第19話 海軍カレー

『殺した?』

 電話の奥でロイの声が尖った。

 うん、と涙声で返すエマがちらと台所に目をやる。すっかり台所を使いこなした響。買い物袋から人参や玉ねぎを取り出して、皮をむき始めている。

 まな板にころがる材料を見るかぎり、今日の献立はカレーのようだ。


 響と合流したのち、恐怖と安堵からか涙の止まらぬエマを気遣って、響はマンスリーマンションに彼女を招いた。

 先の出来事を説明するや、彼は「兄貴に一報いれなさい」と言って、おもむろに台所へと立ったのである。

 今日は夕飯を馳走しようという心意気らしい。

「本当かどうかは分からないわ。でも怖くて……」

『なにかされたのか』

「ううんなにも。たぶん、響さんが近くにいたのを見て逃げたのかも──たまたまお迎えに来てくれてたから」

『…………』

 電話奥には、倉田真司もいるらしい。

 なにかを話す声が聞こえて、やがて電話は倉田に代わる。

『エマちゃん?』

「はい」

『怖かったろ、ごめんな。ただ今日はもうこんな時間だしロイくんはそっちに行けねえから──ひとりじゃ心細いだろうが、友だちでも呼んで気を紛らわしてくれるかい』

「あの、響さんがいるから平気です。いまもカレー作ってくださってるの」

『ああ──そうか。まさか泊まるの?』

 と、言った倉田の声が異様に小さい。

 そばにいるロイを慮っての行為らしい。エマはくすっとわらった。

「ご飯食べても怖かったら泊まろうかな」

『く、くれぐれも不純なことは避けるようにな』

「やぁだ。お父さんみたいなこと言って」

 ケタケタとわらう。

 すっかり恐怖心も晴れた。台所で作業する響がフッとわらう気配がした。

「こっちはだいじょうぶ。それより、その、会長さんの安否は気にかけた方がいいとおもいます。あの人、正気には見えなかったけど……嘘ついてる感じじゃなかったから」

『そうしよう』

 という言葉を最後に電話口が倉田からロイへともどる。

 それからエマは兄より、くれぐれも危険な行動はしないこと、学校やバイト以外ではなるべく響とともに行動し、ひとりになるのを避けることといった決まり事を口酸っぱく伝えられた。

 軽く流して電話を切る。

 台所へふたたび視線を投じると、彼はフライパンで具材を炒めはじめたところだった。手際のよいヘラ使いに、牛肉はもちろん、賽の目に細かく切られた人参、玉ねぎがおどっている。しかし彼の手元には肝心の固形のカレールーがない。エマはあれ、と首をかしげた。

「カレーじゃないの」

「カレーだとも」

「カレールーは?」

「るー?」

「カレーの素よ。ルーもないのにどうやってつくるの」

 と言う間に、響はつぎの行程として牛脂を敷いたフライパンに小麦粉をいれた。

「なにそれ小麦粉!?」

「やかましい。──カレイ粉の蓋をあけてください、そこにある」

 エマはあわてて言われたとおりに蓋を開ける。初めて見る作り方に動揺したが、もしかするとこれが海軍本場のカレーなのかもしれない。

 響はその後、炒める小麦粉のなかにカレー粉をいれ、水やコンソメを加える。皿に移されていた野菜はふたたびカレーのなかへ投入され、十分に煮込まれるのを待って塩にて味付けがなされた。

 おもしろい。

 カレーくらい作ったことはあったけれど、こんな行程ははじめてだ。

 飯を皿に盛るよう指示を受け、エマはよろこんで白飯を盛った。もはやスーパーでの出来事など遠い記憶の彼方だ。

「好きな量を盛りなさい。娘の食べる量はむずかしい」

「はい!」

 ふわりと漂う、カレーの香り。

 これぞまさしく『海軍カレー』の完成だ。エマは上機嫌に席についた。


 ──。

 ────。

「やっぱり、カレーといったら海軍なのね」

 二杯もおかわりしたエマである。

 膨れた腹をさすりながら、ソファを背にくつろぎたずねた。

「は?」

「海軍って毎週金曜日はカレーだったんでしょ。海軍カレーっていうの」

「なんですそれ」

「ちがうの? 海上では曜日感覚がなくなるから、毎週金曜日にカレーをつくることで忘れないようにって目的があると聞いたわ」

「海上に出たくらいで曜日感覚が狂ってたまるか。そんな奴は不適格者として船からおろしなさい」

 響は厳格な声色でつぶやく。

 この威圧的な物言いに、エマも初めのうちは緊張したものだが、最近になってこれが彼のふつうなのだと知った。そうと分かればもはや怖いものはない。エマは「えーっ」と身を乗りだした。

