第一章

倉田和真

第1話 出逢い

 親に似つかぬ根暗な性格が災いし、昔から友人がいなかった。

 中学時代はヤンキーと呼ばれる人種からターゲットにされ、肩を怒らせた同級生に金をむしりとられたものだった。悔しくて泣いたことも、一度や二度ではない。

 地元の人間関係に辟易した私は、高校進学先を遠方にある父方の実家近くに決め、卒業後は逃げるように単身そちらへ身を移した。

 祖父が昨年鬼籍に入り、祖母がひとりになってしまったことが気がかりだったのもある。


 神奈川県小田原市本町──。

 東京の酒臭いビルに囲まれた環境から一転、海や山、昭和風情溢れる景観とおおらかな気性の町民に囲まれて、私のすさんだ心はとても癒された。なにより元中出身者がいないというのも、救いだったと思う。

 大好きな祖母とのふたり暮らし、華々しき高校入学。この地ならばやり直せる──と踏み出した矢先のこと。

 祖母がぽっくりと逝った。

 私は悲しみに暮れたが、とはいえ高校を変えるわけにもいかず、祖母の家で一人暮らしをすることとなった。といっても、単身赴任の父に代わり、普段から炊事家事を手伝っていたし、幸いに金銭援助も受けられたので、最低限の心配はなかった。

 そうして高校入学後、四か月を経た夏休み。


 事の始まりは、突然の訪問者であった。


 ※

「ごめんください」

 平成二十七年、八月上旬。

 この日は、ひときわ茹だるような暑さで、私は扇風機の前でうたた寝をしていた。夢うつつの耳に突然、年嵩のわりにはっきりとした男の声が飛び込んできたのである。


 声は、裏庭からのようだった。

 タンクトップにパンツという恰好だったので、あわてて半ズボンを履く。

 縁側から庭へ降り、裏庭へまわると、この暑さながら汗ひとつない小柄な老人が、杖をついて立っていた。

「────」

 知らない顔である。

 老人は姿勢よく杖を握りしめ、その齢にしては驚くほど、ハキハキと喋りはじめた。


「こちらは、杉崎茂孝すぎさきしげたか分隊長のご自宅でよろしいでしょうか。私、──宍倉ししくらと申しますが。分隊長はおられますか」


(…………)

 スギサキシゲタカブンタイチョウ。

 ──聞かない名前だ。


「いや」

 口ごもる。

 門前の表札には『倉田』と掲げているはずだが、見ていないのだろうか。コミュニケーション能力の欠如によって『家が違います』とも言えず、だんまりを通す。

 しかし、老人はその反応を見てもなお、笑顔で胸を張った。


「まだ、お帰りになっていないのですね。それは残念でした。こちらにお伺いすることはもうありませんが──どうぞ、お帰りになったら杉崎分隊所属の宍倉から、大変お世話になりました、いずれまたお会いできることを楽しみにしております、とお伝えくだされ」


「え──ぁ、ス」

 失語症のような返答である。

 暑さのせいか、緊張のせいか、だくだくと流れる汗をぬぐう。戸惑い動けずにいると、老人は三度笑みを浮かべて、

「それでは」

 と、深々と頭を下げた。

 踵を返し、後ろの藪へ歩いてゆく。

 歩いているのに、浮いているような違和感を覚えたのは、自分の頭が暑さのあまりぼうとしていたからだろうか。

 私はぎゅ、と目をつぶる。

 ふたたび目を開けると、すでに老人の姿はなくなっていた。


(暑い──)

 この年の夏はとくに湿気がひどかった。

 庭の木で蝉が鳴く。やかましい声である。日光の下でぼんやり聞いていると脳みそが麻痺しそうだ。ノイズが、侵食してくるのだ。

(だめだ、アイス食べよう)

