遊佐倖楓
小学六年生だった私にとって、あの日が訪れたのは本当に突然のことだった――。
昨日までと同じ教室とは思えない空気が流れていた。
クラスの誰もが彼に近寄らず、冷たい眼を向けるだけ。彼は辛そうにしているのに、本人がそれを当然の様に受け入れている。
――明らかな異常。いくら鈍いこの頃の私でも、それくらいはわかった。
だから私だけでも『ゆーくん』の傍に行こうと思った。でも、それを周りの人間が、彼自身すらも許してくれなかった。
――どうしてあの時、無理にでも一緒にいてあげられなかったのだろう。
今も抱くこの後悔に気付くことも出来ないまま、
だから、彼の家へ直接会いに行った。家から出てきたのは彼のお母さんで、彼とは会えなかった。
「
それなら、待っていたらいつか会いに来てくれるかもしれない、と何も知らない私は簡単にそう決めつけてしまった――。
気が付けば、彼から会いに来てくれることも、顔も見ることもなく、私は中学生になっていた。会いに来るどころか、その中学校には彼の姿は名前の文字すらも無かった――。
母にまた尋ねると、違う学区にある中学校へ進学したと言う。
母は「少し遠く」と言っていたけれど、嘘だ。そんなの、私にとっては別の世界に行ってしまったのと同義だ。
彼のお母さんはああ言ってくれたけど、もう信じられなくなっていた。
――きっと、私は嫌われてしまったんだ。だから家が目の前なのに顔も見ることが出来ないんだ。
そう思うには十分な時間が経ってしまった。私の中学一年生は終わりを迎えていた。
彼を見なくなって二度目の春が過ぎた。
いつからだろう――。私の表面しか捉えていないような眼を感じ始めたのは。周囲からの過剰なほどたくさんの特別扱いに不快感を覚え始めたのは。
理由はわかってる。彼の姿が頭にチラつくから。
彼は私のことをちゃんと見ていてくれた。彼は優しかったけど、ちゃんと怒ってくれた。彼は特別扱いしてくれたけど、同じ目線で同じ場所に立ってくれた。
ダメなのに、もう忘れなきゃいけないのに――。そう思えば思うほど、彼に会いたくなってしまっていた。
ある日、一人で過ごせることが比較的多い図書室にいると、小学六年生の時に同じクラスだった女の子に話しかけられた。
「あ、あの……
話しかけられた時、正直驚いた。小学校の頃はほとんど話したことが無かったから。
「なに……?」
「……えっと……」
彼女から話しかけてきたのに、要件を口にしてくれない。
それでも話し出すのを待てたのは、いつも声をかけてくる人達とは眼が違っていたから。
「
もう誰も口にしなくなっていた彼の名が出てきて、私は動揺する。
「……会えてないけど……どうして?」
私の返答に、彼女は小さくないショックを受けた様子だった。
そして、震えた声で私の知りたかったことを訥々と語り始めた。
彼女とその友人を含めた三人が私を疎ましく思い、ちょっかいをかけようとしたこと。それを彼が偶然聞いてしまったこと。
私のために彼が怒ってくれたこと。
言い合っているところに
今になって、罪悪感に押しつぶされそうになったのだと言う。
全て話し終えた彼女は、何度も謝っていて。でも、それを許せるほどこの頃の私はもう優しくなかった。
人に対してあそこまで暗く、黒い、今にも暴れ出しそうな感情を初めて抱いた。
私から彼を奪った元凶の一つが、目の前にある。それだけで頭がどうにかなりそうだった。――でもそれと同じくらい、私は自分のことが許せなかった。
彼に守られておきながら、何も知らずに今日まで過ごしてきたことが。頻繁にやってくるあの人が一番の原因なのに、平然と会話をしていた愚かさが。
そんな激情に頭の中を支配されそうになっていたのに、それ以上に強い衝動が私を支配する。――彼に会いたい、と。
今の私にとって一番のすべきことだと、迷いはしなかった。
そう決めたら、目の前の彼女も、その他の人達も全てがどうでもよくなった。
私は席を立ち、彼女に一言お礼を口にする。私の知りたかったことをしれたことへの感謝だ。
その時の彼女がどんな表情をしていたのか、それこそどうでもよかった。
次の日曜日、彼の家を一年以上ぶりに尋ねた。
期待をしていなかったと言えば嘘になるけど、彼は部活で留守にしていた。
迷惑にならないようにと考えてお昼頃を選んだのが間違いだったのかもしれない。
前回と違って、私は彼に何があったのかを知っている。
奈々さんはそれに気付いてくれたのか、家の中へ招いてくれた。
玄関に上がると、とても懐かしい匂いがした。すぐ目の前の階段を上がれば、彼の部屋がある。
一目見たいと感じたけれど、今は我慢しようと心を強く保つ。
リビングへ入ると、懐かしい食卓テーブルに座るよう促される。
二人分のお茶をいれてくれた奈々さんは、私と向かい合うように座った。
あれから、奈々さんとはたまに顔を合わせることがあるくらいで、こうして面と向かってゆっくり話をするのは本当に久しぶりだった。
でも、私が緊張しているのは久しぶりというのだけが理由じゃない。私自身が、彼が辛い思いをすることになった要因の一つだから――。
何も言い出せずに俯いている私に、奈々さんは、
「さて、何から話しましょうか」
今までと変わらず、優しいままの声で話しかけてくれる。
