第13話 秘密の研究
沈黙が重い。
生姜湯はすでに冷めていて飲めたものではなかった。沈黙を破ったのは「さて」と一拍置いた成増であった。
「軍令部の目的をおぼえていますか」
「……死なない兵隊の研究」
「そう。ほかの感染者とちがって、なぜか一向に再生能力の衰えないパイロットを見た軍令部、参謀本部は飛び上がって喜びました。一文字正蔵をはじめとする研究員の多くがその細菌に期待値をかけた。一文字は、腐敗兵使用の徹底抗戦も辞さないと言い出したのです」
「────」
「とはいえ、科学者の視点から見れば、抗体もない危険な細菌の実戦有用など一分の価値もない。そう伝えたら彼も案外あっさり納得してね。長期の研究テーマに変更しました。その際に一文字正蔵が作った研究チームの面子が、後の一文字社幹部です。……僕もそのひとりだった」
ここから彼が語った内容は、パイロットの証言をもとに始まった詳細な調査記録である。井塚ノートにも記載されていなかったらしく、倉田も一言一句聞き漏らすまいと身を乗り出した。
「パイロットが聴取の際にあげた証言のなかに、症状が出たのは南硫黄島に不時着してからだったというものがあった。だから我々は本格的にあの島の調査をはじめたんです」
南硫黄島は、当時から前人未踏に近い島であった。そのため自然の形態も独特で、新たな動植物も多く発見したそうだ。
しかしどうしてもパイロットの身体を侵食する細菌の出どころにはあたらず、半ば諦めに似た空気が漂い始めたころだったという。
「僕のほかに三名の軍人を、見たでしょう」
「────」
ハッ、と倉田は息を呑んだ。
とうとう『眠る軍人』の話である。
「もともとは四名だった。彼らは時期こそずれていたけれど、それぞれ重傷兵として僕の元に運び込まれてきました。来たときはもう瀕死だった」
「僕の元、っていうと──病院じゃなく研究室ですか」
「うん」
当時、助かる見込みの少ない重傷兵は、研究チームの元に送られたのだという。
なぜ、と倉田が聞いた。
成増はゾッとした笑みを浮かべていった。
「細菌の再生能力を借りようって、意図的に感染させるためだ」
「そ、そんなことしたら感染者が拡大して危険だ!」
「だからあの施設ができたんだよ。あのころはまだ、ワクチンさえできれば、助かる術もあると思ってたから」
「…………」
ここで驚くべきことが起きた、と成増がつづける。
「四人のうち、初めのころにやってきたふたりに投与したときだ。投与後まもなく、彼らには食欲の面で感染の兆候が見えた。──けれど、いつまで経っても腐敗はおろか、腐臭すら漂ってこなかった。彼らの身体はいたって普通の健康体のままだったんです」
「耐性があったってことですか!」
「そう。なぜか彼らは、腐敗兵にはならなかった。抗体を持っていたんですよ」
「────」
ほかの感染者とちがうところがあったのか、とロイがふてぶてしく問うた。
「うーん。そのときはね、輸血代わりに投与した南硫黄島の岩滴かも、とも思っていたんだ。でも感染者に投与しても思うような効果があった腐敗兵はいなかった」
「細菌投与以外にもいろいろやってたわけね」
「まあね。どうせ放っといたら死ぬ命だ、少しでも可能性のあることはぜんぶ試そうと思って。そのころだったかな、感染者の数が増えたんでこちらも増員したとき、井塚くんやほかの人がチームに参加してきたんです」
井塚憲広。
倉田とロイにとってもっとも身近に感じる軍人の登場だ。ふたりは互いに顔を見合わせた。
「その矢先のことでした。感染者が、これまでとは比べ物にならないほど狂暴化したんです。そのうえ、意思をもってこちらに攻撃しはじめた」
「意思を──?」
「統率者がいると言わんばかりの変貌でしたよ。あまりに危険と判断して、すぐに焼却処理を施しました。幸い、手榴弾や焼夷弾を使って跡形もなく燃やせば、普通の感染者なら死にましたので」
