第4話 必然
訪ねたはいいが、住職は寄り合いに参加しているとかで不在だった。夫人は私を見るや「あら倉田さんところの」と歓迎してくれた。
かなりの高齢だが、しゃきしゃきと働く元気な老婦人である。
「そちらは? あらお着物が似合うこと──」
「そのことで少し聞きたいことがあって」
「え?」
夫人はきょとんとした。私は口を開く。親しい間柄でもない相手にみずから喋ろうとする自分におどろきだ。朝までは『家が違います』すら言えなかったのに。
「ここに、杉崎家のお墓あるっスよね。えっと、うちの墓の後ろ向かいくらいに」
「ええ、はいはい。多江さんの」
「そうです!」
と。
これまで小さくなっていた杉崎が身を乗り出す。
「自分は、杉崎の──縁者なのですが。いまだに墓が残っていて驚いて。墓守りをしてくれる親戚なども思い当たらんもんですから、どなたがその、守ってくれておるんだろうと思って。礼がしたいのです。……お教え願えませんか」
という彼を見てから、なぜか私を見て、夫人は眉を下げた。
「あら、──和真くんご存じなかったの」
「え?」
「多江さんのお葬式、倉田文彦さんがお挙げなすったのよ」
倉田文彦。私の祖父である。
驚きのあまり、
「ええっ」と、十年ぶりくらいの大声を出した。
「じいちゃんが!」
「そうよ。多江さんのご納骨のときにね、倉田さんたら杉崎さんの家にはまだ一人息子がいるから、墓じまいしては可哀そうだって──うちの方丈さんに必死に頼み込んで。きっと帰ってくるから、お檀家料を肩代わるっておっしゃったのよ」
「…………」
「文彦さんが亡くなってからは喜代子さんが。喜代子さんのあとは貴方のお父さんの真司さんが、ずっと杉崎さんの分まで守ってくれているのよ。多分、和真くんもそのうち真司さんから聞けると思うわ。だから私から聞いたってことは、内緒ね」
夫人はそこまで言うと「あらいやだ、お茶も出さないで」と緩慢な動きで台所に立った。
衝撃の新事実に私はおもわず杉崎を見る。
案の定、彼は瞳いっぱいに涙をためて、己の膝上に置いた拳を見つめていた。
(また泣いた)
本日四回目になる、杉崎の男泣きである。
会って初日でここまで泣かれるとさすがの私も慣れてきた。昔の日本男児は涙を流さない、と聞いたことがあるが、杉崎茂孝という男は規格外に涙もろいらしい。
「──くそ、なぜ、この七十年間で一度たりとてここに戻ることが適わなかったんだろう。戻っていれば、こんな口惜しいこともなかったのにッ」
「そんな、」
そんなことを言うなら、七十年後に戻ってこられたことの方が奇跡である。
それより、と身を乗り出した。
「多江さんは空襲からも生き残っていたのに、空襲直後にあそこに倉田の家を建てたことの方が問題じゃないスか。多江さんは一体どうしていたんだろう」
「それは……それもそうだ。おふくろはどうしてたんだ」
はた、と杉崎は涙をぬぐった。彼がおのれの涙をぬぐう姿もだいぶ見慣れたものだ。
「さっきの話からして、うちの親が知ってそうだけど」
「うん。──とすると、君は大恩人の孫ってか。もう頭が上がらんな」
「いや、そんな」
「あとの問題は、俺がなぜこの姿のままどこからどうやってここに帰ってきたか、だ」
「それもあった」
「まあいいよ。ひとつずつ片していこうや」
と、言ったのと同じタイミングで、夫人がお茶と茶菓子を盆にのせて持ってきた。
クッキーのようだ。
「どうぞ、召し上がって」
「ありがとうございます」
と、無遠慮にクッキーを食べる。
以前父に「寺院で出てくる菓子は大抵高級なものだから食えるだけ食え」と言われてから、私はその教えを守るようにしていた。
私の食べる様子をじっと見ていた杉崎は、まじまじとクッキーを眺める。
「ビスケットか」
「クッキーっス、軍曹」
「クッキィ」
高級クッキーをひとつ手に取り、恐る恐る口に運ぶ彼の姿は、なんだか間抜けで面白い。
「んん」
彼の瞳は恋をしたように輝いた。
頬が落ちそうだ、と嬉しそうに報告してくる杉崎に、夫人は小さく笑む。
「あなた、多江さんに似てるわねえ」
「はっ?」
「もう五十年より前だけど、多江さんがクッキー食べようとした時もおんなじ顔していらしたことは、はっきり覚えてるのよう。あの人、本当にきれいな人でいらしたから」
「に、似てますか」
「うん。ずっと行方知れずの息子さんが、時を超えて帰ってらしたのかと思ったわ。お着物だし」
「ははは」
杉崎は、真っ赤になった目頭を隠すように下を向いた。
本日五度目の男泣きのようだった。
寺を辞したのは、夕方六時を回ったころである。あたりはまだ明るいが、蝉の鳴き声はいつしかひぐらしの声に代わっている。
すっかり泣き疲れたか、杉崎は眠そうに落ちてくる瞼をしきりにこすった。まるで小さな子どもである。私は喉の奥でクッとわらう。