 首を振って、縁側から部屋に戻る。

 冷凍庫にはアイスの空き箱が転がっていた。そういえば昨日の夜に食べた分で最後だったっけ。

 仕方ない。財布を手に取って表玄関から外に出る。

 ついでに老人の行方を気にしてみたけれど、周囲にその姿はない。足音も、杖をつく音さえ聞こえなかった。


 ────。

(あっついなァ、クソ)

 家から徒歩十分先にある駄菓子屋へ向かう。

 それまでの夏は、街の喧騒や排気ガスの臭いに辟易して、外出することすら億劫だった。休みに外へ繰り出す友人もいなかったので、こんな風にアスファルトを反射した太陽熱が足をじりじりと焦がす感覚もどこか新しい。

 高校では、良き友人が数名できた。

 といってもクラスメイトとして話すだけで、外で遊んだことはない。運動部に所属したという彼らは、今ごろ高校のグラウンドで自己研鑽に励んでいることだろう。

 額から汗が、また。

 国道から外れた道には、ワゴン車が一台。ほかに人影は見当たらない。この暑さならば無理もない。


 赤茶けた駄菓子屋の看板が見える。

(なんだあれ)

 目をうたがった。

 入口の右横に据え付けられたベンチに座る、体格のよい男がひとり。鉄の帽子をかぶり、顔は伏せていて見えないが問題はそこではなかった。

 彼の服装が、やおら真夏とは思えないものだったのである。

 カーキ色のジャケットとズボンを着用し、ゲートルを巻く足元。その様相はまるで、テレビドラマで見た軍人そのものだ。

 そういえば東京にいたころ、秋葉原のミリタリーショップで似たような服を見た。大日本帝国陸軍人が着用する制服だとかなんとか──。

(……この猛暑日に、軍人のコスプレとは恐れ入るぜ)

 私はすこし、男から距離をとって駄菓子屋へ入った。

「いらっしゃい」

 番台に、背の丸まった老女がひとり。

 たしか稲田ウメといった。扇風機を回し、団扇でゆっくりと首元を仰ぎテレビを見るのが、彼女のスタイルだった。

「ちは」

 と言ったつもりだったが、口の中でもごもごとした程度で、彼女に声が届いたかはわからない。案の定、ウメは緩慢な動きでこちらをじろりと見た。

 目が合った。

 途端、彼女は「倉田さんちの和真くん」と顔をくしゃりと潰して笑った。

 祖母の古い友人だと聞いた。

 死亡通知状を受けとった際も、真っ先に弔問に来たほどで、通夜から葬儀にかけては随分と世話になった。当時の私が目をみて話せる数少ない人物である。

「アイス買いに来たの? さっきソーダ味がいっぱい売れちまってねえ。まだ残っているかしら」

 ウメは、番台からのっそりと立ち上がる。

 とっさに「おれ、見るよ」と昔ながらの冷凍ショーケースを覗く。残っているのはチョコ味とソーダ味が一本ずつ。内容を伝えるとウメはにこにこ笑って「一本おまけしてあげる」と言った。

「さあこれでアイスは完売だ。和真くんは、腹壊すんでないよ」

「ありがとう」

 アイス一本分の代金を支払う。彼女は「またおいで」と手を振った。


 店を出る。

 男はまだそこにいた。鉄帽を深くかぶったままベンチに深く腰掛け、先ほど見たときから一ミリも動いた気配がない。

(死んでないよな?)

 と、彼の胸元を見ると、わずかに上下しているのが見える。ホッとして横に腰掛けた。その拍子に、ピクリと動いた広い肩。

 鉄帽を目深にかぶる顔がワンテンポ遅れてあがる。ゆっくりと、こちらを見た。

「…………」

 すっきりとした顔立ち、太く凛々しい眉とすこし垂れた瞳が力強い。彼はなぜか、驚いたように目を見開いている。

(な、なんだよ)