「…………」
一瞬、部屋は沈黙する。
ロイの横で倉田が恐る恐る口を開いた。
「例のパイロットも、焼却処理に?」
「問題はそれです」
「えっ」
唐突に頭を抱えた成増に、倉田は動揺する。
「彼は……チームにとって大切な研究対象だから焼却予定じゃなかったのだけど、腐敗兵の焼却処理をした後に彼女が──」
「彼女?」
これまでの話の中で女性が出てきたのは初めてだ。
思わずロイが問う。
「あ、井塚くんと同時期にチームに参加したまだ若い女性がね、そのパイロットと知り合いだったらしいんです。とても世話になった人だから、これ以上彼を苦しませたくないって懇願されて」
「それで燃やした」
「……うん」
「それの何が問題なんです」
という倉田に、成増は左手をぎゅっと右手で包み込んで、口許にもっていく。
死なないんです、と彼は強く言った。
「────し、死なない?」
戸惑うあまり、ロイは倉田の肘をつかんだ。
成増はうつむいた。
「いや、適切じゃないな。焼却して死んだと思った。そしたらおそろしいスピードで再生し始めたんです。銃も撃った。心臓は確かに貫通したはずだったんだ。弾をぶちこんでバラバラにだってした。けど、だけど肉塊になってもずっと動いて……細菌だけが死なないんだ」
めずらしく興奮している。
ロイは顔を青ざめて、唇をきつく結んだ。
「────そのとき、僕ははじめて、ある意味で研究が成功したのだと気付いた。僕は……」
死なない兵士。
なるほど、ある意味での研究は成功したということだ。
倉田が低く唸る。
「よく、そんな研究が外に漏れなかったですね」
「一文字社員はもちろんのこと、実験に関与していた軍令部、参謀本部の者たちも家族の命を人質に取られていました。話が漏れたら、連帯責任で殺されるはずだった」
「クソよりひでえ話だ」ロイは憤慨したように呟く。
「それほどの秘密だったってことだよ」
成増は口を閉じた。
まったく現実味のない話である。倉田もロイも、かける言葉も見つからないまま、とりあえず目の前にあった生姜湯に手を伸ばす。が、飲む気にもなれずふたたび机へ戻す。
あの三人は、と倉田が控えめに問うた。
「なぜこんなに眠りについたんです」
「守るためです」
「守る?」
「うん」
何から、と聞く前に成増は頭を掻いた。
「抗体を持つ軍人は、もともと四名だと言ったでしょ。──そのうちの初めに投与したうちのひとり、宮沢さんと言いますがね。彼はたいへん頭が良い人だった。その彼が殺されたんですよ」
「なんですって!」
殺された。
非現実じみた話のなか、突如飛び込んできた生々しいことばに倉田は目を見開く。
「彼は死ぬすこし前に、仮説を立てていました。仮説材料としたのはパイロットとほかの感染者の違い。また、ある時から突如変貌した感染者の行動です」
「違いというと──焼却しても死ぬか否かというところですか」
「そう。その違いが何故起こったのか、と考えたときに思い付くのはひとつでした。感染ルートの判明有無です」
「あ、そうか」
ほかの感染者は、パイロットや感染者から感染したことが分かっているが、パイロット自身の感染ルートは分かっていない。
たしかに、とロイはうなずいた。
「変貌した行動ってのは、
「そう。なにせ僕たちは感染者の、まるで統率者がいるかのように変貌した様を見たからね。以上の二点を材料に立てた仮説が、統率者を持つ組織的細菌、というものでした」
「…………」
ロイは変な顔をした。
人体のなかで組織を組むならばともかく、その粋を越えて細菌同士が意志疎通をしている、とでも言うのだろうか。
というのも、と成増は話をつづける。
