第31話 小田原城散策

 翌朝六時五十分。

 ぶじ翌朝を自室のベッドで迎えた私は、昨日の出来事が現実かどうか確認すべく、そろりと客間へ向かった。


 居候の身で寝坊は出来ぬ、翌日の起床時間は七時マルナナマルマルだ、──と。


 就寝前、菅野はほかの軍人に宣言した。

 今のところ居間には誰ひとりいないが、さて起きているだろうかと客間への襖を微かに開ける。

「ひっ」

 途端、私の足が恐怖にすくんだ。

 ひとつの布団にきれいな寝姿を保ちねむる菅野を、すでに起床した三名が立って囲み、見下ろしている。

 むかしホラー映画で見た絵面だ。

「────お、」

 おはようございます。

 と声をかけようとしたが、気配を感じたのか杉崎が音もなく近付いてきて「しー」と指を口に当てた。

 いたずらを企てているらしい。

「なあ、ラッパ持ってないか」

「ラッパ……?」

「うん」

 と、うなずく杉崎のうしろから成増が「携帯電話ある?」と聞いてきた。たしか彼は一足先に目を覚まして、この数ヵ月のあいだ現代のことをたくさん学んだのだそうだ。携帯電話の存在を知っているのも当然である。

「な、なにすんの」

「起床ラッパ」

 と、響。

 ──起床ラッパとな。

 陸海両軍は起床時にラッパを鳴らしていたと聞いたことがある。

 どうやらこの発案は響らしく、

「菅野は海軍兵学校にて、嫌というほど起床ラッパを聞いては時間に追われた記憶がある。どれほど慌てるか見ものですね」

 という大人げないいたずら心によるものらしかった。

 私はさっそく携帯で検索をはじめる。

 海軍用の起床ラッパ動画を杉崎に見せた。もちろん、音を出しては気付かれるためイヤホンで聞かせてやる。

 杉崎は「おお」とつぶやいた。

「響さん、これですか海軍は」

「────あ。これだこれだ」

「陸軍とほぼ変わらんですな、とりあえずこれだ。成増さん!」

「しーッ」

 ぼそぼそと空気の抜けた声量で話す軍人たちがおかしくて、私はくっと笑う。操作を説明してから成増にもイヤホンで聞かせると、彼は瞳を輝かせて

「スゴいねこれ。借りるね」

 と嬉しそうに菅野の枕元に膝を寄せ、携帯を彼の耳元へ寄せた。


 みな、息を止めて成増の手元を見つめる。

 張り裂けそうな空気に、私まで緊張した。

 だれかの喉が鳴った音がして間もなく。


『パッパパッパパッパパッパパッパパッパパーッ』


 突如、起床ラッパの音が大音量で流れた。

 たちまち菅野の脳みそに響いたか、彼は目にも止まらぬ速さで飛び起きた。上衣を脱ぎ、枕元の着替えを手にとってズボンを脱ぎながらシャツを着る、という芸当まで。

 この時点で、響と杉崎は顔をひきつらせて腹を抑えている。

 寝ぼけ眼のままその動きを取っていた彼の目が、だんだん、だんだんと見開かれ、軍服のズボンに両足を突っ込んだところで動きを止めた。

「────」

 周囲を見渡す。

 まわりの軍人たちのニヤニヤ顔を見て「ああっ」とつぶやき、布団にばたりと倒れ込んだ。

「ブハハハハッ」

「よう、お早う──見事な起床だ」

 杉崎の盛大な笑い声にはじまり、響のニヒルな笑みを含んだ姿に、菅野はだらりと布団に身を投げたまま「ちょっと……もう」と声を詰まらせる。

 響は笑いをこらえた。

「貴様があれだけ偉そうに七時マルナナマルマルだと言っておきながらぐーすか寝ていやがるからですよ」

「ま、まだ〇六五八マルロクゴーハチじゃないすかッ」

「ひとりで布団を使いすぎだよ、ナオさん」

「杉さんだって夜中丸ごと剥いでいったくせにッ」

 菅野はわめき、シャツと履きかけたズボンをふたたび脱いで、パンツ一丁で布団をたたむ。

 それにつられて一斉に毛布やら枕やらを手に取る軍人に、私はわらいながら「朝飯、パンでいいすよね」と聞いた。たちまち機嫌の治った菅野がさけぶ。

「久しぶりのパンだ!」

「ようナオさん、食事ラッパいるか」

「いらんッ」

 杉崎は、よほど楽しかったようである。


 ちなみにあとで知ったことだが、食事ラッパのメロディはおなじみ正露丸のコマーシャルで流れる音楽であるらしい。

 動画サイトで発見、 大音量で流すと菅野や響の腹がぐう、と鳴る。

 菅野曰く「兵学校時代はその音を聞いたら飯の時間になったから」とのことで、彼らは眉を下げて恥ずかしそうにわらっていた。


 朝食の頃、父と保坂兄妹も起きてきた。

 朝食時に起床ラッパの件を話すと、ロイとエマは大笑い。父はその場にいなかったことを大いに悔しがった。

「ちきしょう、俺も七時前に起きりゃぁよかった」

 バスケットに盛られたパンを手に取る。

 杉崎は、宝物を取り扱うかのようにパンを目線まで持ち上げ、香りを腹の底まで味わう。

「──朝起きてふつうに飯が出てくるなんて、これほど嬉しいことはないな」

「ほんとう、いい時代だねェ」

 菅野も朗らかに笑う。

