第2話 奇縁

(ホントに、軍人ごっこじゃないんだ──)

 と。

 私が納得したのは、それから小一時間ほど経った頃のことであった。

 小田原城址内のベンチに腰掛け、うなだれる彼。大切に握りしめたアイスの棒と、まくられた袖から覗く左腕に見える痛々しい傷跡が、ちぐはぐで可笑しいのに、私はわらう気も起こらない。

 小一時間前、男は泣いていた。


 ──小田原城。

 じっと立ち尽くす男が口をひらく。

「ここ小田原城だろ。俺の、俺の故郷──まさか母国に帰ってきたのか、俺が? …………」

 彼は、小さな声で「母国」と繰り返す。みるみるうちにその双眸に涙が溜まり、零れ落ちた。ひどく痛々しいその泣き顔に、私はとうとうなにも言えなくなってしまって、おなじく立ち尽くす。

 すると男は、勢いよく私の両腕をつかんだ。

 たのむ、と涙を流しながら濡れた瞳をまっすぐこちらへ向けている。

「ちょ、」

「教えてくれッ」

 男はさけぶ。

「いったいこれはどうなってるんだ。えっ?」

「お、落ち着」

「訳が分からんのだ。いまは何時で、ここは何処なんだ」

「だから、」

「──戦争はどうなったんだよッ」

「お、終わったよ!」

 やけくそにさけんだ。

 杉崎の動きが止まる。

「き、今日は二〇一五年八月一日。終戦が一九四五年だから──七十年。戦後七十年目!」

「戦後、な、七十年?」

「昭和が終わって、平成になって二十七年経ってる。日本は負けた」

 戦争に負けたんだ、と。

 勢いのままにさけんだことばだったが、それは彼の胸を深く、深くえぐったようだった。ゆっくりと私の腕から手を離す。よろめき、膝から崩れ落ちた。

「…………、……」

 三度涙を浮かべて、照り付けるアスファルトの熱さも気にせず、その熱を冷やすように涙を地に落としてゆく。

 もはやすっかり他人事ではなくなって、私は彼のそばにしゃがみこむ。

「お兄さんの言うとおり、ここは神奈川県小田原市で、この場所は小田原城址で──」

「…………ほ、ほんとうに?」

「うん……」

「七十年?」

「はい」

「そ、…………いや。町もなんも変わっちまって、分からなかった。でも、城はわかったよ。ちっと小綺麗になったけれど昔とそう変わっちゃいない。そう、そうか──」

 といって、乱暴に涙をぬぐった。

 私はホッと息を吐く。

 これが仮に軍人ごっこだとしても、そんなことはもうどうでもよかった。彼が涙を流す姿はなぜだかどうして、胸にくる。

 それからほどなく、人通りが多くなってきたことに気がついた私は、男の手を引いて、城址公園内へと連れだったのであった。


 ────。

「自分は、大日本帝国陸軍人杉崎茂孝軍曹。戦地を幾度か動き、昭和十九年にペ島攻略を任命された」

 と。

 指先を揃えて敬礼をした彼が、おのれの名を名乗ったのは、ベンチに腰掛けてすぐのことだった。

 おかしな話だ、と男は敬礼を解く。

「ペ島攻略から記憶が曖昧で──実は先ほど、人の気配を感じてようやく目が覚めたところだった」

 嗚呼、と私は納得した。

 あのとき、鉄帽を目深にかぶり動かなかったのは、暑くてうなだれていたのではなく眠っていたからだったのだ。

 ただよう静寂。

 杉崎が膝に抱えた鉄帽が、チリチリと陽光を反射させる。やがて彼は

「静かだな」

 と、のぼせた声でつぶやいた。

「静かだけど──気持ちいいや。ここはガキの頃の遊び場でさ。もう俺の庭みたいなもんだった。ここからなら、目をつぶってだって家に帰れたぜ」

「へえ、家に。…………家?」

 頭に引っ掛かるものがある。

 大日本帝国陸軍人、杉崎茂孝。

(杉崎?)

