響銀也

第17話 戦艦乗り

 昭和二十年四月七日。

 重油にまみれた海面から顔を覗かせて、周囲を見た。幸いにも、先ほどの爆発で出た木片が、私の命を海底へ沈まぬよう保ってくれる。

 海面に浮かぶ屑を掻き寄せた。

 いまにも沈みそうな者たちに渡して、生き延びろと激励を飛ばす。彼らは沈没する戦艦の渦に呑まれまいと、必死にもがく。

 ひとりの年若の水兵が、重油におぼれてあえいでいたので、ぐっと引っ張り、木片を渡してやった。

「響司令ッ」

「生きろ。あきらめるな」

「あ──ありがとうございますッ」

 毬栗頭の彼はたしか楠木といったか。私も渦から離れるべく空いた手を水中で掻く。けれど海中にておよそ四時間、その力は赤子のばた足よりも弱い。

 やがては力尽きる者、空から降る鉄片に潰される者、睡魔に負けて海へ沈む者──命がポロポロと消えてゆく。

 水の冷たさが身に沁みる。

 もはやこれまでかと沈没する艦を見上げ、くやし涙をこらえた。


 ──大和は沈まぬ。沈むときは日本が沈む時だ。


 戦艦大和不沈神話もいまは昔。

 米艦載機の猛攻魚雷によって斃れた大和はいま、この大海原にその身を沈め、我が国の終焉を暗示する。

 鉄片が降り落ちる。視界が揺れる。

(天皇陛下万歳。……)

 虚しさに満たされた。額から血が流れ、指先がしびれる。もうだめか。

 この身大和と共にあれ、と動かす手を止めた。身が、沈む。

 脳裏に浮かんだ愛妻の笑顔に、ほろびゆく私のくちびるが自然と弧を描いた。いま一度。いま一度だけ──会いたい。無性に。

「────!」

 腕を、つかまれた気がした。


 ──。

 ────。

「はっ」

 額がびっしょりと汗をかく。

 酸素が急激に肺へと流れ込み、私は咳き込んだ。まるで何十年も海底にいたように、呼吸の仕方を忘れている。

 息を吸うたび、あっぷあっぷと酸素に溺れそうだ。私は目をつむる。それから十分ほどかけて、腹式呼吸をするまでに心を落ち着けた。

「…………は、」

 なぜか身体が棒切れのように固まって、指先一本動かすのも一苦労である。自分のからだにいったいなにが起きているのか、いやそもそも、自分は死んだはずではなかったか──。

 ぎょろりと眼球だけを動かす。

 空だ。空が広がっている。薄雲を見て、わずかに視界がぶれることにも気が付いた。この揺れ方には覚えがある。ここは、海上だ。

 春先のぬるい風が頬を撫でる。

 対照的に全身は燃えるように熱くて、吐き出す息は荒かった。

「おはようございます」

「っ」

 肩が跳ねた。

 聞き慣れた気もする声だが、上官や部下に心当たりはない。だれだ──?

 ゆっくりと首を右横に向けると、眼鏡をかけた男が白い台座に腰かけてこちらを覗き込んでいる。

響銀也ひびきぎんや、帝国海軍大佐──いや殉職扱いの二階級特進で中将ですな。気分はどうです」

「────」

 顔を見てもピンとこない。

 顔にでていたのだろう。眼鏡の男は苦笑して頭を下げる。

「一文字研究所の成増です。参謀本部、と言ったほうが伝わりますか?」

「なります……」

 それよりここはどこだ。なぜ自分は生きている。あの日たしかに海へ沈んだはずだったのだが。

 首をもたげる。からだが重い。

 男の介添えをもって、身を起こすことができたのはおよそ二十分後のことであった。


「おかしな話だ──」

 ひととおりの話を聞いた。

 戦争が終結し、およそ四十余年ののち裕仁ひろひと様が崩御され、当時の皇太子殿下が今上天皇と成った。いまの世は、平和を成すと意味をとり、『平成』と──。

 あなたの、と成増が膝をつく。

「乗船した戦艦大和が沈没さる時より、およそ七十年の月日が経っております。大和が沈んだあとの記憶はありますか」

「……いや。あのまま海の藻屑と消えたかと」

「それはおかしいな。眠る前、四ヶ月ほどの記憶が抜けてる」

「四ヶ月?」

「はあ。あなたが僕のもとへ運び込まれてきたときから、およそ四ヶ月、研究所というひとつ屋根の下でいろいろとお話をしたもんですが」

「麻酔にダチュラなんか混ぜるから、おかしなことになったんじゃないですか」

 と。

 突然肩越しに言われて私はおもわず身を引いた。拍子にバランスを崩したこの背を、純血日本人とはおもえぬ青年が不服そうな顔で支えた。陽光に照らされて透けるグレーの瞳。自分の視線が釘付けになる。

