第23話 記憶

「空の旅なら、アイツこそよろこんだろうに」

 とは。

 飛行機が高度三万フィートに到達した頃、窓から外の景色を眺める響がポツリと言ったことばである。エマが『アイツ』について尋ねると、おかしなことに響も不可解な顔をして一瞬考え込んだ。

「さて、なんとなく口をついて出ちまいました。アイツってだれのことだっけな」

「変なの……同期生に空が好きな人でもいたの?」

「いや──同期じゃない。もっと若くて勢いのある、……なんだここまで出かかってるのに。気持ち悪ィなあ」

「響さんのなか、四ヶ月間も消えた記憶があるんでしょう。もしかしてそこで知り合った人じゃない? ねえロイ」

 ひょこりとエマがうしろの席を覗く。響とエマの席うしろにはロイがひとりで座っているのである。幸運なことにこの便で宮崎空港へ向かう客は少ないらしい。

 そうだな、とロイはつぶやき考えた。

(四ヶ月間の記憶──)

 響を起こしてからというもの、成増は一般棟の地下研究室にこもってワクチン製造に明け暮れている。しかし、倉田とロイが請け負った母体特定に関しては一向に調査が進まずにいた。

 母体に関する手がかりがなにひとつないのである。

 これまで、すべて成増の記憶ひとつに頼ってきたこの案件だが、彼はその特定を井塚に託したうえで入眠した。つまり、そもそも母体とおぼしき人物を特定する材料を彼が持っているわけもない、ということだ。

 ならば、成増以外の軍人がなにか知っている可能性はどうだろう。

 現に、成増の記憶が直前まで残っていたにも関わらず、響がぽっかりと記憶を失っているのもおかしな話だ。もしかすると母体と呼ばれる存在が、意図的に記憶を消した可能性も──。

「……いや、まさかな」

 ひとり苦笑する。が、しかしこれまでに起こっていることすら、すでに『まさか』なことばかりなのだ。

 ロイは声をひそめて響を呼んだ。

「なにか」

「エマの言うとおり、それが響さんの記憶の断片って可能性があります。今後、思い出していく記憶のなかに重要なこともあるかもしれない」

「なるほど」

「だから、今後またなにか思い出したら──小さなことでもいい。オレか倉田さんに教えてください」

 かならず、と念を押すと、響は困ったように眉を下げ、

「荷が重いな」

 と口角をあげた。


 ※

 まるで呼ばれたような出逢いだった。


「響とちがうかぁ」

 空港からレンタカーを借りて高千穂へ移動。その後、軽食をとるために駐車場へ車を止めた矢先のことであった。

 老いさらばえてしわくちゃになった男性が、目をかっぴらいて叫んだのである。その痩躯から出たとはおもえぬはっきりとした声に、周囲はピリリと空気が張りつめた。

 エマが困惑した顔で響と老人を見比べる。

 ロイの鼓動が速くなる。こんなことって、あるか。響さん──と声を出そうにも、この場の緊張感がすさまじく、喉が塞がったように声は口内にとどまった。

 そのとき、背後の病院から出てきた老婦人があわてて駆けてくる。おとうさん、と叫ぶところを見ると、どうやら老人の家族のようだ。

「やだ、ごめんなさいね。この人最近ボケてきとって」

「ボケとるもんかァ。貴様の顔ばぁ忘れやせんぞ、ハァ。いやそげんしても、色男ちゅうは年食ってもなんも変わらんと──」

「ほらおじいちゃんもうええでしょ、人違いや。ほんまにごめんなさいねえ」

 と、老婦人。

 半ば強引に老人を車へ押し込もうとしたとき、響が颯爽と近寄って古老の手をとった。

「……いや、人違いでもない。貴様、田﨑やな」

「えっ」

「鼻横のでけえほくろがそんままや、すぐ分かった。なあ田﨑よ」

「あ、ああ────ほうよ、田﨑よ。貴様の同期の田﨑勉たさきつとむよ!」

「おうおう。田﨑のがなしてここにおる。貴様、高千穂やなかとやろうが」

「なんもぉ、そらァこん嫁がよ。老々介護しちゃるけんこっち来いちゅうて──次男の嫁ばってん、口うるそうてかなわん」

「出来た嫁が来て良かったやんけ。貴様のような偏屈、そうそう見れんぞ」

 くっくっ、と肩を揺らす響。

 楽しそうに会話をするあいだ、彼はずっと田﨑翁の手を握り続けていた。病院への送迎のために来たのだろう老婦人は、困ったように響と保坂兄妹を見比べる。

 その視線でようやく我に返ったロイ。

 すみません、と老婦人へ頭を下げる。

「……あの、自分ら東京から来たんですが──この、響さんという方の縁者を探してまして。かつてこの高千穂町に住んでいたのは間違いないそうなんですが、如何せんその情報が七十年以上も昔なもので」

「あらまあそうだったですか。お義父さんったら、お友達の子孫の方と間違えてんのけ。ほんでもよう田﨑やて分かりましたね」

「来る前に写真を見たんです。田﨑さんはちょっと、その。目立ってたから──」

 と、エマが誤魔化した。

 しばらく昔話に花を咲かせていた響も、ようやくかがめていた腰をあげる。老婦人を見てピッと凛々しく敬礼をした。

「響と申します。申し訳ないが、すこしこの田﨑翁と話す時間をいただけませんか。場所や時間はご婦人の都合に合わせますから」

「あ、はぁ──」

「おいケイコさんよ、老いぼれじじいの冥土の土産とおもって。ええやろ」

「やぁだ、お義父さんは当分死にゃせんでしょうよ。でもまあ、べつに私がなんとか言うことでもないですし。今日はこれからもう一軒病院行かなあかんけん無理やけど、あしたとかお時間大丈夫なら」

