江田島の友垣
第21話 青春時代
朝日が目に刺さる。
むくりと身を起こしたエマは、見慣れぬ部屋にいることに気がついた。ここは──響のマンションである。
そういえば、昨夜は夜通し彼とたくさんの話をしたっけ。いつの間にか寝落ちていたらしい。ふかふかの掛け布団を眺める。
ベッドに寝かせてくれたんだ。
ふわりと台所からいい匂いがする。胸がおどって、エマは部屋から飛び出した。
パジャマのまま、居間へ。
「響のおじさま?」
台所を覗く。
彼はスクランブルエッグを作っているところだった。すでにベーコンは焼きあがり、トースターからはバターロールのよい薫りがただよってくる。
なんという完璧な洋式朝食であろう。
響は、ちらとエマを一瞥して「おはよう」とつぶやいた。
「おはよう。いい匂いに起こされちゃった、ベーコンの焼けた匂い好き!」
「ああ」
「ふふふ、お皿出そうっと」
昨夜は濃密な時間であった。
彼は意外にも雄弁で、無駄なく自身の生い立ちを語った。
「生まれは、宮崎は高千穂の片田舎。六つのころ、母の親戚がいるイギリスに移住した。いろいろあったけども、イタリアの美術学校で彫刻を学んだのはいまでも良い思い出です。そのころはフィレンツェにホームステイをして、……うん。あの頃はよかった」
「スゴい、彫刻家になりたかったの?」
「具体的なヴィジョンがあったわけじゃない。ただ──ミケランジェロの天井画を観てから、あんまり素晴らしいんで感動しましてね。どう生きたらあんなもの創れるかと、知りたかった」
「『最後の審判』でしょ。資料集で見たことあるわ」
「あれは、──直で観ることをおすすめしますよ。いまにも上から、数多の人間たちがこぼれ落ちてくるんじゃねえかと錯覚します。作者のミケランジェロはもともと彫刻家ですから、陰影の付け方がレオナルドとはまた少し違うんでしょう」
「へえ、…………スゴいね」
エマは感嘆のため息をつく。
しかし彼は十八歳のころ、国家情勢の雲行きを案じた父によって日本に戻されることになったという。イギリスに住み続けるには、日本人という人種は枷だった。
おれの年齢も考えたんだ、と彼は苦笑する。
「江田島に行くには十九歳までしか入学できねえっつんで、おれは帰国後に猛勉強してなんとか合格した。──卒業後は遠洋航海とかの実地訓練をして、召集され、この様です」
「江田島ってなぁに」
「海軍兵学校のことですよ。当時は江田島っつったらもう兵学校のことと決まっていた。なにせあの辺りはほかになんもなかったから」
「お父様は、響さん──あ、銀也さんに軍人になってほしかったの?」
「ああ。……さんざ好きなことさせてきたのだから、こんどはこの身をもって国に尽くせと、いうことだったのだろうね」
と、響はソファにもたれる。
そうして数多の戦地から生き抜いた末、不沈神話を背負う大和乗艦を命じられた、と。
「じゃあ、じゃあ彫刻は? 兵学校に入ってからぱったりやめちゃったの」
「たまの休みがあると、同期に絵を描いてやったものです。よくせっつかれたので」
「なにを描くの?」
「多くリクエストを受けたのは、裸婦だったかな」
「ら。…………」
サイッテー、とエマは頬を染める。
しかし響はとろりと瞼を閉じながらくすくすと肩を揺らした。
「なにが最低なものか。男から見りゃあ女は芸術だ」
「あれ、でも。……」エマが目を見開く。
「結婚してるって言わなかった? 奥様とはどこで知り合ったの」
「フィレンツェの学校に、彼女も通っていたんです。そこで知り合った」
「きゃーっ、学生恋愛だったんだ。素敵ステキ! ねえねえ、どんな風に結婚したの? フィレンツェにいたときから付き合ってたの」
「…………」
彼女の勢いにたじろぎ、彼は「勘弁してくれ」と手のひらでおのれの顔を撫でおろす。しかしなおも食い下がると、観念したのかすこしうれしそうに答えてくれた。
「いまはどうか知らないが、当時は女性が芸術に邁進するなどなかなかなかったものです。そんな世の中で、彼女の絵画に対する気概には目を見張るものがあってね。おれは純粋にすごいとおもった。あるとき、ローマのウフィツィ美術館にさそったんです。彼女がどれほどのものか定めようと思ってのことだった」
おれも女性を下に見ていたんでしょうね、と響はおだやかにわらう。
「美術史には自信もあったし、彼女が言いよどんだならマウントをとってやる──という、まあなんというか、若かったんですよ。しかしそれが愚かなことだと気付いたのはまもなくでした。美術館で彼女の知見を聞くと、そりゃあもうすばらしかった。女性というのは男なんかより、感性が高いんだろうなぁ。彼女の絵の見方、想像力、もちろん知識も、おれが敵うところなんざひとつもなかった」
「かしこい