 どこかで聞いた名だった。どこでだっけ。どこで──。


 ──こちらは杉崎茂孝すぎさきしげたか分隊長のご自宅でよろしいでしょうか。


「あっ」

 と、私はおもわず立ち上がった。

 昼頃に来訪したあの老人──宍倉と名乗ったあの男性が、たしか杉崎茂孝という人物の家を探していたのを思い出したのだ。

「し、宍倉」

「どうした」

「宍倉ってひと、さっきうちにアンタを訪ねてきたんスけど──知ってますか」

 聞くなり、杉崎と名乗った男は瞳を輝かせてうなずいた。

「知っているとも!」

 と、大きな声で。

「杉崎分隊所属の、つまり俺の部下だ。彼もいっしょにペ島で捕虜になったけども、生きておったんか」

 彼はホッとわらう。

 が、かえって私の頬はひきつった。まさか、そんな偶然があってたまるものか、と。ただでさえ、目の前に年もとらない七十年前の軍人があらわれたというだけでも、おかしな話なのに──。

 宍倉は、と杉崎がガリガリ頭を掻いてつづけた。

「結婚して、小田原に越したと言っていたっけな。そうか、俺の実家が小田原にあることを覚えとったんだな」

「あの、伝言」

「え?」

「宍倉さんから──お世話になりましたとか、また会える日を楽しみにしています、とかそんなこと」

「……────」

 杉崎はむっつりと黙りこんだ。

 また涙を堪えているのだろうかとドキドキしたが、意外にも彼は笑顔で「どんな様子だった」と聞いてきた。

「あ、元気そうな爺さんだった。姿勢がよくて、笑顔で」

「ジジイになったのか、そうか──じゃあ本当に、七十年経ったんだな」

「…………」

 私は口をつぐむ。

 蝉の鳴き声が一気にボリュームを上げた。

 人の一生で考えたとき、七十年という時間はあまりにも長すぎる。全うすることすらできないこともあるのに。

 杉崎はいま、失った七十年間の記憶と、当時のままの肉体を持って、この平成二十七年の空気をただ黙って感じている。

 私はそれが、気の毒でならなかった。だからいった。

「……目ェつぶって、家に帰ってみますか」

「…………」

 すると彼はおもむろに鉄帽をくるりと回し、空を見上げ、それからたいそう嬉しそうな顔で私を見たのだ。

「帰ろう!」

 パッカーン、と。

 竹を割るような潔さに、私は人知れず感動したのをいまでも覚えている。

 こうして私たちは小田原城址をあとにした。

 脱帽した彼は、凛とした眉が際立って殊更男前である。ただでさえ軍服が目立つというのに、その整った顔立ちによって男女どちらの目線も釘付けにしていた。

 私はといえば、目立ちたくなくて一度、軍服の上着を脱ぐようお願いしたが、彼のからだに刻まれた傷痕がさらに目立ったので、仕方なく再度の着用をお願いした。

 身を縮めて視線から逃げる私を見て、彼は楽しそうにわらう。

 太陽のような笑顔だとおもった。


 ※

「はぁ、ずいぶん変わっちまったなァ──こりゃ目をつぶったら自動車に轢かれっちまうよ」

 と、杉崎が頭を掻く。

「背のでかい建物ばかりだ。昔はさ、こうやって振り返ったらいつまでも城が見えたもんだけど、なんだかちっとも見えやしねえ」

「へえ」

 私はぼんやりと町を見る。

 戦時中と現代で市中が見違えてしまったのも無理はないことである。というのも小田原市は当時、記録に残っていないが数度の空襲を受けたそうである。

 とくに本町付近は、終戦日である八月十五日、無差別空襲により甚大な被害を受けたそうだ。祖母が住んでいた倉田家こそ、空襲で焼け野原となったところに祖父が一から家を建てたものだと聞いている。

