杉崎茂孝
第30話 倉田親子
私の父は、昔から連絡不精であった。
年が十近くも違う母に毎度怒られ、毎度反省するのに、一週間経てばもう元どおり。父の知らぬところで私が母にフォローしたことも一度や二度ではない。
あの八月の暑い日。
三名の軍人を引き連れてやってきた父は、またわるい癖を発動させて、私を混乱に陥れた。
「おまえどこで拾ってきた」
と。
追加の夕飯をつくる私の横で、父はこっそりささやいた。拾ってきたというのは杉崎茂孝のことだろうか。ウメさんの駄菓子屋だけど、と答えると彼はああっと額を押さえる。
「やっぱりあの時だ、おかしいとおもったよ。ったく、日向ぼっこさせていたのに勝手に持っていったらびっくりするじゃねえか」
「や、知らんしそんな──犬猫じゃあるまいし。大体、あんな恰好で外に放置してたら熱中症で死ぬだろ」
「……熱中症にならねえように帽子かぶせていたろ」
「鉄の帽子なんか熱がこもって余計酷いし! 人命かかってんだから考えろよ。しかもあとの三人も軍人ってマジでどういうことなの──」
なんて。
いつになく反抗的だったのは、私の頭では追いつかないことがたて続けに起こったからだが、父はそれを自分への批難と取ったらしい。
ごめん、としおらしく落ち込んでしまった。
フォローをする気にもなれず、私は黙々と豚肉を炒める。
うわすげえ、と背後で声がした。
「この匂い腹減るわ」
父とともにやってきたハーフの男。まだ名前すら知らないが、彼はシンクにたまった調理器具を手早く洗ってくれた。
「わるいね。和真クン──だっけ」
「え」
「保坂ロイ。キミの親父の部下で……あ、平成の人間ですよ」
「あ、は……どうも。倉田和真ス」
換気扇の音に紛れるほどちいさな声だったとおもう。が、ロイと名乗った男は端整な顔をほころばせてうなずいた。それから父を見て、にやりとわらう。
「やっぱ全然大丈夫じゃないじゃん、倉田さん」
「息子にこっぴどく叱られる日がくるたぁな」
と、父が人数分の味噌汁をよそる。
台所への暖簾を押し上げて、ロイによく似た女の子が入ってきた。
「運ぶの手伝うわ」
彼女は、ロイの妹でエマといった。
菅野と杉崎のテンションは最高潮であった。
運ばれた白飯や味噌汁、そして当時の私が唯一得意料理とした
なんとも気恥ずかしい。
「大層なもんじゃなくてわるいけど──」
「謙遜すんなよ。あのふたり、きっと回鍋肉なんざ食ったことないぜ」
と、ロイは薄いくちびるで弧を描く。
適度な距離が良かったのか、あるいはすべてにおいて端整だったからか。彼に対してすっかりなつく自分がいた。
あとから聞いたことだが、彼もこの日は朝から緊張の連続だったようで、私の抜けた顔と大蒜の匂いでようやく満足に呼吸が出来たのだとか。おかげでこのとき、たしかに彼は上機嫌だった。
早いとこ片して、と彼は中華鍋を手早く洗う。
「いっしょに飯食おう」
「はい」
────。
杉崎と菅野は、茶碗で乾杯をする。
キラキラ光る米粒をじっくりと見つめて、杉崎がごくりと喉をならした。
「綺麗な白飯だなァ。こんなもん食ったら胃がひっくり返っちまうぜ。まったく、これから飯だってときにアンタたちが来たんで、俺ァずっとおあずけだったんですよ。はぁ腹へった!」
味わって食べよう、と幸せそうに一口を噛みしめる。対極的なのは菅野だった。おかずをたらふく口に含みながら、掃除機のごとく飯をかっこみ、三分も経たぬうちに茶碗を差し出してきたのだ。
「おかわり!」
「早」
「はっは。戦場じゃあ飯食うのが遅いやつほどすぐ死ぬんだよ。ねえ響さん」
菅野がにっかとわらう。
対して、きれいな所作で飯を頬張る男は、しっかりと呑み込んでからうっそりと微笑んだ。