「海上自衛隊はそうだと聞いたけれど──なぁんだ。海軍発祥のしきたりじゃなかったんだ」

 自衛隊、と響はつぶやく。

 この国から軍隊が廃されたのち、自国防衛のために創られたものだと説明すると、彼はむっつりと黙り込んだ。

 戦争のためじゃないわ、とエマはあわてて手を振る。

「災害派遣とかで活躍してるの。戦争には何がなんでもならないから、安心してよ!」

「はっ」

 響は嘲笑した。

 なにがおかしいの、とエマが眉をしかめると、彼は食い終わった皿を台所に運びながら言った。

「敗戦後にファシズムが崩れた、デモクラシー国家のほざきそうな言葉だとおもって」

「どういうこと?」

「すべからく、いたずらに平和を主張しては軍を批判するもんです。──」

「ま、まって。貴方たちがあの戦争でいのちを賭して戦ったからこそ、みんなその意思を継いで平和を訴えてるのよ。なにかわるいこと?」

 すこしエマの声が尖った。

 まるで平和を願う国民を嘲笑うような彼の態度が、無性に腹立った。当時の戦争を経験していればこそ、平和のありがたみはだれより分かるはずなのに──。

 しかし彼は手早く皿を洗いながらつぶやいた。

「無論、戦争は愚かなことだ。殺戮の末に勝ち取ったモノなど一分の価値もない。いずれ崩れゆくのは目に見えます。──しかし」

 守るために戦うこともある、と。

 響は唸るように言う。

「…………」

「軍隊は殺戮を犯すためにあるとでも? おれたちがただ人を殺すために軍人になったとでも言いてえのか、と聞きたいんですよ。おれは」

「あ。…………」

「己らが平和を掲げたところで、余所モンは知ったこっちゃない。突然攻撃を仕掛けられたらどうする? 平和を誇示したよい子たちは、大切なものを守る術も知らねえまま、なにもせずに殺される。平和を主張する奴ほどその価値を知らぬものだ」

「そ、んなこと」

 エマはたじろぐ。

 そんなつもりはなかったが、彼をすこし怒らせてしまったようだ。うっすらと涙を浮かべるエマに気が付いたか、響は「まあ」と首を掻く。

「──それほど平和にボケていられる世の中になったのかとおもえば、わるくないですが」

「…………」

「皿を洗ったら家まで送ります。支度をなさい」

「いやです。わたし今日帰りません」

「は?」

 響が怪訝な顔をする。

 しかしエマはかまわず、食い終えたカレー皿をシンクにいれて響を睨んだ。

「あなたの話が聞きたいわ。覚えている限りの記憶にある、響さんの物語。いままでむっつり黙ってばっかりだったあなたがここまで朗々と話せるだなんておもわなかったもの。わたしの心ゆくまで、語り尽くしてもらうんだから」

「…………」

 夜は長いわよ、とエマはどこか兄を彷彿とさせるニヒルな笑みを浮かべて、響の肩に手を回した。


 ※

 東南東小島にある倉田の家を辞したのは、エマとの電話を終えてまもなくのことだった。

「なに、見回りに行くのか。これから?」

「軽くね。中には入りませんよ」

「危険だ」

「海からは行きませんから」

「…………俺の車、使え。今日のうちに戻しに来い」

「あざす」

 と、鍵をもらう。俺の車と言ってもこれは一文字社有車なのであるが。

 車で走れば、三十分もかからずに一周出来てしまうちいさな島。途中海岸にでも立ち寄りながらゆっくり行こう──と駐車場に停められた白い軽自動車に鍵を向けたときであった。

「保坂さん!」

 声が聞こえた。

 振り返らずともわかる。この声は──倉敷ぼたんだ。

「…………どうも」

「奇遇ですね。どこか行かれるんですか?」

「そっちこそ、こんな夜遅くに散歩すか」

「へへ──この島、海風が気持ちよくって。あ、この車って倉田さんのですね」

「……借りたんです。島内ドライブのために」

 と、ここまで言ってロイはパッと口をつぐむ。余計なことまでこぼしたら、この女がどう返してくるかわからない。案の定ぼたんはうれしそうに車とロイを見比べている。

「…………あ、じゃあまた」

「え、まってまって。わたし、免許持ってないんです。ちょっとだけでいいんでドライブ付き合っちゃだめですか……?」

「いや──」

「やだなあ、別にとって食おうってわけじゃないんですから」

 と、ぼたんがコロコロとわらった。

 別にそんな心配はしていない。ロイはムッとして、すこし乱暴に助手席の扉を開けた。

「……すこしですよ。オレ、ドライブはひとりで楽しむ派なんで」

「やった!」

 ぴょん、と飛び跳ねて彼女は揚々と助手席に乗る。扉を閉めてやってから、ロイはハァ──と深くため息をついた。

(仕方ねえ)

 これも円滑な人間関係のためのコミュニケーションだ。島を半周でもして、さっさと家に送り届けよう──と意を決し、ロイはようやく運転席へと乗り込んだ。


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