「わかんないのも無理ないスよ。空襲で焼けた町だし」

「なに」杉崎の足が止まる。「空襲?」

「うん。八月十五日──終戦直前に、このあたりはかなり焼けたって聞いた」

 と、何気なく言った私のことばに、彼はひどくショックを受けたようすだった。

「…………」

 本土での空襲被害について、戦地では聞いていないのか。あるいは聞いていたとしても、ぽっかりと消えた空白の記憶に紛れているのか。

 頭のなかに残った古い地図をたよりに、彼はトボトボと歩みを進める。哀愁を背負うその背中はまるで、帰る場所を知らない犬のよう。

 私はかけることばも見つからず、ただ彼のあとを追った。


 彼が横道に入る。

(おいおい、そっちは──)

 と、私の心臓が脈打った。

 彼が迷いなく歩みを進め「このあたりだと思う」と立ち止まった、眼前の大きな平屋建て家屋に絶句する。と、同時に昼の老人の謎もこれでわかった。

(そんなことってあるかよ)

 と、ことばを失う私をよそに、彼は嬉しそうに手を広げた。

「来る途中に古清水旅館の看板があったろう。旅館はもうなくなっちまってたけどさ。あっこからよくここの道にかけて、走り回ってたもんだったよ。あの道を曲がって、ふたつ先のここ。まさしくこの家の場所に建ってたんだ。俺の家」

「…………」

「どうした、キミ」

 杉崎がぐっとこちらを覗き込む。

 このとき、いまだ若き青少年の胸に込み上げた想いは、倍の歳を食ったいまでもはっきりと残っている。

 ──哀歓と憂愁。

 胸をえぐられるような、えも言われぬ心情に囚われて、やっとの想いで吐き出した声はひどく掠れふるえた。

「ここ、おれの家なんです、よ」

「なんだって」

「おれのっていうか、おれのばあちゃんが住んでたんス。ちょっと前に死んじゃって、いまはおれひとりスけど──この家は、空襲のあとにじいちゃんが建てたって聞いてたから。その、……」

 そこまで言って、私はあわてて口をつぐんだ。

 自分の紡ぎ出すことばの意味がひどく残酷なものであることに気がついたからである。これではまるで、空襲によって彼の居場所すべてが焼き尽くされたと言いきっているようなものだ。

 案の定、彼は目を見開いたまま閉口した。

 また泣くだろうか──と私はおそるおそる彼を見る。しかし、意外にもその凛々しい瞳はいまだ目を見開いて、なぜか私をじっと見つめていた。

「あ、あの」

「やあ。自分のことばかりですっかり失念していたけれど、キミがいったい何者かをまだ聞いていなかったなとおもって。名前も、歳も聞いてないだろ」

「あ、そうだっけ。……かずま。倉田和真」

「かずまってどう書くんだい。なに、和に真? へえ、いい名だ」

 彼はうれしそうに私の手をとり、ぶんぶんと振った。

 かと思ったら私の肩を抱き、平屋を見上げて「ああ」としたり顔でうなずいている。

「だから宍倉のヤツ、ここがまだ杉崎家だと勘違いしてやってきたんだなきっと。しかし驚いた、こんな偶然があるもんなのか。事実は小説より奇なりってのは本当だぜ。な、和真」

「──ハイ」

 きっとこのときの私は、赤面していたのだろうと思う。

 このひと言すらやっとの思いで吐き出したものだった。なぜって、こうもフレンドリーに他人から接触されることに慣れていなかったからである。それになにより、彼が浮かべる屈託のない笑みに強く惹かれていたからかもしれない。

 あわてて身を離し、私は「どうぞ」と門を開けた。

「築七十年だからボロボロだけど」

「いいのかい」彼はまたわらった。

 お邪魔します、と威勢よく言った杉崎。

 私は、

「──おかえりなさい」

 と声をかけた。

 彼は、照れたように頬を掻いて「ただいま」と言った。

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