第24話 御守り
面倒見たのはワシやねえど、と。
朝の陽光を背に、高千穂神社社殿礎石に腰かけた田﨑が言った。
それを聞くのは響とエマである。
ロイは近くの立ち木に寄りかかってそのようすを見守っていた。
「初めに言っとくとだな、貴様の妻子を見てやったのはワシじゃねえ。貴様が大和と共に沈んだと一報が入ったのは、終戦なるすこし前だったらしいが──幸いに響の親父どのもご内儀もぴんしゃんしとったけん、ふたりが実の娘みてえに面倒見てやったそうだぞ」
「…………」
「そのおかげか──フローレンスさんは終戦迎えて間もなく、女の子を産んだそうだった」
エマは息を詰まらせ、響の腕を掴む。
彼もまたくちびるをふるわせた。
「う、まれたのか」
「おうとも。ワシも赤子の頃に会いに行ったことがあるが、そらぁもうめんこくってよ。貴様がよう描いておった天使の絵にようく似とったよ」
「そう、……そうか」
響がわずかにうつむく。
涙をこらえているのだろうが、立ち木の影から遠目に眺めるロイにはその表情はうかがえない。けれど、となりに座るエマがくしゃくしゃに顔を歪めて、涙をこらえる顔を見たらなんとなく想像はできた。
フローレンスさんも、と田﨑がしわくちゃの手を擦り合わせる。
「こげな田舎町やけん、苦労はあったろうがよ。ほんでもワシが見た限りじゃあ幸せそうな顔をしとったよ」
「まだ、生きておるか分かるかね」
響が遠慮がちに問いかける。
田﨑は言いにくそうに口を歪めた。
「いや。その、フローレンスさんは──それからしばらくして病気で死んじまった。産後からどうも具合わるくって養生しとったみたいやの」
「なんてこと──」
エマは口元を抑えて、田﨑の手を握る。
「それじゃあ女の子は? 娘さんはどうなったの」
「あの
「年賀状?」
エマはワッと身を乗り出した。
つまり娘はまだ生きている、ということではないのか。そう問いかけると、田﨑はボケッとした顔で響とエマを見比べてから「はあ」とつぶやく。直後、パッと顔をあげて大きな声をあげた。
「おういケイコさんよう」
「やぁだお義父さん、そげん大き声ば出さんでも聞こえるわよ!」
「おい、あのよ。ナデシコさんちゅうは、施設入ったよな。あれ。あのー、なんちゅうたら」
「ナデシコさん? ああ。ええあの、特養やろ。脳卒中やってからなんも喋られんくなってさ」
「おめえそれよ、こん人ら連れてっちゃあげられんね」
「え?」
と、エマが立ち上がる。
響の手はわずかにふるえ、立ち木に寄りかかっていたロイも、おもわず身を起こして近寄った。
それは、と出した声がおもったよりも大きくなる。
「そうしていただけると是非──助かるんですが!」
「そんならナデシコさんのご家族に言わんと」
「おめさんが一緒やったらええじゃろが。友だち連れてきたちゅうて……どうせいつもそうしとんやろ」
「まあそうですね。ほんなら息子さんにはこっちから軽く言うときますから、行きましょうか。車やったらそう遠くなかけんね」
「ご婦人!」
響が立ち上がった。
手も、肩も、くちびるも震わせて、彼はひどく情けない顔だけれど、それでも敬礼した指先はピッと凛々しく伸びていた。
「恩に着ます。ありがとう──」
「そんな顔されちゃ、断れんわねえ」
ケイコは、頬を染めた。
※
『特別養護老人ホーム
役場から車でおよそ二十分ほど走らせた場所に、その建物はあるという。助手席に座るエマが田舎町の風景に感嘆のため息をこぼすなか、後部座席には三人の老若男が詰められている。
響よう、と田﨑は言った。
「うん」
「貴様、大和と共に沈んだとちがうんか」
「…………」
「まだ盆にゃ早ェぞ──せっかちめ」
「幽霊じゃねえよ。勝手に殺すな」