「結構です」

 ロイは即答した。

 その後、時間と場所の指定は家に戻ってからというご婦人に同意し、エマが連絡先を交換した。響と田崎は互いにひどく名残惜し気だったけれど、明日にかならず──と固く約束を交わして別れを告げた。

 明日の十時に高千穂神社境内で、と。

 ご婦人から連絡がきたのは、昼ごろのことである。


 ────。

「どこにもねえ」

 倉田真司はうなだれる。

 東南東小島一般棟ロビーにて、アイボリー色のファブリックソファに深く腰かけた真司の向かいに、帽子をかぶった成増が座っている。

 とはいえ、と冷静な声でつぶやいた。

「文彦さんはたしかに作っていたんですよね」

「おそらく」

 無論、ワクチンのことである。

 この島に父が赴任していた数十年のなかで、彼は、危険を冒してまで焼却対象の感染者から細菌サンプルを採っては、ワクチン製造を続けていたと見られる。

 その事実は、恒明に聞くまで知らなかったが、この一般棟をよくよく知れば痕跡はわずかに残っていた。父について聞き込みをするなかで、この島に赴任して六年目になる職員が教えてくれたのである。

「一般棟地下に常務専用の研究室がありました」

 と。

 一般棟に地下があったのか、というおどろきとともに、あわてて確認に向かう。が、中はまったくのがらんどう。

 研究していた形跡は跡形もなく、ほかの職員も研究室とは名ばかりの、ただの応接室だという認識だったようだ。

 しかし、実の息子である真司には分かった。

 ここで父はワクチン製造をしていた。死期を悟り、一文字家に知られぬよう生前整理をおこなったようだが……父のことだ。かならず、息子の自分がすぐに気付ける場所に開発データを遺したに違いない。

 違いないハズなのに。

「──あの真面目偏屈が隠しそうなところといったら、ほかにどこだ」

「まあ、そう焦っても仕方ないでしょう。焦っていると見えてるものも見えなくなりますから」

「だけど、成増さんを起こしたってのに……いまだにワクチンも、母体だって特定できてない。七十年前の情報が少なすぎるんだ──」

 と、真司が頭を抱えたときである。

 あのう──と遠慮がちな声がした。倉敷ぼたんである。

 彼女は成増と真司を交互に見て、手元のおぼんに載せたふたつの珈琲カップをウッドテーブルに置いた。

「どうぞ、よかったら。管理人室の珈琲なんです」

「ああ──ありがとう。わるいね」

「いえ、その。こんなに深刻そうな倉田さん見たことなかったから、おもわず。えっと……そちらは?」

 と、ぼたんが成増に視線を移す。

 本社の人間だよ、と真司は適当に答えた。それに合わせるように「本社の成増です」と軽く会釈をする。

 ぼたんは「へえ!」とわらって、成増の右手を両手で包んだ。

「ここの管理人の倉敷ぼたんです。成増、さんはしばらく滞在なさるんですか?」

「いや──ああ、そうですね。今日は倉田さんのところにお邪魔して、明日の朝の定期便で戻ります」

「そうですか」

「そういやぼたんちゃん、最近の定期便船頭って小此木じゃないよな。アイツ辞めたとか聞いてない?」

 一般棟管理人であるぼたんは、入港時に船頭からサインをもらう役目も請け負っているらしい。元来、小此木は女好きだ。なにかしら会話をしていた可能性はあるとおもっての質問だった。

 が、ぼたんは眉を下げて「さあ」とつぶやく。

「わたしも最近お見かけしないなあって思ってたんですけど、小此木さん辞めちゃったんでしょうか」

「ああ──君にも言ってないか。いや、辞めたかどうか俺にも話が来てないんで、気になってさ」

「倉田さんがお聞きじゃないなら、わたしなんかもっと知りませんよう! お元気にやってくださってるならいいんですけれどね」

「そうか、悪かったね引き留めて」

「いいえェ。どうぞごゆっくり──あ、それ飲んだらそこ置いておいてくださいね」

「ありがとう」

「いただきます」

 と、成増がさっそく珈琲を飲む。

 ぼたんが管理人室へと去ったのを見届けて、ちらと真司に目を向けた。

「彼女はもう長いんですか」

「いや、ロイくんより一ヶ月早いくらいですよ。人懐っこい子なんですぐ打ち解けましたけどね」

 そうですか、とわらって成増がふと立ち上がったときである。彼が盛大によろけて倒れた。真司が飲もうとした珈琲カップが床にころがる。真白なタイルに黒い水たまりができた。

 どうした、とあわてて成増を起こすと、彼は顔を歪めてこめかみを抑えている。

「成増さん!」

「だ、大丈夫──大丈夫です。頭が痛い、だけなので」

「なにが大丈夫なもんかよ。冬眠の後遺症かな……とにかく一度うちに戻りましょう。今日はゆっくり休んでください」

「す、すみません。たまにあるんです」

 頭痛、と力なくつぶやくのをさいごに、成増は気を失った。

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