 その目力に心は引いたが、身体は引くにも引けない。いまさら立ち上がっては感じ悪くなってしまう。私はあわてて袋からチョコアイスを取り出し、男の顔前に突き付けた。

「あ、アイス。買ったらおまけでもらったんで、よかったら」

 自棄糞やけくそじみた声になった。

 なにせ男は、チョコアイスを不可解な形相で見つめたまま言葉を発しない。慣れぬことをした緊張感と沈黙が痛くて、泣きそうだ。

「ソーダのがいいスかね」声が震える。

 すると、彼はようやく口を開いた。


「──こいつァなんだい」


 想像していたものよりも低い声だった。

 質問の意図が分からずに、私は汗をぬぐう。

「ち、チョコアイス」

「アイス、アイスキャンデーか」

「──あ」

 アイスキャンデー。

 その言葉でピンときた。

 この男、軍人のコスプレをやっているくらいだ。きっといまは、中身まで軍人になりきっている。アイスキャンデーという贅沢品は、久しく食べていない設定でいるのだろう。

 そうと分かれば、こちらもそれに合わせてやるまでだ。ふたたび「そう」と差し出す。

「アイス──」

 と、チョコアイスの棒を親指と人差し指で優しくつかんだ。ようやくチョコアイスが自分の手から離れて、緊張を吐き出すように深呼吸をする。

 男がアイスを口に運ぶ。

 おれもソーダ味を食べよう、と袋から取り出したときである。となりで鼻をすする音が聞こえた。

(え、)

 男を見る。

 なんとアイスを食べながら、涙を幾筋も流しているではないか。

「…………えっ?!」

 おもわずさけんだ。

 しかし彼は、ゆっくりと咀嚼しては味を噛み締める。これだけうまそうに食べられるのなら、チョコアイスも本望というものだろう。

 とはいえ泣かれたら居心地がわるい。

(やっぱり食べながら帰ろ)

 立ち上がり、一歩を踏み出したときだった。


「待てよ」

 と、強く腕を掴まれた。

 男はベンチから立ち上がり、ぬっとこちらを見下ろす。でかい。その猛々しい体躯を前に、気分は猛虎に睨まれた子狐である。

 しかし彼は、パッと人懐っこくわらった。

「アイスキャンデーありがとう。この恩は生涯忘れないよ。せめてなにか恩返しをさせてくれ」

「え」

「あいにくと、いま金がないんだ。力仕事なんかは得意なんだけれども」

「や、や。いらないス、そんな」

 アイスならきのうも食ったし、とつぶやくも、彼は聞いているのかいないのか、アイスの棒をうっとりと眺めている。

「だってさ……開戦からこっち、あんな甘いもの食べたことがなかった。君だってそうだろうに、それを人に分けてやるなんて、なかなかできることじゃない」

「開戦?」ハッとした。

 そうだ。

 この男はいま、身も心も軍人になっているのだった。

(いつまで続くんだ、この茶番は!)

 と、私は内心で吐き捨てる。

 単なる保身だったのに、演技とはいえそこまで感謝されてしまっては、くすぐったいやら面倒くさいやら。

 いや、とあわてて手を振り首を振る。

「ホント大したことじゃないんで」

「でも……」

「気にしないでホントに」

 と、なにか言いたげな顔の男を背に、私は逃げるように駄菓子屋を後にした。


 ──が、軍人コスプレの男はずっとついてくる。恐怖のあまり、溶けたアイスでベトベトになった手に構う余裕もない。

 逃げるように角を曲がる。

 家が知られるのも怖いので、反対方向にひたすら早歩きで進みつづけた。やがてひらける景色。右手に見えるお堀と奥にそびえる天守閣──。

 この町のシンボル、小田原城址である。

 わずかに人通りも増えてくる。人の目がある。よかった、と安心したことで心に余裕ができた私が、思いきって男にひと言浴びせてやろうと、足を止めたときだった。

 

「そんな馬鹿なッ」


 先に声をあげたのは、うしろの男だった。

 あまりの悲痛な声にあわてて振り返る。

 そんな馬鹿な──と、ちいさく繰り返した男は、眼前に広がる光景を目に、ただ呆然と立ち尽くしていた。


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