泣きそうになるのをグッと堪え、私は彼がどうして別の中学校へ行ってしまったのか、それを知ったことを伝えた。
「……今更かもしれないです。……でも、ゆーくんが……悠斗がどれだけ大切なのか、やっとわかったんです」
「うん」
微笑む奈々さんは、まだ私に足りない、知るべきことを教えてくれた。
どうして彼が他の中学へ進学することを私に教えてもらえなかったのか、会えなくなった理由を知れなかったのか。
そして、今でも私のことを大切に想ってくれている、と――。
溢れる涙を止められなかった。ずっと、嫌われてしまったのだと言い聞かせてきたから。
「ねぇ、悠斗のこと好き?」
奈々さんの言う“好き”とは、どういう好きなのか。それはわかってるつもりではいる。
そうでなくても、聞かれればYESと即答出来る。なら、私の好きはそれなのだろうか。
そもそも、私が彼を好きになったのはいつだったのだろう――。
物心付いた時には一緒にいて、長い時間を過ごしてきた。
私の隣で彼が笑っている。そんな思い出でいっぱいだ。
それがとても愛おしくて、これからも彼の笑顔の傍に私が居たいと、そう思えた。
――自覚したのは今かもしれないけど、ハッキリと言える。
――私は今日までずっと、
「好きです」
――これからも、
「大好きです」
――これが恋だとわかってしまったから。
「こんな私でも、悠斗の傍にいたいと思っていいですか?」
「もちろん。あの子のこと、好きになってくれてあるがとう」
そう言って笑う奈々さんは、私の涙を拭ってくれる。
「ただ、今の悠斗は立ち直ってる最中だから、もう少しだけ待ってあげてくれないかな?」
以前にも同じようなことを奈々さんから言われた。その言葉を、私の弱さが最後まで信じ切ることが出来なかった。
今なら信じ続けられる――けど……、この気持ちに気付いてしまったら、待つというのは今まで以上に苦しいかもしれない。
内心では「だって、家目の前だし! というか私、今までよく家に突撃し続けないでいられたね!?」と叫んでいた。
返事をすることも忘れて唸っている私を見かねた奈々さんが「そうだ!」と声を上げる。
「悠斗に秘密で、同じ高校を受験しましょう!」
「え?」
唐突な提案に、私の頭は追いつかない。
奈々さんは私にもわかるように、熱く力説を始める。
「いい? 倖楓ちゃん。恋はね、戦いなのよ」
「……そうなんですか?」
「そうよ! 攻めて攻めて、油断しているところにさらに攻める! 弱っていたらもっと攻める! 容赦なんてせずに攻め続けるの!」
それは戦いというより特攻……強襲という方が合っている気がする。――でも、なんかいいかも。
「ちなみに、私はこれで旦那様を陥落させました」
「
この日から、私の中学時代は激変していった。
両親に受ける高校を伝え、まずは志望校が決まる。
現時点の成績をキープし続ければ問題ないだろうと先生にも言われたけど、何が何でも合格するため、すぐに受験勉強を始めた。
それからすぐのこと――。
「あの子、一人暮らしの願望があるみたいなのよ」
「え、それじゃあ、ここから一緒に通えないってことですか?」
不安になる私とは反対に、奈々さんは自信たっぷりに首を振る。
「一人暮らし先の近くに、倖楓ちゃんも住めばいいのよ!」
「なるほど!」
「なんだったら、費用はわたしが持ったっていいんだから!」
家に帰った私は両親に真剣に悠斗のことを伝え、奈々さんの提案を実現させたいと相談した。
お父さんは渋々ではあったけれど、お母さんの説得もあってなんとか許してもらうことが出来た。
ほんの少し先だけれど、夢が決まって、私の毎日が未来のための大切なものになっていった。
勉強だけじゃなくて、お母さんと奈々さんから料理もたくさん教わって、おしゃれについては明日香お姉ちゃんにみっちりと叩き込まれた。
そして、あっという間に中学生活が終わり、待ち望んだ日々を迎える。
予想外なこともいっぱいあったけれど、描いていた夢は概ね叶っていた。
――でも、それも昨日まで。
また、彼を酷い目に遭わせてしまった。
どうしてこうなってしまったんだろう。
どんなことがあっても一緒なら大丈夫だって思ってたのに、本当は私がいるから悠斗は……。
ずっと残っている罪悪感。
それを無くすために、離れた時間を取り戻そうと思った。
だから、幼い頃の愛称『ゆーくん』で彼を呼んだ。ゆくゆくは名前で呼べるようにと。
――でも、ダメだった。名前で呼ぼうとする度に怖くなった。口にする時は胸がチクりと痛んだ。
きっと最初から、私にそんな資格はなかったのかもしれない。
ずっと一緒に過ごせていたら良かったのに――。
一緒の中学へ進学して、お互いに愛称を呼ぶのを恥ずかしがって。一度は名字で呼びあうんだけど、そこまで他人のようにはなりたくなくて、名前を呼ぶようになる。
――そしていつか、気持ちを伝え合う。
そんな普通の時間を過ごせたら、どれだけ良かったのだろう。
暗い部屋で一人、後悔をし続ける。
「……悠斗って呼びたかったな」
こんな願いも、どこにも届かない。
――――――――はずだった。
「ただいま、倖楓」
現れるはずのない彼が、暗闇に光を差し込んだ。
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