第18話 スーパーにて

 響銀也という男は、海軍らしいさっそうとした人物であった。

 目覚めた直後こそとまどっていたけれど、成増の話を聞き終えるころにはすっかり落ち着いて、この七十年後の世界を観察する余裕すら見せた。

 かつて海上にその生を賭した男。

 からだが動くようになってからは、クルージングボートを端から端までしゃきしゃきと歩き回り、その涼やかな目元をきりりとしぼって海原の向こうを睨みつける。まるで海の向こうに置いてきた過去を見つめるかのように。


(声がいい)

 と、ロイはおもった。

 耳心地のよい低く落ち着いた声色は男の自分でも聞き惚れる。おまけに陽光を浴びる肌は血管を透かすほどに白く、海風になびく髪はゆたかに揺れた。

 これはエマもたいそう喜ぶだろう。

 色男然とした容貌ながら、真一文字に結ばれたくちびるから感じる堅固な強さに、響銀也という名もさることながら銀幕スターのごときいで立ちである。

 そう見た目は、見た目はいいのである。あるがしかし──。

「ちょっと響さん、いい加減に」

「なにか」

「なにかじゃない、ほら。うろうろしないでください。アンタの世話役仰せつかってんですよ。あんまりうろつかれちゃ困ります」

 ここからのミッションは、彼を人目につかぬよう民宿『つむぎ』へと向かわせること。だが、彼が気の赴くままに行動するので、民宿までの道にたどり着くことすら一苦労なのである。

