井塚に悪いことしたな」
「で、井塚さんはそのあと一文字社に入社して杉崎さんの消息を知ったけれど、小田原にはそうそう来られる距離じゃなかった。それで相談された父が多江さんの保護を名乗り出たようで」
倉田文彦はよほど井塚のことを尊敬していたようである。
当時の文彦はまだ独身だったこともあり、二十三歳という歳の差はあれど多江を嫁として引き取ることも視野に入れていたようだった。とはいえ、いくら上官のためを思ってもそこまでするだろうかと疑問におもう。
昔、それを文彦に問うたところ、彼はどこか歯切れの悪い返事をしたことがあったという。その反応を見るに、どこかで多江に惚れていたのかもしれない、と父は語った。
「当時、多江さんはかなり断ったそうですが……父が強引に迎え入れたようです」
「はは。うちの母はかなりの強情っぱりだったのによくその申し出を受け入れたね」
「そうですね。ただまあ、うちの父もふた親はもう死んでいてひとりだったし。親子ほども歳が離れていますから、母性本能でもくすぐったんじゃないですか」
父が席を立つ。倉庫からアルバムを数冊持ってきた。
「……俺の父が母と見合い結婚することになったときは、姑の気分で嫁である母を可愛がってくれたようです。自分も、八歳くらいまで一緒に暮らしましたが──本当の孫みたいに可愛がってくれましたよ」
アルバムの中には、いくつも多江の写った写真があった。
家族旅行か、どこかの山頂で記念撮影した写真や、父──真司の入園式に行ったときの写真。その優し気な面差しは、年老いてはいるがまぎれもなく彼の母そのもので、杉崎の目頭がじわりと熱くなる。
「ほんとうならここに、杉崎さんがいるはずだったんですよね。杉崎さんが誰かと結婚して、子どもを作って、……こうして、本当の孫の入園式で写真を撮って──」
「…………」
父の声もふるえていた。
このときの多江はいったい、どんな心境だったのだろうか。幼い真司を見つめた多江の眼差しは、彼を通してなにを見たのか。
「うちの父は杉崎さんを起こしたら、まずはここに連れてこいと言っていました。必ず、必ずここに連れてきて、杉崎さんのお母さんがいた証、元気だった姿見せてやれと」
「…………」
「そして社の、いや……軍の愚行のため──こうした時間をあなたから奪ってしまったことを、詫びてくれと」
それが倉田文彦の遺言です、と。
父はその言葉をさいごに深々と頭を下げた。
うなじをぼうと見つめたまま、杉崎はなにも言わない。正直杉崎には『愚行』がどういうことかも、自分がなぜこんなことになっているのかもわかっていなかった。なにせ記憶がないのだ。よほど酷いことなのかもしれない。きっと、何事もなければ捕虜から解放されて本土へ帰還し、小田原で焼けた家を見て母と涙を流してから「さあ復興しよう!」と二人三脚で頑張ったかもしれない。
この写真のなか、多江を支えるようにして隣に立つのは、文彦ではなく自分だったかもしれない──。
でも、そんなものは結局起こりえなかったことだ。
あのときペリリュー島で捕虜となってから消えた記憶のなかで何かが起こり、いまこうして平成二十七年に目覚めた。
それがすべてである。
杉崎は父と同じように深く頭を下げた。父があわてて顔をあげる。
「す、杉崎さんなにを」
「万感の想いです」
「は?」
「……戦場で、二度と見ることはできないと思った母の笑顔──こうしてまた見ることが出来て、俺は果報者です」
本当にありがとう、という杉崎に、父はとうとう涙をこぼした。
「やめ、やめてください。ほんとうに──貴方の人生を奪ってしまったんだと父は悔やんで」
「それはわからない。きっとそうなのかもしれないけど、でも俺はそれを知らない。あのままペリリューで死んでいたと思えば、いまこうしていることだって奇跡なんだ。俺はきのう、和真と会った時から『この時代で目覚めてよかった』と思ってるんです」
「…………」
「それに、あんたが泣くこたないや。謝っていたのはあくまでも文彦くんで、あんたは俺の母親に孫の可愛さを教えてくれた。あんたの母親もそうだ。素性の知れない者と同居することになるのを承知で結婚して、真司さんを生んでくれたんだ。俺には出来なかった。もしかしたら、生き残ったとしてもできなかったかもしれない。だからそれも含めて、ありがとうと」
杉崎の器が大きいのか。
それとも、およそ四十年と倉田家が背負ってきたこの重い枷が、それほどの重さじゃなかったとでもいうのか──。父は、呆然とした顔で杉崎を見つめる。
なあ真司さん、と杉崎は微笑した。
「もう気に病むのはよしてよ。うちの母だって、きっとここの生活が楽しかったはずなんだ。本気であんたの父親が、俺の母の身を案じてくれたことに変わりはないんだから。まして杉崎の墓まで守ってくれた──これ以上なにを望むことがありますか。もうこの件は、これで手打ちってことでいいじゃないか」
「…………」
杉崎は、満足そうに父の肩を叩く。
ただならぬ空気感から、緊張と不安によって目をそらしていた私はこのときようやく顔をあげることができた。くちびるを噛みしめてふたりを見つめる。
はは、と父がなみだをぬぐう。
「なんだい」
「四十年。四十年抱えてきたんです。あんまりに重くて苦しかった──それを、こんなにあっさり許されるたぁ、おかしくて」
「こんなことばがあんたにとっての免罪符となるなら、何度だって言ってやりますよ!」
「もうじゅうぶんです」
泣き笑いの顔で、父は急須に茶葉を淹れた。
そのまま台所からひとつの湯呑を持ってくる。
「これは──」
「多江さんが使っていた湯呑です。なんとなく、多江さんが亡くなってからは誰も使えなくて取っておいたんだけど」
「そうか、お母さん……そうかぁ」
杉崎は愛おしそうに湯呑を眺めてから、写真に視線を移す。
「母は、病気か何かで?」
「そうですね。なんだったかな──肺の病気だったと思います」
「そうか、あの母も病気には勝てなんだか」
アルバムの最後のページをめくる。
「あ」
アルバムの裏表紙についたポケットの中に、茶色く変色して端が少しだけ焦げている写真が一枚挟まっていた。出征前の杉崎と家族の姿。
「これ覚えてる」
出征前、杉崎父が珍しく贅沢をしようと家族四人で写真館に赴いたんだ、と。
椅子に堂々と腰かける杉崎と、その腕に抱えられた妹のうしろで両親が杉崎の肩に手を置く。杉崎はつぶやいた。
「父が、この貸衣装の蝶ネクタイを気に入ってさ。つけさせろって散々ごねたんだ。それでこんなのつけて──写真を撮った。焼き増しをもらって、俺も戦地に持っていってたんだ」
「へえ」
「この写真見ると思い出して笑えたもんだよ」
「…………」
「それ、多江さんが小田原空襲のときに瓦礫の下から掘り出したんですって」
父が茶を一口飲む。
「ああ、だから焦げているんだ」
「はい。多江さんは、それがないと夫や子どもの顔を忘れちゃうからさ、なんて冗談めかして言っていましたけど。いつも手帳に挟んで持ち歩いてましたよ」
「…………」
杉崎の瞳に、涙はなかった。
父のいれた茶を一気に飲み干して着物の帯を締めなおす。
それから、よし、と立ちあがり
「ふたりとも。俺たちも小田原城へと繰り出さないか」
朗らかにわらったのである。
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