第二章
保坂エマ
第14話 熱海の宿にて
「正直にお話しッ」
会長室である。
一文字玉枝が真司に対し、この件でこれほど剣幕に怒鳴るのは五度目になる。こうも頻繁に本社へ呼び出されては、東南東小島統括支部長の役割も果たせない。
しかし彼女を見るかぎり、事が切迫しているのは明白だった。普段、こちらが息苦しくなるほど整った髪が山姥のごとく乱れ、いつもは伸びた背筋が不安で丸まっている。
「あれからもう三月が経ちました。方々を当たっているにも関わらず、彰の消息はひとつも見えてこない。あの焼却命令のあとからですッ、彰を連れていったのでしょ?!」
「……存じ上げない、と再三申し上げたはずですが」
「どうだか。倉田という血はどうも昔から、一文字に隠れてなにかをたくらんでいた節がありますから──」
「では小此木に聞いてはいかがです?」
聞きました、と彼女は痩せたまぶたをかっぴらく。
「おまえたちは同期だそうですね、口裏を合わせている可能性もある!」
「であればどうぞ会長御自ら、東南東小島まで専務を探しに行かれたらよろしい! 方々を当たっているのだって、どうせ一文字の小判鮫だ。人に聞くばかりでなく、おのれの足をお使いなさいよ。僕だって統括支部長の仕事があるんです。こうもアンタの癇癪に付き合わされちゃあ、たまりませんからねッ」
「く、倉田──」
玉枝の肩が怒りにふるえる。
しかし真司も、負けじと叫んだ。
「倉田が一文字に怯える時代は終わりました。僕は親父ほど従順じゃないですよ。どうぞそのご立派な脳みそに叩き込んでおいてくださいッ」
吐き捨てて、会長室を出る。
興奮によって息を乱したままエレベーターホールへ向かうと、ちょうどエレベーターから降りてきた小此木と行き遭った。
「よう倉田、またお呼び出しか」
「ああ──」
「俺もだよ。でも安心しろ、俺たちはなにも知らない。なんにも見ちゃいない。だよな?」
「…………ああ」
ポン、と肩を叩き、小此木は悠々と会長室へ向かう。そのうしろ姿から目を離さぬまま、エレベーターへ乗り込む。扉がしまってようやく、真司はまばたきをひとつした。
────。
熱海民宿『つむぎ』。
港町らしく、料理長自らが沼津市場にて地魚を仕入れにいくスタイルで、夕食に出る磯料理は熱海民宿のなかでも特段にうまいと評判である。
部屋数こそ少ないが、その分ひとりの客にかかるもてなしが厚いので、リピート客も後を絶たぬのだとか。
民宿の番台には人のよさそうな老婆がひとり、ちょこんと座って真司を迎え入れた。
「あらこんにちは」
「や、どうも。上います?」
「ええ、ええ。おつきですよ」
「ありがとう」
と、番台横の階段で上にあがる。
コンコンコンコン。
二〇三号室の扉を細かく四回ノックする。これは、三人で決めた合図だった。
というのも、ここ数週間ほど『視線を感じる』とロイが訴えてきたのだ。まさか一文字の密偵か、と疑心を抱いた真司が提案したのである。
中からは、Tシャツにスウェットというラフな格好で成増が出迎えた。
「オッホホ、似合ってますよ!」
「恥ずかしいな。茶化さんでくださいよ」
「いやぁ失礼。ロイくんは?」
「ここの若女将に連れていかれました。古巣とはいえ、よほど可愛がられてたようですな」
「はっは。見るからにマダムキラーっぽいしね」
肩を揺らして、真司はちらと周囲をうかがい、部屋にあがる。
真司の頭を悩ませたのは、成増の当面の生活についてであった。
いつまでも足立区の倉田家に置くわけにもいかないが、とはいえ東南東小島の家に匿うには一文字が近すぎる。さてどうしたものか、と唸っていたときである。
ロイがおずおずと手を上げて発言した。
「オレが勤めてた民宿があるんだけど」
と。
聞けば、一文字社に引き抜かれるまではこの民宿に住み込みで働いていたのだ、と。泊まりにきた佐々木によって声をかけられるまでの二年、彼は息子のように可愛がられたと言った。
証言どおり、民宿『つむぎ』に赴くや、ロイは女将から仲居、はては番頭、料理長までもに歓迎されたのである。
成増を一定期間泊まらせたい、と交渉すると、女将の計らいによってロイが住んでいた部屋を一室貸してもらえることになったのだ。もちろん、宿の手伝いをするという条件付きだが。
こうしておよそ二週間前から、真司たちは諸々の作戦会議にふさわしい基地を手に入れたのであった。
「熱海ってのがまた助かりましたな」
「東南東小島から一番近い港ですからね。従業員の部屋だというのに景色もいいんですよ、この部屋」
「そいつはよかった」
「それで──呼び出しはどうでした」
「もう耳ダコです。知らぬ存ぜぬを通しはしましたが、焼却室を覗かれたら一発アウトでしょうな」
と、真司はネクタイをくつろがせ、スーツの上衣を脱ぐ。
「まあでもそれは、小此木が食い止めるでしょうけれど」
「…………なるほど」
成増が手を顎に当てる。
