第20話 密会
君は日の本 櫻の男子
我は古里 百合の花
花は違えど 想いは一つ──。
「わたしこの唄好き」
と助手席でぼたんがわらう。
カーラジオから流れるのは、李香蘭の『紅い睡蓮』。ずいぶんと渋いセンスだと苦笑すると、彼女はよく父親に聴かされたといってまたわらった。
「でもこの歌ってレコード時代だろ。もしかしてレコード蒐集家か、あんたの親父さん」
「ええ。ちいさいころはよく聴いてたの。李香蘭って人も、きれいで好きだった」
「クラシックなことで」
とは言ったが、内心ではすこし気が合うかもしれないとおもった。ロイの父も英国在住の頃からコツコツとレコードを集める癖があったのを思い出したのだ。
もちろん父は英国人だったから、聴かされるレコードは洋楽ばかりだったけれど、母が己を膝の上に抱いて歌詞の意味をひとつひとつ教えてくれたものだった。
「ロイさん、外国にいたことは?」
「生まれはイギリスだけど、小学校にあがるころにはもう日本だったかな」
「ふうん。そうなの──」
彼女はさして興味もなさそうにつぶやく。
ラジオはつづいて、なつかしくも楽しいメロディを奏ではじめた。このコミカルなイントロは間違えようもない。『アンパンマンのマーチ』だ。
「ふふ」
と、ロイがほくそ笑む。
幼い頃に熱心に見た覚えはないのに、不思議とからだは覚えている。そういえばエマはテレビにかじりついて見ていたっけ。
日本人ならば知らぬ者はいない名曲である。
「いい歌詞」
おもわずつぶやいた。
返事はない。
ちらとぼたんを見ると、黙って車窓にもたれている。会話をしなくていいならそれで越したことはない。そっとしておこう──と、ゆっくりハンドルを切ったとき、彼女は不意に「ロイさん」とこちらの太腿に手を置いた。
「ん」
「お夕飯召し上がりました?」
「倉田さんちで」
「あの、わたしの家近いんです。ドライブのお礼をしたいんですけれど……お茶をお入れしますからどうです?」
と彼女が甘えるように身を寄せてくる。
途端に嫌悪感に満たされて、ロイは「別にいらない」と刺々しく返答した。
「え?」ぼたんはわずかに戸惑った。
「あ、いや」ふとロイが思い立つ。
そうだな、とつぶやいてぼたんを見た。
「──おにぎり三個くらい握ってくれない?」
「おにぎり?」
「夜食用に」
ロイはにやりとわらう。
いいですとも、と跳ねるようにうなずく彼女のナビに従って、ロイは彼女を家まで送り届けた。
※
波止場に来た。
クルージングボートに乗り換える。
海からは行かない──と倉田には告げたが、ロイにはひとつ目的があった。
五分程度の航海とはいえ、夜の海を走るのは緊張する。倉田からは「夜の航海は危険だから禁止」とキツく渡されているのだ。言えるわけもない。
箱にたどりつく。
錠前を開けて、管の張り巡らされた床を歩く。ロイは慣れた足取りでとある場所へと向かった。
「ご機嫌よう、専務」
一階の焼却室扉に向かってつぶやいた。
扉には小窓がついていて、中のようすを覗き見ることができるようになっている。
部屋の隅でぐったりと寝転んでいた人影が、パッと身を起こして駆けてきた。
「遅かったじゃないか」
「どうせ食わなくても死なないくせに」
小窓からおにぎりを三個差し出す。先ほど、ぼたんに作ってもらったものだ。
「サンキュ」
「どういたしまして」
扉にもたれ座る。
彼も同じように扉にもたれたのだろう。扉越しに気配が伝わった。
「ふしぎな身体だ」
おにぎりをむさぼり食う彰が、つぶやいた。
「もう二回も腐り落ちたんだ。でも二回とも、またこうやって皮膚が生まれる。なんというか──我ながら不気味だったよ」
「…………」
「でも、わかる。たぶん次に腐敗が起きたらそのときは……きっとおれの身体も終わりのときだな」
「らしくないじゃん。いつもポジティブなのに」
「うん。……でもわかるんだ」
彼は早々に、三つ目のおにぎりに手を伸ばす。
それを口に運びかけてふと動きを止めた。
「キミ、これ食べた?」
「食べないっすよ。オレが握ったわけじゃないから──よく知らん人の手作りって苦手で」
「へえ」
学生時代のトラウマが呼び起こされる。ロイは顔をしかめてひとり首を振った。