「なにが戦場か。さっき外を見たろう、どこもかしこも綺麗なもんです。そうだ──一応、響銀也海軍大佐だ」
「あ、や、どうも!」
杉崎はあわてて頭を下げた。
緊張しなくていいよ、と菅野がわらう。
「あんた杉崎さんだったな。おれも似たようなもんで、戦中の記憶はあるから響さんのことは覚えていたが……ほかがさっぱりだけど、どうやらおれたち知り合いだったみたいだから」
「そうらしいなあ。ええと」
「菅野直。海軍大尉で、三四三空のパイロットをやってた」
「どうも。杉崎茂孝、陸軍軍曹で最後の方はぺ島守備隊だったよ」
「杉崎くん」成増が口を挟む。「君は戦後、異例の三階級特進を受けているよ」
「なんだって、三階級?」
「最終階級は少尉だ」
「俺が少尉──はは、せめてもの親孝行ができたか。なあ和真!」
唐突にリアクションを求められ、私はあわてて飯を呑み込んだ。たいして咀嚼しないまま喉をとおった飯が食道でまごつく。胸を叩いてうなずいた。
「よかったすね」
「初めて米兵の群れに擲弾筒をぶち込んだときくらい嬉しい」
生々しい例が出てきた。
てきだんとうってなあに、とエマがロイに目を向ける。そんなもん知らん、とロイが飯を口に放り込んだ。
兄妹の視線が倉田真司に向けられる。
父は苦笑した。
「擲弾筒ってのは、グレネードランチャーのことだ。拳銃より威力の強い迫撃砲だな」
「ふうん。それを敵に当てたの?」
スゴいね、とよくわかってなさそうなエマが杉崎に笑みを向ける。無邪気でかわいらしいほほえみに照れたらしい。杉崎はへへっと鼻の下を指でこする(なんて昭和的なリアクションだろう)。
「一時だけな。すぐにばかでかい装甲車で一掃されたよ。はは」
「まあ、よく無事で──」
「むかしから悪運は強かったんだ」
「悪運だけじゃないだろうね。研究所にいたときから、アンガウルの舩坂とペリリューの杉崎は何をやっても死にゃしねえと聞いてましたよ」とは、成増。
「わはは、舩坂くんはともかく俺は単なる死に損ねですよ。受けた弾すべてがうまいところに入っただけで」
舩坂、とはアンガウル島守備隊員として上陸し、致命傷を幾つもその身体に刻みつつ死線をくぐり抜けた、ア島守備隊の数少ない生き残り──舩坂弘のことであった。彼が挙げた戦績はすさまじく、個人名で『戦史叢書』に記載されるほどで、戦後に慰霊団を組織するなどの精力的な活動から『生きている英霊』として現代でも称揚されている。
しかし私は異を唱えたい。
眉をしかめて杉崎の足を覗き込む。
「いや、杉崎さんも十分スゴイよ──そんな傷ふつうなら死ぬって」
「そうかなあ」
「そうだよ」
あらためて見れば、痛々しい傷跡ばかり。
右の太腿には盲管銃創の痕があり、ふくらはぎに目を移せば貫通銃創の痕。ため息しかでない。
わあ、とエマも無遠慮にその傷痕に触れた。
「どうしてこんなに銃弾が……」
「さすがにこんなだから、右足はもう無いものと思っていたよ。いやあ、よく生きてたもんだ──やっぱり人間、気力だな」
(気力にも限度があるよ)
と、口からでかかった言葉を白飯とともに飲み込む。代わりに「なんでか」とつぶやいたのは、茶碗を卓に置く響だった。
「戦争ってのはある種、超人が生まれる場所でしたね」
「あっ、俺の学友はすごかったですよ」と杉崎は大きくうなずく。
「同じ陸軍に行った学友で、井塚という男がいたんですがね」
「…………」
途端、父と保坂兄妹がハッと息を呑んだ。
杉崎はその視線に気付かない。
「あいつはすさまじい狙撃の腕を見せて、『
「敵に回したくはないな」
と、響が呑気に漬物を食べる。