 響や成増は、すでに起きてから数ヵ月と経っているから、この境地は乗り越えているはずだが、ふたりの反応を見ればあらためて「ウン」と満足げに唸った。

 しばしののち、父が箸を置いた。

「杉崎さんと和真は、今日ちょっと話があるからそのつもりでな。あとの人たちは──保坂兄妹が小田原城連れて行ってくれるそうだけど、どうします」

「は?」ロイは眉を潜めた。

「わたし、小田原城初めて。やったー!」

 無邪気なものだ。

 エマのよろこびようを見て、菅野は即座にうなずいた。

「いいね、おれ行きたい」

「いい気分転換になるな」

「マジかよ──」

 と、海軍組のことばにイヤな顔をするロイ。

 いいじゃない、と成増はにっこりわらった。

「僕も小田原城は初めてだし」

「……────」

 あとで聞いたことだが、軍人を町中に連れ出すのは、それはそれは大変なことらしい。まして明らかに落ち着きのなさそうな菅野までいるとなれば、不安でしかない。

 杉崎は、

「いいなぁ!」

 と叫んだが、そのあとに合流すればいいじゃないか、という父の提案にころりと乗せられた。

 そうと決まれば、とみな一斉に飯をかっこみ「支度をせねば」と立ち上がる。

 成増と響はすでに洋装の出で立ちだが、菅野はつなぎの飛行服なのだ。

「和真、菅野くんに服かしてやれよ。まさか飛行服のままってわけにもいくめえ」

「うん」

 すると、エマがいきおいよく手をあげた。

「じゃあわたしが菅野さんに見繕ってあげるッ」

「えっ、えー。いいのかい」

 菅野はカッと頬を染めた。

 もちろんよ、と力強くうなずく。

「サイズ的には和真くんのでも入るわね。いっしょに服見せて!」

「え、あ、は、はい」

「あーっ。いいなぁ、エマくん俺のも見繕ってくれよ」

 と、杉崎が眉を下げる。

「杉崎さんは和真くんのじゃサイズが合わないわよ。その着物とっても素敵だからそのままでいいとおもうわ」

「あ、そ、そう?」

「へっ。杉さん、鼻の下が伸びてるぜ」

「貴様に言われたかぁ、ない」

 杉崎のことばに、エマを除く一同は深くうなずいた。


 ※

 東海道の要塞、小田原城。

 現在見られる天守閣は、昭和三十五年に再建されたものである。城址公園内は多くの観光客であふれ、本丸にはサル舎まで存在している。

 ちょうど耐震補強工事が始まったばかりで天守閣は見られないとのことだったが、特別に銅門あかがねもんが公開されているらしい。

 エマのコーディネートにより、白地のTシャツにジーパンという、ラフながらもパリッと決まった菅野が「見たい」と言った。

 ここから先は、私が後日聞いた話である。


 宮城県出身で、学生時代に海軍兵学校に入ったという菅野は当然、小田原に来るのは初めてだったという。初の小田原城に興奮したようすで、城址公園内を隅から隅まで歩き回った。

 伝え聞く豪胆さからは想像できないが、文学を愛したという彼。歴史ロマンにも興味があったのだろう。

「すげえじゃん──」

「あれで軟派だってんだから笑えますな。……ロイくん」

 と、響が真剣な目をした。

「ん?」

「いま杉崎たちが話していることについて知っていますか」

「…………ああ、倉田さんからは粗方」

「おれたちは聞いたらまずいことだと?」

「いや──ただ、あの場にみんながいても退屈するような話ってだけじゃないの。聞くかぎりは、隠すようなことでもなかったし」

「まあ、ずいぶん杉崎に固執してるようだったから、なにかしらあるのだろうとはおもってましたが」

 ね、と響は成増に同意を求めた。

「和真くんを加えたということは、家に関することなんでしょう。言いにくいのも無理ないです」

「そういうもんですか」

 ふたりは、銅門前でおのれの世界に浸る菅野に寄っていく。城址公園内をぶらぶらと歩きまわるその様は、大層目立った。

 まず、響の見目は麗しい。

 おそらく世の八割がそう言うだろう。さながら昭和の銀幕スター、高田稔のごとき麗人である。

 成増は成増で、すれ違った老婦人に「岡田時彦だわ」と声をかけられ、菅野はその気性に似つかわしくない、かわいらしく垂れた目尻が坂東妻三郎をおもわせる。

 エマはくすっとわらった。

「全員、昭和の名俳優だわね」

「だから嫌だったんだよ、この人たちと歩くの」

 ロイがぼやく。

 そばに寄るのも嫌なので少し離れたところから監視する。と、菅野が大股で近付いてきた。

「なあ、おれ腹減ったよ。天守閣にも上がれないみたいだし。小田原といや鈴廣さんだ、行こう」

「え」

「そんなところで哀愁に浸るもんじゃないぜ。あんたら兄妹の顔は誰よりも目立つんだから、おれたちにしっかりとついて来てくれなくちゃァ」

「…………」

 兄妹は閉口した。

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