「生物というのはすべからく、種の存続のために行動するものだ。この細菌もしかり。たとえば統率者たる細菌が宿主に寄生し、意思あって周囲に感染させて仲間を増やしながら、人の分からぬフェロモンなどで統率している可能性もある」
「……ば、ばかな!」
「もちろん、ここからは憶測ですよ。なんせそれを証明するはずの井塚くんがいないんだ」
考えてもみてください、と成増はつづけた。
「たとえば、蜂。女王蜂もフェロモンを出して自身の健康を巣の仲間に知らせますよね。それとおなじです。女王細菌に寄生された宿主から、攻撃性を増すフェロモンが出されて──」
「その他の感染者たちが、それを感じ取って細菌に操られていたとでも?」
「身体中のあらゆる細胞が細菌にとって代わられていたんだ。あり得ない話じゃない」
「パイロットが女王細菌を持っていたと?」
「うん、いや──それは違うな。彼が統率者だったなら当初から統率が取れていなけりゃおかしい。あのときまで、そんな素振りはちっともなかったんだから……」
つまり、とロイはソファに背をあずけてつぶやいた。
「パイロットの感染経路が、仮に……女王細菌を有する者から直接もらっていた可能性が高いということか」
「そう、宮沢さんはそんな仮説を立てたんです。その女王細菌を持つ何か──僕たちはそれを母体と呼んだ。母体が細菌の近くにいたら活性化し、母体の指示を仰ぐんじゃないか、とね」
「ま、待ってください。近くにって、そらつまり」
「それを検証しようとした矢先だった。宮沢さんが殺されたのは」
「…………」
「僕と井塚くんは焦りましたよ。ほんとうなら母体を特定してすべて終わらせたかったが──その見通しがない状態で、抗体を持つひとりが殺された。となれば、ワクチン製造の手がかりになるだろう抗体を持つ三名を、なんとしても守り通す必要があった。幸いに敵は所内にいるはずだから、と」
「それで……」
「うん」
三名の軍人を眠らせた、と彼はうっすらとわらった。
いったい当時の技術力でどうやって眠らせたというのか。医学部出身である倉田にとって、不可解なのはそこだった。
しかしそれを問うにも、成増の反応は鈍かった。先ほどまで饒舌に語っていたとは思えないほどの口の重さである。
それがさ、と彼は眉を下げた。
「ぽっかり記憶が抜けてるんだよ、入眠前の数日間。覚えているのは麻酔にダチュラを混ぜたことくらいか──それからは僕も意識を失ったから」
「なぜ、成増さんまで」
「もともとこんなに長く眠る予定じゃなかった。七十年なんて拷問ですよ。ただね、……母体解明がいつになるか分からないから、と井塚くんが僕にも眠るように言ったんだ。彼らが目覚めたときにもしも僕らふたりがどちらも感染や死亡しているなんてことになったら困るからって」
井塚の判断は、正しかった。
結果的に時はおよそ七十年が過ぎ去って、この現状を説明できる人間は誰一人いなかったのだから。
「七十年経ってるんだ。母体がすでに死んでいる可能性は?」
「……老化で死ぬことはないと思う。現に、いまでも出所不明の感染者が出ているというのはそういうことだろう」
「…………」
倉田がくちびるを噛み締める。
ロイはぎろりと成増をにらみつけた。
「それで、オレたちのゴールは?」
「ああ。まずは本当に──二人にはこんな、とばっちりでしかないことをお願いしてしまって、申し訳ない。だからこそこんなこと後の世にまで先延ばしをしてはいけない。僕たちの成すべきことはふたつ」
成増は、こちらを交互に見る。
優しげな眉を引き締めて、いった。
「母体の明確化と、その息の根を止めること」
感染者たちを永久の時間から救い出すんだ、と。
彼の言葉は、ふたりの背にずしりと重くのしかかっている。
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