「いやさ、近ごろよう夢に迎えが来るもんで。おめえもそうなんかと思っちまったよ」
「なんだ。同期でも来たか」
と響が口角をあげる。
しかし田﨑はむっとくちびるを尖らせて、瞳をしょぼしょぼとまばたきした。
「いんやありゃあ海兵だよ。まだ若ェ──くりっくりの毬栗頭で」
「いがぐり」
「ここんとこ夜によ。夢枕に立って、七月二十四日マルキューマルマルに病院ば行けち言いよる。ま、薬ものうなってきたしええかと病院行ったらば、帰り道んとこに貴様がいやがったんよ」
「……………」
響が口をつぐむ。
田﨑翁を挟んで座るロイも、助手席にて話を聞いていたエマも、なにも言えなかった。まさか、その海兵が田﨑を響のもとへ導いたとでも言うのだろうか。
車内がわずかに沈黙する。車が左折した。
ナデシコさんねえ、とケイコがつぶやいた。
「前に脳卒中で倒れてね、思うようことばも出らんようなって。いまじゃもうなんも話さんのよ。それがきっかけか分からんけど認知症も出てきとって、むかしから友だちやった私のこともわからん。やけん、なんも話せやんとおもうよ」
「──いいです。顔が見られれば」
響が車窓へと視線を移す。
そのことばを最後に彼は口を閉じた。田﨑も、保坂兄妹も、過ぎ行く田園風景をだまって眺めつづけた。
およそ五分後にたどりついたのは、広い敷地にどしりと構えられた、平屋型の大きな施設。
つきましたよ、とケイコが言う。
「ワシぁここで待っちょるけん、響よ」
「ああ、田﨑よ」
「うん」
「ありがとう」
一行は車を降りた。
────。
老人ホームへ来たのは初めてだ。
おそらくはエマもそうだろう。キラキラした瞳で中をひとしきり見回しては、すれ違う老人にこんにちはと声をかけている。
ケイコが、『楓』と書かれた部屋に入った。
「響さん」響の腕を引く。「ほらそこの奥──」
「…………」
響がゆっくりと部屋へ入った。
部屋の隅に置かれた四つのベッド、手前ふたつと右奥がもぬけの空のなか、左奥のベッドに、ひとり老婦人が上半身を起こして外を眺めている。短く切り揃えられた真っ白なショートヘアに、しわだらけの手をゆったりと擦る横顔には、どこか上品さが漂う。
「あん人が槙村撫子さん。いつも、ずーっとああして外見とる」
「なんにもお話ししないのに──ケイコさんはそれでも、よくお見舞いにいらっしゃるんですか?」と、エマが目を見開いた。
ケイコはくちびるをキュッと結ぶ。
「私がここに嫁いで来たときから、いろいろお世話になって。なんか困ったことがあると、大したことなくてもよう電話して相談に乗ってもろうてさ。やけんいまも、なんとなーく顔を見に来たくなるんよ」
「…………」
響は彼女のもとへおそるおそる近付いた。
ベッドの脇にある椅子へ腰掛けて、もし、と声をかける。
撫子は外の景色を眺めたまま、微動だにせぬ。近ごろは、施設の職員がご飯を届けに来るときくらいしか、まともに目も合わせられないのだという。
響は、彼女の手におのれの手を重ねた。
「初めまして」
「…………」
「撫子さんとお呼びしてよいかね。キミのお母さんはなんと呼んでいたのだろう──彼女のことだ、きっと『撫子』なんてがさつに叫んでいたんでしょうね」
「…………」
「横顔が、お母さんそっくりだ。目元はすこし──おれに似てるかな?」
「…………」
「なでしこ──」
声が、ふるえる。
ロイは咄嗟にケイコとエマを連れて病室を出た。あの空間は、ふたりだけのものだと思ったからだ。
わずかに聞こえた響の嗚咽に、エマは堪えきれずロイの肩に顔を埋めた。ケイコもハンカチで目元をぬぐう。
響のふるえる声が聞こえた。
「とっても、遅くなっちまいましたが。……いま帰りました。お前の父、銀也ですよ」