 いまも坂下に広がる海を、その身を乗り出して眺めている。

「聞いちゃいねえ。成増さん、あの人捕まえててよ」

「そんな捕虜じゃないんだから」

 成増は苦笑した。

 しかし響は知ったことではないらしい。港町らしいおだやかな活気に包まれた熱海の町が気に入ったか、ふらふらとあちこちの店を覗いて回りはじめた。

 陽光の下、帝国海軍夏服名物白詰襟が光る。

 一見すれば戦争映画に出演する俳優だ。道行く観光客はもはや釘付けである。

「いや困ったね。真司さんには人目につかぬようにと言われていたのに」

「ここまで自由な人とはおもわなかったよ──」

 と。

 ロイは痛む頭を抱え、なおも土産物を物色する響を引きずるように、民宿につづく坂道を下ってゆくのであった。


 ※

「よお、おつかれさん」

 倉田は畳に転がった状態で出迎えた。

 その呑気なすがたに、ロイは心のうちで憎しみをおぼえる。響をここまで連れてくるのは幼稚園児を連れ立って歩くより大変なことだったからである。

 遅かったな、と倉田が身体を起こして立ち上がる。

「ちょっとイレギュラーだったもんで──」

 くたびれた顔で、ロイはうしろを見た。

 うしろから姿勢よく入室してきたひとりの男に、エマがハッと息を呑む音が聞こえる。

 成増が彼の背に手を添えて微笑んだ。

「響銀也海軍中将です。入眠当時は大佐ですが」

「おお、こりゃまたなんとも。やっぱり軍人さんってのは顔つきが凛々しくなるもんですね──どうも倉田真司です」

 倉田が握手を求めると、響はゆっくりとした動作で腕をあげて敬礼をする。その後、手をとって

「響銀也」

 とひと言だけつぶやいた。

 もともと無駄口の少ない男らしい。握手を終えると威圧的に部屋を見渡して、やがてその視線をエマに向けた。

 ぎくりと彼女の肩がハネる。

 気持ちはわからぬでもない。響から醸し出される雰囲気は背筋を伸ばす気にさせられる。ただひとり、そんなことはまったく意に介さない成増がにこにこわらってエマを示した。

「響さん、彼女が先ほど伝えた護衛対象です。横浜に住んでいるそうで──貴方にも、近い部屋を借りてもらう予定です」

「横浜」

「いまだ母体特定に至っていない以上、貴方も護衛対象であることに変わりはありません。くれぐれも周囲には気をつけて」

「…………」

 響がふたたびエマを見る。

 彼女は頬をリンゴのように染めて立ち上がった。

「保坂エマです。そこの、保坂ロイの妹で……あの、お手を煩わせてごめんなさい。私迷惑かけませんから」

「保坂兄妹は英国ハーフだそうですよ。響さんには馴染みも深いのでは?」

 と、笑う成増。

 馴染み深いとはどういう意味だろう──と、首をかしげたエマの顔を一瞥し、響は後ろ手を組んで「そうですか」とひと言つぶやいた。

「イギリスにお知り合いでもいらっしゃるの?」エマは成増を見た。

「たしか響さんの奥さまが英国婦女子でしたな」

「あ、──」

 途端、エマの表情がしぼむ。

 妻帯者だと知ってガッカリしたようすだった。まったく、どのみち相手にされるわけもないのに──とロイは笑いを噛み殺す。

 ただひとり、倉田は窓から外を覗いて警戒していた。小此木はもちろんのこと、一文字家の者に見られるのも厄介だ。

 時間はない、とカーテンを閉める。

「小此木から感染源を辿れば、やがては母体に行き着くはずだ。そのあいだに新たな感染者が出ないとも限らねえ──油断せずにいこうな、ロイくん」

「それはいいですけど、倉田さん。響さんが当面住む部屋は手配できてるんでしょうね」

 ロイが眉をひそめた。

 おもえば、響を起こすという話題が出てからそんな話は一度も聞いていない。とはいえ倉田のことだ、抜け目なく手配はしていたようす。

 彼は口角をあげてうなずいた。

「もちろん、この二ヶ月で手配済みだ。一文字社から経費が出るから安いし──」

 という倉田のことばに、エマが「そんなのダメ」と食い気味に割り込んだ。

「危険だわ、ダメよ。だれが敵で味方かも分からない状態なのに、一文字家じゃなくても、会社との接触は最大限抑えるべきだわ。それがたとえどんなに信頼できる人だったとしても──足がつくじゃない」

「え──待ておまえ、なんでそんな事情を」

 ロイが待ったをかける。

 しかしエマの口は止まらない。

「そうね、だれかそばで世話する人がいた方がいいんじゃない? 七十年も未来で起こされて、ふつうの生活をしろっていう方が酷だわ。わたしの家でもいいよ。部屋もふたつあるし」

「待て待て」たまらずロイはエマの肩を抱く。

「だからなんでおまえそんなこと知ってる!」

「え?」

 しかし、声をあげたのはなぜか倉田であった。

「ロイくんが教えてやったんだろ。ずいぶん回りくどい言い方して──なあエマちゃん」

「あ、えっと。まあそうです」

「彼女勉強熱心だもんで、わざわざ俺にも聞いてきたんだから」

「…………」

 なるほど、そういうことか。

 言葉でうまく倉田を騙したな──じっとりとエマを睨み付けると、彼女は知らんぷりをして響の腕をとった。

「ねっ響のおじさま、わたしがしばらくお世話してあげますから。お買い物の仕方も、お台所やお風呂だって昔と変わってるんです。ね、いいでしょ?」

「結構」響は茶を呑む。

「ちょ──もう、ちょっと倉田さんなんとか言ってくれ」

「いやでもエマちゃんの言うとおりだなぁ。成増さんには俺が教えたんだし、やっぱ響さんにもそういうの必要だよ」

 と、どことなくエマ寄りの倉田に、ロイは目を剥いた。味方だと思っていたのに──。

「家に関しては、俺の長期出張という扱いでマンスリーを借りたから問題ないんだ。ただ生活面は──エマちゃんにもサポートをお願いしようかな」

「やった! ありがとう倉田のおじさまっ」

「…………」

 エマが、飛び上がってよろこんだ。

 もはやロイはなんにも言えず、苦笑する。

 こうして、保坂エマが仲間に加わった一行は、響の血を採り積極的なワクチン開発を秘密裏に進めることとなる。


 ※

 響がマンションに入って三週間と少し。

 エマは今日も、響の生活費として倉田から預かったクレジットカードで食材を買う。このカードは倉田真司のものではなく、もともと倉田文彦がこの時のために開いた貯金口座から落とされるものだという。

(そんなに前から、こんなことが現実に起きていたなんて)

 響はいまだ、眠る前の四ヶ月間の記憶をなくしたままだ。現代の暮らしには少しずつ慣れてきているようだが、遠い過去が恋しいのだろう。空を見上げて考え込むすがたもよく見られた。

(七十年後の未来なんて。……)

 わたしは怖い、とエマは思う。

 伯父母も友人も、ロイまでもいない世界なら──きっと消えてしまいたくなるかもしれない。

 ぼんやりと人参を手に取ったときである。

 ふいに腕を掴まれた。

 顔をあげる。目の前には、先日宿の前を歩いていた日焼けの男──エマの脳みそが警鐘をならすと同時に、背筋が凍りついた。

「あ、」

「見つけた」

「や、ヤッ」

「倉田に伝えろ」

「離して!」

「──玉枝は死んだ」

「ッ…………」

「俺が殺した」

 ニタリとわらった男が、ふとなにかを見てエマから手を離す。

 呆然と立ち尽くす彼女をそのままに、男はそそくさと人目を避けるように店を出ていった。

 タマエは死んだ。おれが殺した。

 倉田から聞いた一文字社会長の、一文字玉枝のことだろうか。エマの心臓がどくどくと脈打ち、呼吸は乱れる。

 こわい。怖い。

(殺したってどういうこと? なぜ殺したの?)

 手がふるえて、手中の人参がぽろりとこぼれた。が、それを空中でキャッチする手があった。

 びくりと顔をあげると、そこにいたのは響銀也である。

「あ、あ──響さ」

 なぜここに。

 エマはバイト帰りにスーパーへと立ち寄ったので、彼はてっきり家にいるものだと思っていたが──。

「迎えにきました」

「…………」

「人参。おれはこれの入った煮物が好きでね」

 と口角をあげてかごにいれると、それをひょいと持ち上げた。ここ一ヶ月でめったに自分からコミュニケーションをとろうとしなかった彼の、初めてのやさしさである。

 どっと押し寄せた安堵感に満たされて、エマはとうとう泣き出した。

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