「うん。それからおれはもう夢中で、彼女になんとか追いつこうと勉強して、アプローチを繰り返して、……」
「銀也さんなら、かっこいいし、頭もいいし。その人もすぐに恋に落ちたんじゃないの?」
「とんでもない。どんなに声をかけても暖簾に腕押し。まったく手ごたえがなくて──ついには日本へ帰国することが決まってしまった」
「えっ!」
「だから最後、『君をこれほど愛した男がいたことを忘れないで』という意味を込めて、つたないながらに小さな木彫りの天使像を渡したんです」
「ぎゃあああああ」
エマは悶えた。
ごろんごろんとラグマットで悶え苦しむエマを笑いながら、響は頭を掻いてつづけた。
「──それで、まあ。帰国の日になって空港に行ったんですがね。そしたらそこに彼女がでかい荷物をひきずって待っていた」
「えっ!」
「おどろいて、どこに行くのか聞いたら『日本画も勉強したいとおもってたの』なんて言って笑ったんです。日本に行くことを親に言ったら勘当されたとも。だからおれはもう彼女の一生の責任をとると決心して、親にフィアンセとして紹介したんです」
「……反応は?」
「母はよろこんでいましたよ。もともと親戚に英国人がいますから抵抗もなかったのでしょう。意外なことに父も、彼女の覚悟が気に入ったようで快く受け入れてくれました。こうして彼女はおれのフィアンセとして日本に渡り、独学で日本美術史を学びました、とさ」
「…………」
絶句した。
なんてドラマチックなのだろう。きっとそれから結婚に至るまで、果ては結婚してからも、互いに多くの苦労があったことだろう。けれどいま、彼女を語る響の顔はとてもとても幸せそうで──。
エマの瞳から涙がこぼれた。
泣きたいわけじゃなかったけれど、止まらなかった。子どものように手の甲で雫をぬぐうと、彼は「おいおい」と苦笑した。
「どうしてお前が泣くんです」
「だって……──あんまり素敵なんだもん。だけど、そしたら銀也さんがこうなってしまったあと、奥さまはいったいどうしたの?」
「……それを、おれは目覚めたときからずっと考えてる」
「…………」
ハッと口を閉じる。
それはそうだ。それを一番知りたいのは彼のはずだろう。このマンションに来てから、気付けば空を見上げていた響が思っていたことは、きっと妻のその後の人生についてであったに違いない。
エマが悲しげにうつむく。
と、響は意外にも明るく首を振った。
「大丈夫ですよ。江田島には美風がありましてね、同期生といったらそりゃあ絆は固かった。万が一戦死しちまった同期生がいたならば、その家族は一生責任をもって面倒を見る、なんて暗黙のルールがあったもんです。きっと妻も、腹の子も──だれかが見てくれたんだと思います」
「……腹の子? 奥様はお腹に赤ちゃんがいたの」
「そう。手紙で女の子だって読んでから、いろんな名前を考えたっけかな──そうそう、たしかその候補のうちのひとつには、エマもあった」
「ほんとっ?」
「ああ。でも妻は、……すっかり日本が気に入っていたみたいでね、桜子とか、梅子とか、松代とか──とにかく日本風の名前が良いみたいだったから、君が決めてくれと手紙を出した」
「それで、どんな名前になった?」
「さあ、それは──手紙をもらう前に大和が沈んじまったから分からない」
「…………」
「無事に生まれたのか、その子はなんて名前になったのか──一度でいいからこの腕で抱いてやりたかった。本当に、フローリーには心細い想いをさせちまった」
「フローリーって奥さまの名前?」
「名はフローレンス。フローリーは愛称だ」
「フローリー──ねえ銀也さん」
エマはパッと立ち上がった。
夜も更けてきた頃合い、響は落ちてくる瞼をこすりながら、エマを見上げる。
「決めたわ。探しましょう」
「……探す?」
「貴方の家族をよ! 七十年経ってしまってるし、もしかしたらフローリーは存命じゃないかもしれない。けれど、娘さんが生きてる可能性は十分にあるわ」
「そ、それは」
「出来る出来ないじゃない。やるのよ。赤ん坊を一度だって腕に抱けなかった貴方だもの。父親として、その責務は果たすべきだわ」
と、言うなりエマは携帯を取り出す。
こんな夜更けにどこかへ連絡する気のようだ。響は慌ててその手を止めた。
「まてまて、どうする気です。お前」
「倉田のおじさまに相談するの。宮崎の高千穂まで、連れてってって。大丈夫よ。あの人たぶん女の子からの頼みにはとっても弱いみたいだから!」
と、いってなおも連絡を取らんとする彼女に「時間を考えろ」と諭し、倉田への連絡は翌日に持ち越された。
──そして、朝。
朝食を手早く摂り終えたエマは、響の制止も聞かずに倉田へと電話をかけるのである。
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