「…………」
「寂しかったろうに、ごめんな──」
衣擦れの音がした。
ロイがわずかに部屋を覗くと、響は撫子の頭を引き寄せておのれの胸に抱いていた。それが刺激になったのか、若き父の胸におとなしく納まった老し娘が、わずかに顔をあげた。
「────」
響の顔を見る。
いま、七十年という時を越えて、父娘は初めて対面を果たしたのである。
「なでしこ」
「──あ。……」
掠れた声を出したのち、彼女はひゅうひゅうと吐く息にことばを乗せた。ゆっくりと形を成すくちびるを、響は一心に見つめる。
「 」
──お と う ち ゃ ん 。
「な、……」
「 」
──お か え ん な さ い 。
と。
声にならぬ娘のことばにたまらず、響はふたたび彼女をやさしく抱きしめた。ふるえる父の肩に顔をもたげて、娘はほうと息を吐く。
しばしの抱擁ののち、撫子はわずかに動く左手で枕元をまさぐった。
ふかふかな枕の下から出てきたのは、荒目が目立つ木彫り人形。いびつな形の羽を背負った天使像であった。胸元には薄茶けたちいさな写真が貼られている。
響は息を呑む。
木彫り人形に手を伸ばす。
覚えている。忘れるものか。あの日、フィレンツェのミケランジェロ広場で彼女に渡した、あの──。
撫子は天使像に貼られた写真を指さした。
「…………」
「──これは、」
「 」
──お ま も り。
「お、御守り?」
聞くと、彼女は天使像に向かって合掌した。
その横顔に、いまは亡き妻の面影が残る。それを見て、響は容易に想像することができた。
この天使像に夫の無事を祈る妻の姿も。
父の顔を見ぬまま生まれた娘に、たしかに父がいたことを知らせようと努力する家族の想いも。
死にゆく自分の代わりに娘を守ってほしい、という、天使像にかけた妻の願いも。
「────」
病室の外で待機する保坂兄妹の耳に、響のむせび哭く声が届いたのはまもなくのこと。ロイの胸中に渦巻くは、ただやるせないという気持ちひとつだった。
眠りにつく前に妻子のもとへ戻っていたら。
大和沈没時に助かっていれば。
戦艦に乗っていなければ。
戦争など、なかったら。──
いまさら言うだけ無用のことが、頭を巡って消えてゆく。
──ありがとう。
という声が聞こえてまもなく、響が部屋から出てきた。うるんだ目元は紅く染まっていたが、その表情はどこか晴れやかである。
ちらと撫子のようすを覗くと、彼女はふたたび窓の外に目を向けていた。その手には木彫りの天使像が握られている。
「……あれ、いいんすか」
「撫子の御守りだそうですから、いいんです」
「銀也さん──」
エマがつぶやく。
なぜか響よりも彼女の方がずっと泣きじゃくった跡が見える。響はにっこりわらってうなずき、ケイコに目を向けた。
「ケイコさんどうもありがとう。お陰でいろいろと吹っ切ることができました」
「まあ、そんな」
「田﨑が待っている。もどろう──」
といって、響はふらふらと施設の外へ出ていってしまった。ロイとエマは顔を見合わせあわててその後を追う。
彼は、奥に望める雄大な山並みを見つめていた。
「響さん、もういいんですか」
「……ああ。病をおして生きている娘を見たらば、おれも親の務めを果たさねばとおもって」
「親の務め、」
「──子を守り、子より先に死ぬることですよ。この世にあの娘がまだ生きているなら、おれはこの世を守る。……おれはそのために、またこうして目覚めたのだから」
「…………」
太陽がすっかり真上にあがっている。
この日、響は目覚めてから初めて歯を見せてわらった。
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