私もなにごとかを返そうと口を開いたとき、父が卓に箸を叩きつけるように置いて「和真!」と立ち上がった。
「えっ?!」
「うち、布団何組あったっけ」
「し、親戚用の布団があったと思う。多分四組くらいは──」
「そんなにあったか。七人泊めようとおもえば泊められるな?」
「え、み、みんなうちに泊まるの?」
エマさんも、ということばは出なかった。
当時の青臭くシャイなガキには、これほどの美人が家に泊まるという事実はおろか、名前を呼ぶことすら恐怖であった。
「あたりきよ。客間に布団三組くらい敷けば雑魚寝できるな、軍人の皆さんはそれでいいかい」
「七十年も寝といてなんだが、ふしぎなもんで飯を食うと眠くならぁ──なんでもいいよ」と、あくびを噛み殺す菅野。
「親父と、保坂──えっとそちらのふたりは」
「イヤじゃなけりゃあ兄妹で一組の布団使ってくれ。俺は毛布かなんか敷くから。よし、決まり。ちょっと和真これ片付けるの手伝ってくれ」
と、父は空いた皿を重ねて台所に持っていく。なにか話があるのだな──と子どもながらに察して、あとを追った。
※
父がスポンジで皿汚れをぬぐう。私はその皿を水で流すポジションだった。親子で肩を並べて洗い物をするのは初めてかもしれない。
私を呼んだわりに、父はむっつりと黙りこくっている。ので、話は私から切り出した。
「メシ食ったら、親父に電話しようと思っていたところだったから、マジでびっくりしたよ」
「んん。いろいろ心細かったろ、わるかったなあ」
「それもそうなんだけどさ。杉崎さんの実家のこととか、墓とか、その──杉崎さんのお母さんの話も。いろいろ聞いたんだよおれ」
「…………」
父は驚いたような顔をした。
引っ込み思案だった私が、他人のためにいろいろと手を尽くしたことが意外だったのだろう。
後日、父は言った。
本当ならばこの日、四名の軍人について「会社の人だ」と紹介するつもりだったこと。私には何も知らせぬまますべてを終わらせたかった、とも。
自分が私と同じころに父親から話を聞き、大層やるせなくなったからこそ、同じ轍は踏ませまいと考えていたのだろう。
このときの、一瞬見せた父の悲痛な顔たるや。いまでもこの目に焼き付いている。
「そう、そうか。……ごめんな和真」
「え──なに、いいよ別に」
「いや」
つぎに見たときは、すっかり笑顔にもどった父である。自身の手をタオルで拭きながら「引っ越して、どうだ」と明るい声で言った。
「うん……よかったよ。友達もできたし」
「そうか。ここの家もおばあちゃんが死んで誰も住まなくなるところだったろう。そんときにお前が住むことになって、正直ホッとしてたんだ」
「なんで?」
「誰も住まなくなると、すぐにダメになるからな。家もけっこう繊細なんだぜ」
「家。……」
と、声に出しかけたことばをとどめ、私はシンクを洗うことに集中した。『家』という言葉によぎる影。知りたいことはたくさんあったけれど、父が話すまでは聞かないでおこうとおもった。
その心意気を、父は理解したらしい。私の髪をぐしゃぐしゃと撫でまわし「布団を敷いてくる」と台所から逃げるように立ち去った。
その夜。
布団にくるまって考える。
もしも、もしもだ。
次に起きたとき七十年後だったら──?
父も母も、ようやくできた高校の友だちもいない、私のよりどころとなるこの家すらもどこぞの知らぬだれかに上書きされて、たったひとりぼっち取り残されたなら。
(死ぬよりずっと地獄だ)
どうか明日がちゃんと来ますように。
じめついた空気に寝がえりを打ちながら、ぎゅっと目をつぶった。
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