コンコンコンコン。
ノックが細かく四回聞こえた。ロイだ。真司が開ける。さっそくなにがしかを手伝わされてきたのだろう、手には従業員用の前掛けがあった。
「あ、倉田さん帰ってる」
「よう。たったいま戻ったよ、お前さんもご苦労様」
「ああこれ?」ロイが前掛けを見て苦笑する。
「オレは古巣だから覚悟してたけど。そっちはわざわざ島から本社まで、ご足労なことで」
「まあな。とはいえあのばばあも──一文字である前に母親なんだとは思ったよ。ここ三か月は息子の行方しか頭にねえ」
「でもほんとに、その専務はどこで感染したんだ。焼却中だとしたら最前線にいたアンタが感染していないのはおかしいし」
「…………」
拳を握る。
一文字彰の症状が現れるまで、彼をひとりにしたのは、焼却中と地下でノートを読んだときくらいのものだ。
とはいえ、焼却中はずっと扉の前に座っていたというから考えにくい。
一文字彰については、と成増の顔が曇る。
「感染して三か月となると、日光を避けた状態でも第二次腐敗がはじまる頃でしょう。パイロットのような母体感染でない限り、普通の腐敗兵たちは三度ほど腐敗すれば再生できなくなる」
「た、助ける方法は」
「……発症した以上は、むずかしい」
「ちくしょう」
真司がドン、と卓を叩く。
成増を起こせば光が見えると思っていた。あの地獄の釜から彰を救い出せると信じていたのに。
うなだれる真司に、ロイが首をかしげる。
「感染したのは一文字家でしょう。当然の報いじゃないすか」
「ちがうッ。アイツだけは違ったんだ。たしかに一文字家ではあったけど、でも──アイツが社を継げば、すこしはマシになるだろうと思ってた。そう思わせてくれるヤツだった!」
「…………」
「俺がしっかり見てりゃ、こんなことには──」
と、悔しさのあまりに顔を覆う。
つられてうなだれる成増に、ロイは顔を向けた。
「成増さん、感染経路について分かることは?」
「接触感染です」
「というと」
「性交などの粘膜感染、飛沫感染もそう。とにかく感染者の体液が非感染者の粘膜に触れればたちまち身体は細菌に冒されます」
「倉田さん。心当たりは?」
あるわけねえだろ、と真司が手をおろす。
「……なにせ該当社員はガラスの向こうだったんだ。感染のしようがねえんだよ」
「焼却中はね。でもアンタの話を聞くかぎりじゃ、専務がアンタから離れたのはもう一度あったはずだ」
「だって、そのあいだは小此木といっしょにいたはずだぞ。アイツがひとりになったのはそのあいだ──箱から船に戻るまでの二分足らずだ。……」
やっぱりあの島には何かある。
真司はそういって腕を組むと、むっつり黙り込んでしまった。
一瞬、おとずれた静寂。
コンコンコンコン。
ノックだ。細かく四回。──だれだ?
三人は顔を見合わせる。ロイはすばやく成増に布団をかぶせ、真司が扉に寄る。もしも一文字だったなら、成増のすがたは隠しておくべきだろう。
真司がゆっくりと扉を開ける。
隙間が五センチ開いたころ、ガッ、と扉の奥から妙に白く艶かしい脚が挟み込まれたではないか。
真司があわてて閉めんと扉を引くと、廊下で「いたーいッ」と叫び声がした。
妙に若い、女の声だ。
「だ、誰だ!?」
「扉を開けて! 脚がぁ」
もはや悲鳴である。
真司はちらとロイを見た。するとどうしたことか、彼は成増を隠すはずの布団をかぶって、成増のうしろに身を隠している。
扉に挟まれた白い脚が痛みにふるえた。これ以上は可哀想だとゆっくり扉を開けてやる。
「……────」
息を呑んだ。
身をかがめてスカートから覗く長い脚をさする。かがめた拍子に流れ落ちたきらきら輝く栗色の髪に、透明感のある白い肌。どこかで見た暗いグレーの瞳は、きりりと凛々しく、うっすら浮かぶ涙をこらえている。
「おいおい、だいじょうぶか──」
と。
声をかけた真司をキッと睨みつけ、彼女はなにも言わずに部屋のなかへ突っ込んだ。とっさに肩をつかもうと手を伸ばすも、セクハラというワードが頭をよぎる。
「ちょっとキミ」声があわてた。
しかし少女はずかずかと成増の方へ一直線に歩いてゆく。顔をひきつらせた成増が、とっさに腕を顔の前でクロスし、守りの体勢をとる。
「やっと見つけた」
「き、きみはいったい」
「ここにいるのは分かってるわッ」
「こ、え?」
成増が戸惑いの声を出す。
少女はぐっと腕を伸ばして、布団をつかむ。
「隠れてないで出てらっしゃいよ」
と、いった少女の手が布団を天高く引っ張り上げた。が、布団のなかの者も抵抗して布団を押さえつける。
チッ、と舌打ちをして、少女はからだ全体を使って布団を剥ぎ取った。
「ロイ!」
「クソッ」
それから、なおも這って逃げんとするロイに少女がかぶさったことで、嵐のようにおとずれた勝敗は決したのである。
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