 彼はおもむろに、手を私の上衣の下に忍び込ませた。おどろいてその手を掴むと青年は涼やかに微笑んだ。

「暑くありません?」

「────」

「いまね、ホッカイロ十枚くらい貼ってるから剥がしてやろうとおもって。楽になりますよ」

「ほ、かいろ」

 聞いたことのない名だ。

 暖をとるカイロといえば、懐炉のことか──と思案を巡らせるうち、彼は私の服からバリバリと音を立ててなにかを剥がすや、あっという間に十の薄板を足もとに放った。

 触れてみるとあたたかい。

 同時に、海風をうけた身体がぶるりとふるえた。なるほど一気に涼しい。足に力を込めてゆっくりと立ち上がる。青年は、またも私を支えた。

「ここは」

「熱海の港です。温泉の町、来たことは?」

「いや」

「ボートで」青年が足を鳴らす。

「南から北上してきました。あんたが眠っていた東南東小島からずっと」

「…………」

 ザザ、ザ。

 波音が耳に入る。むかしからこの音が好きだった。船底が波を越える音も、鼻をつく潮の匂いも。七十年の月日が経ったというけれど、海はなにも変わっちゃいない。

 しかしこの国は変わった。

 戦争に負け、大和が沈んで幾ばくもなく大日本帝国も沈んだのだ。

「──あのまま死んでいればよかった」

「冗談じゃない」と、青年は私の背を強く叩いた。

「あんたを起こすのだって一苦労だったんだ。巻き込まれて気の毒だとはおもうけど、役目はしっかり果たしてもらいますよ」

 役目?

 いったいどういう話だ。そもそも私はなぜ──生きている。

 けっきょく行きついた最初の疑問を胸に、私は成増を見た。


 ※

 六月も末を迎えたとある日。

 兄妹が、熱海の民宿『つむぎ』に到着したのは午前九時前のこと。

 前日、客として宿に泊まった倉田は、成増とともに兄妹を出迎えた。

「ようご両人。いい朝だなァ」

「おはようございます!」

 溌剌と挨拶する妹のうしろで、ロイは後頭部の寝癖を撫で付けながら会釈する。前日にエマの家へ泊まって六時に起きた。二年も民宿で働いていたというのに、いまだに早起きは得意じゃない。

 引っ張ってきました、とエマがうれしそうに肩をすくめる。

「布団ひっぺがしても起きないんだもの。朝から重労働で」

「そらご苦労だったなエマちゃん。まあでもここからは、お兄ちゃんに活躍してもらわなくちゃならねえ。期待しときな」

「ボートを運転するのよね。居眠りしちゃだめよ」

「わかってる」

 と、ロイがふて腐れた顔でつぶやく。

 兄妹の掛け合いにほほ笑んだ成増が、ちらと腕時計を気にした。

「定期船は、たしか午前八時から三十分のあいだに出航するんでしたね。もうそろそろこちらに戻って、港から離れているころでしょう。われわれもボートで向かいましょう」

「じゃあエマちゃんはこの間の部屋で待って──」

 と言いかけた倉田の腕に、エマがぐっと自分の腕をからめた。

「倉田のおじさまはここにいて!」

「え、いやしかし……俺が行かないと機械の操作が」

「わたし狙われているんでしょ? この一ヶ月はとくになにも無かったけれど……それでもひとりで残るのはいや」

「ああ──まいったな」

 倉田が頭を掻く。

 ボートの運転のためロイは必須だし、だれを起こさなければいけないのかは成増だけが知っている。機材の扱いさえだいじょうぶならば残れるけれど、と成増を見ると、彼は眼鏡の奥の瞳を細めてわらった。