そういえば、彼の年齢を未だに聞いていない。その雄々しい身体つきは、三十歳を超えた大人に見えるが。
「杉崎さんってペリリュー島で捕虜になったとき、何歳だったんスか」
「ええっと、ひふみの……二十三」
「二十三歳!」
「和真はいくつだよ」
「おれ、十五」
「なんだまだ青臭いガキじゃねえか。まあ見たまんまだけど」
「…………」
「俺の十五歳は中学校に通っていたなァ。十七歳のときに陸軍へ志願してさ」
と、懐かしむように瞳を細める。
「志願したんスか」
「うん。みち子が生まれたばっかしだったから、家に金を入れたくてね」
「へえ──」
倉田家に戻ってきた。
つっかけを脱いで、杉崎が座敷にあがる。
「キミ、ひとり住まいといったか」
「うん。──本当はばあちゃんと住むはずだったんだけど。あ、さっきお寺のおばちゃんが喜代子さんって言ってた人。おれがここに引っ越してすぐに死んじゃって」
「そうかい。そいつァ寂しかったろう、ご両親は?」
「母さんは東京の足立区で、親父は離れ小島に単身赴任中」
私は台所にて冷蔵庫を覗く。
へえ、と壁を隔てた座敷から声がする。
「ずいぶん遠いな。じゃあご両親のところに電報打たないとね」
「でん──え?」
「電報」
「いや、あとで電話で聞くよ」
「電話?」
と、杉崎は驚いた顔で台所を覗いてきた。
人参と玉ねぎ、豚肉を手にした私はきょとんとした顔で見返す。
「あるの」
「あ、あるよ。今時持っていない人の方が稀」
「はあ!」
台所から顔を引っ込めた。
なにやら室内を物色している気配がする。
「薄々、実はキミの家って金持ちなんじゃないかと思っておったんだけれど……世の中自体がそこまで進歩しているということなのかァ──いやたまげた。なあ和真」
「んー」
「こっちの部屋は入ってもよいのかな」
「どうぞ──仏間だけど」
「それを早く言えよ。ご挨拶が遅れてしまった」
と言うや、彼はさっさと仏間に入っていった。
米をとぎ野菜を切って肉に下味をつけながら、
(自分が戦前の様子を知らないと、会話がかみ合わないな)
とぼんやり思う。
きっといまごろ、当たり前のように仏壇の前で静かに合掌していることだろう。そんなことすら、平成の今では習慣になっていない家も増えている。
七十年というブランクは、文化的に見てもあまりに長い。
「ブロッコリーなんて見たことあるんかな──」
傍らに茹で上げられたブロッコリーをちらりと見た。
ブロッコリーは、低温保存をしないと変色が進んでしまうため世間一般に流通されたのは昭和も終わりのころである。──なんていうのはあとから知ったことで、当然、当時の私にそんな知識はない。
さあ、米の炊き上がりはあと何分だ。
と炊飯器を見た瞬間、仏間から杉崎の低い声が聞こえてきた。
驚いたような声色である。
「どうしたんスかァ」
慌てて仏間へ向かう。
見ると、杉崎は本日六度目の男泣きをしているではないか。
「えっ!?」
「か、和真──」
見知らぬ故人を想って、涙が出てきてしまったのか。と、おそるおそる杉崎の手元を覗く。
ひとつの写真立てを持っていた。
「だ、大丈夫?」
「お母さんがおった────」
「お母さん?」
彼の手元にある写真立てには、非常に綺麗な女性が写っている。女優で言えば、吉瀬美智子似であろうか。理知的で溌溂とした笑顔を浮かべている。
「こ、この人が」
「俺のお母さんだ──ここにおったのだ。ここに」
杉崎は、涙をこぼしながら仏壇の隣に据え付けられた机を指さした。
なんということだ。
何度か祖父母の家に遊びに来たことのある私だが、少しも気が付かなかった。というよりは、仏間の雰囲気が子どもにとっては少し怖くて、あまり近寄らなかったということもある。なんにせよ、ようやくわかった。
祖父倉田文彦が赤の他人である杉崎多江の葬式をあげた理由も、宝徳寺にある杉崎家の墓を倉田家が守っていたことも。
理由はいまだ不明とはいえ、おそらく杉崎多江はこの倉田家に身を寄せていたのだろう。でなければ同じ仏壇のなか、位牌まで祀られているわけはない。
「杉崎さんのお母さんって、昭和四十三年に亡くなっているんスよね」
「ああ──そう書いてあったな」
「だとしたら、うちの親父はここでいっしょに暮らしているはずだよ。たったの数年だけど──昭和三十五年に生まれているから」
「……そ、それはホントか?」
「大事な生き証人スね」
うなずいた。確信したのだ。
私と杉崎がこうして出会ったことは、決して偶然ではなかった。
数十年も昔から、なんらかを理由として脈々と継がれてきた縁の結果に過ぎなかったのである。
私は立ち上がる。
「杉崎さん、飯食うときは泣かないでね」
「馬鹿野郎。俺がいつ泣いたというんだ」
「…………」
ご飯が炊けた音がした。
あとは、豚肉を炒めるだけである。
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