焼却室に閉じ込められた一文字彰と初めて接触したのは、四月も末ごろのことである。
警備の仕事にあたり、内部構造を把握するために中を見回っていたところ、焼却室の入口を発見した。彼は、部屋の隅でふるえていた。
小窓越しに覗き見た一文字彰の背中に同情してからというもの、いまではこうして食い物を調達するまでになったのである。
とはいえ、どうやら感染者は、腹が減れど食わずとも死にはしないらしい。
現に彼は数ヵ月ものあいだ、壁に生えたわずかな苔をむしりとって食べていたのに、体調はそう変わらなかったという。
そうだ、と彰はこめかみを抑えた。
「真司さんは元気?」
「まあ──元気はないけど、元気だよ」
「どっちよ」
「アンタがこんな目に遭って、元気でいろって方が無理な話だ。なにせその時は、いちばん近くにいたんだから──」
と、言って口をつぐむ。
これ以上は、こちらの推測が正しければ、彰にとって酷な話になるとおもった。
そう、つまりロイはいまだに聞けずにいる。
お前はいったいだれに感染させられたのだ、ということに。──
沈黙で察したか、彰は自嘲気味にわらった。
「あの人のことだ。自分がそばにいたら、なんてくよくよしてそうだもんな」
「…………」
図星だった。
近ごろは倉田と夕食をともにしがてら、これまでの反省とこれからの筋道を話し合うばかりの日々である。
今日も今日とて彼に呼び出され、「彰がああなったのは俺のせいだ」とうなだれる倉田の背をさすってきた。
あのとき、と彰がつぶやく。
「恥なんか掻き捨てて──真司さんに警告しておきゃよかった」
「え」
「小此木のことさ。お前のその様子じゃあ、真司さんもすでに知ってると見たけど。ホント、おれってばすっかり油断してたわ。……でも、知られたくなかったんだ。真司さんには」
「彰さ」
「知られたくなかった。…………」
彰が沈黙する。
(やっぱり、こうなった)
この話はすべきじゃなかった。
小窓越しにうなだれる彰を見て、ツキンと胸が痛んだ。こんなとき、なんて声をかけたらよいかなんて知るわけもない。
しかし同時に沸き上がったのは、焦燥だった。
妹との電話を思い出したのである。
「小此木を捕まえて、燃やすしかない」
「え?」
「日に焼けた大男──おそらく小此木は、オレの妹まで狙ってる」
「なんだって!」
「今日も接触してきたらしい。真偽は不明だけど『タマエは死んだ、おれが殺した』って」
「たまえ!?」
タマエと聞いて思いつく者はひとり、一文字玉枝──彰の母親だ。
真偽は不明だ、とロイはあわてて繰り返す。
「小此木がいったいどういう目的で動いているのかが掴めない。アイツらにとってのセックスは、生存本能からくる繁殖行為だとして──殺人は? 殺すくらいなら仲間にした方が早いはずなのに」
「そ、……」
それは、と言いかけて彰は口をつぐむ。
母親が殺されたという可能性に動揺している。ロイは首をふって立ち上がった。
「それはまだ確定じゃない。とにかく、アンタはまずそのからだが腐らねえよう踏ん張って、からだのことで分かることがあれば逐次教えてくれ。こっちで、どうにかして助ける薬を作るまで──アンタが消えたら、倉田さんがもっと落ちる」
「ハッハッ。真司さんもいい部下を持った」
「オレたちはアンタの部下でもあるんだけど」
「…………あ、そうだっけ」
彰はくしゃりとわらった。
じゃあまた、とロイが立ち去る間際に「ロイ!」とさけぶ。
「忘れんなよ。おれはもう全身細菌まみれの感染者──もしかしたら、意思に反してお前らのこと、欺くかもしんねえぞッ」
「分かってるよ、お気遣いどうも」
外に出る。
錠前を戻して、ちらと雑草群に視線を投じる。
(……眠る軍人)
大丈夫。だいじょうぶだ。
ロイは拳を強く握りしめる。手のひらに食い込む爪が、どうしようもなく虚無に落ちゆく己の心を留めた。
(エマも、みんなも、オレが守る)
人間が細菌になど負けるものか。
真っ黒に染まった海は、不気味なほど凪いでいる。まるでこの先の嵐を暗示しているかの如く。
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