「だいじょうぶ、なんとかやってみましょう。倉田さんも井塚文書を見てやったんでしょう。それなら僕も読めばできるはずですから」

「あ、それもそうだな。じゃあ──よろしく頼みます」

「なんかすみませんね。うちの愚妹が」

「いや彼女の言うとおりですから。じゃあ僕とロイくんで島へ向かいましょう」

 身支度を済ませ、成増とロイが部屋の戸をあける。

 出かけ際に倉田は「小此木がどこに潜んでいるともかぎらねえ」と昏い声で言った。

「人目にはつかないように気をつけて」

「……善処します」

 ロイはため息交じりに返した。

 こうしてふたりは民宿を出て、港に停泊させていたボートに乗りこみ、東南東小島へと出発する。


「さて、倉田さん」

 エマは満面の笑みで倉田ににじり寄る。

 彼女の笑みには子どもながらに艶やかな色香がある。倉田はとまどったようすで身じろいだ。

「実はきのう──兄にいろいろ聞いてしまったんです」

「えっ」

「ほんとうは秘密のことなんですよね。でもわたしがあんまりしつこいから……兄も折れて仕事の話をしてくれたんです。だけど、あんまり説明が下手なものでよく理解できなくって」

 エマは困ったように眉をさげる。

 すると倉田は「なんだよあいつ」と頭を掻きむしった。

「妹を巻き込みたくないとか言って、結局喋っちまいやがったんだな」

「あっ、あの。兄はわるくないの、わたしがほんとにしつこく聞いちゃったから──でも、それで渋々話してくれたのに、結局あまり理解できなかったなんてさすがのわたしもロイに言えなかったんです。だから倉田さんなら分かりやすく教えてくれるとおもって」

 と言ってエマは姿勢を正す。

 その瞳は緊張感に満ちていて、さぞ昨晩はおそろしい話に身を慄わせたことだろうとおもった。たしかに、今後『眠る軍人』に護衛を任せることになる以上、彼女もしっかりと理解しておくべきかもしれない。

 なによりあの保坂ロイが話してもよいと判断したのだ、と倉田はおのれのなかで言い訳をつけ、エマに向き直る。

「そうか──君のお兄さんが話すと決めたのなら、俺も無碍には断れねえなあ」

「おねがいします!」

 エマの声に力がこもる。

 妙に力のある声色におどろいたが、倉田はたいして疑念も持たずにこれまでのことを話した。


 一文字家に伝わる負の遺産、引き継がれた意志、眠る軍人の事──。


 すべてを段取りよく話し終えたころには、エマの顔はすっかりこわばってなにも喋らなくなってしまった。まるですべてが初耳と言わんばかりのリアクションである。いったいどれだけロイの説明がへたくそだったんだ──と困惑した倉田。

 その空気に気がついて、エマはようやく深呼吸をひとつした。

「あ、あの──ごめんなさい。なんと言ったらいいか、その」

「いやいや、キミの兄さんだって困惑してたさ。だれだって信じろと言われるのが無理な話だ」

「えっと、……つまり成増さんは七十年前の人で、これからわたしにつく護衛の方も七十年前の人で──みんなはねむる軍人さんの力を借りてその細菌をこの世から消そうとしてる。そういうこと?」

「まあ、そうだ。クライマックスがどうなるのか──そんなものはまだ、だれにもわからない。彼らを起こしたところで、すぐに母体が見つかって円満解決になるかどうかも分からない。すべて危険な賭けなんだ。そんなものにキミの兄貴を巻き込んじまった」

 結果的にキミのことも、と倉田は苦笑する。

 しかしそのひと言で、これまで不安げに眉をひそめていたエマの顔がキリリと変わった。

「倉田さんが巻き込んだんじゃないわ。兄は、自分から飛び込んだのよ。逃げようと思えばいくらでも逃げられたとおもう。でもそれをしなかった。なぜかわかります?」

「い、いや……」

「もうロイにとっても他人事じゃないからよ。話を聞いて、彼自身があなたに力を貸したいとおもった。ただそれだけの話──あの人ふだんはダウナーぶってるけれど、昔から芯は熱い男なの。倉田さんと気が合ったのも当然ね」

 ころころとわらって、エマは茶をいれる準備をはじめた。

 すっかりショックから立ち直ったようすにホッとして、倉田は脱力して畳にころがった。

「フフ、それにしてもロイくんはずいぶん、話の下手なやつなんだな。そうは見えなかったが」

「あ。あの、それは」

 と。

 エマが苦笑したとき、小刻みにノックが聞こえた。


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