なによりも――。
――その声が耳に届いた瞬間、
それが誰の声なのか、俺はすぐに気付くことが出来なかった。
最後に聞いた四年前――小学校六年生だった頃と違う、声変わりを経たそれを耳にしたのが初めてだったから――。
階段を目前に振り返った瞬間、俺の目に声の主の顔が映る。声とは違い、顔にはあの頃の面影がハッキリと残っている。
――どうして。思考がそのことだけに支配される。
どうしてここにいるのか、どうして声をかけてきたのか、どうしてまた出会わなければならないのか。どうして、どうして、どうして、どうして――。
そして、興味を失ったように俺から倖楓へ目を移し、そのまま正面側へ回り込んできた。
「それにしても久しぶりだね。この高校に進学するなんて知らなかったよ。言ってくれれば良かったのに」
ようやく衝撃からの硬直が解けた倖楓は、嫌悪の色を隠すことなく言葉を返す。
「……どうしてあなたに教えなくちゃいけないんですか」
「ヒドいなぁ、小学校からの幼馴染なのに」
「――あなたは違う!」
悲鳴にも似た、倖楓の拒絶。
「あなたはただ学校が同じだけだった人。私の幼馴染は彼――
俺の名前を口にするのと同時に握る力を強めた倖楓の手は、弱々しく震えて、酷く冷たかった。
滝沢は冷たい視線だけを俺へ向け、言葉は倖楓へ向ける。
「実は今日ここに来たのは同じ中学だった子に招待されたからなんだ。今は近くで待ってもらっててさ、どう? 懐かしい同じ中学のメンバーだけで周らない?」
大きな疑問が解消された。
誰のことかは知らないが、滝沢と同じ中学だった生徒から倖楓がこの学校にいることを知り、この文化祭に来たのだ。つまり、招待されたというより、招待させたという方が正しいだろう。その証拠に、声を掛けてきた時にこいつは「やっと見つけた」と言っていた。
どうやら、その中学が同じ生徒は小学校まで一緒ではなかったのか、俺のことまでは伝わっていなかったらしい。
――いい加減、会話の外に追いやられるのは気が済まない。
「悪いけど、倖楓も暇じゃない。諦めてお友達と周っててくれる?」
散々な目に遭わされた上、倖楓の顔を曇らせるこいつに怒りが溢れていたが、不思議と俺は落ち着きを取り戻せていた。
倖楓とのことを応援してくれる、たくさんの人の顔が浮かんでくる。さっきも激励されたばかりだ。――なによりも、隣には倖楓がいる。
「……お前には聞いてない」
隠しきれない苛立ちを纏った声だ。
「それなら、私からも言ってあげる。あなたとは――ううん、あなたのお友達とも、一緒に歩くつもりはありません。私の使える時間は全部、悠斗や大切な人のために使う」
倖楓の強い意志のこもった台詞に、滝沢が「ははっ」と乾いた声で笑う。
「もしかして、まだ知らないの?」
滝沢が何を口にしようとしているのか、考えるまでもなかった。
昔と同じように、嘲笑を俺へ向ける。
「言ってあげろよ。自分は女子だろうとすぐ手を上げようとする、どうしよもないやつだってさ」
――ずっと、怖かった。
信じてもらえないことをじゃない。
倖楓が責任を感じてしまうことが――感じていると知ってしまうことが。
それを取り除く術が、俺にはわからなかったから……。
「――知ってる」
倖楓の意思は揺るがない。
思った反応と違ったのだろう。滝沢は動揺しつつも続ける。
「なら、どうしてこんなやつと? 何か弱みを――」
「あなたがどれだけ狡い人か、周りの人がどれだけ酷かったのか。――なによりも、悠斗がどれだけ優しい人かも、全部知ってる」
今度こそ、滝沢は声を失った。
あの時、滝沢が大事にしなかったのは教員が関わってくることを避けたことが主な理由だったのだろう。でも、同じくらい大きな理由は、倖楓が俺のことを信じることだったのかもしれない。
滝沢の目論見は上手くいき、結果的に俺は倖楓から離れ、三年も時間を空けた。
――しかし、それだけの時間が経とうと、倖楓は俺のことを大切に想い続けてくれていた。
これが滝沢の誤算だ。
そして、俺にはあの時とは圧倒的に違う点がある。
「――滝沢。俺はあの頃とはもう違う。俺のことを信じて力になってくれる人がちゃんといる。それに、こうして今、倖楓が傍にいてくれる。だから、お前の言葉を信じる人間が何人いたって、俺にはどうだっていい」
俺の言葉に続けて、倖楓が一歩前へ出る。
「私も、あなたとあなたの周りの人のことなんてどうだっていい。興味も無い。――だから、二度と私たちの前に現れないで」
俺も言いたいことを言ったが、最後は倖楓に持っていかれてしまった。ほんと、敵わないよ。
滝沢の顔が怒りに満ちている――。
きっとこいつは、あの頃から今まで、何も変わらなかったのだろう。人より何事もうまく出来て、きっと大抵のことが思い通りだったのだ。
きっとその中で唯一、思い通りにならなかったのが倖楓だ。
小学生の”独占欲”で収まらず、中学生の”恋心”と呼ぶには歪過ぎた想いが、滝沢をここまでにしてしまった。
ふと、周囲からの視線が集まっていることに気が付いた。
傍から見れば、明らかに仲良く会話をしているようには思えなかっただろう。
倖楓と俺にあそこまで言われてようやくどうにもならないと認めたのか、俺と同じように周囲の様子に気が付いたのかはわからないが、滝沢が「くそっ」と小さく悪態をつき、その場を立ち去ろうとする。
しかし、滝沢は冷静さを取り戻したわけではなかった。ここがどういう場所か、頭から抜け落ちていたのだろう。
俺たちを避けるように横を通るのが嫌だったのか、最後の抵抗だったのか。目の前の倖楓を横へ押し退けて行こうとしたのだ。
普通なら蹌踉けるか、転ぶ程度で済んでいたかもしれない。――すぐ傍が、階段でさえなければ。
「きゃっ!」
身体が傾き、落下を始める倖楓の腕を、俺は咄嗟に掴む。
しかし、体勢を元に戻すにはもう間に合わなかった――。
「倖楓!」
俺は必死に倖楓を引き寄せ、自分が下敷きになるよう身体を捻る。――そこから衝撃を感じるまでは、一瞬だった。
何度かの衝撃が収まり、目を開くと踊り場にいた。胸の上には倖楓がいる。
どうにかクッションになれたらしい。本当に、間一髪というやつだ。
「……大丈夫か?」
俺の呼びかけに、倖楓が瞼を開く。
「う、うん。ちょっと膝擦り剥いたみたいだけど、他は痛くないよ」
「よかった……」
頭部を守れたなら、膝だけで済んだことは不幸中の幸いだろう。
「そんなことより、ゆーくんの方が大丈夫なの? 私のこと庇って落ちたでしょ!」
焦った様子の倖楓は、俺の上から飛び起きるように下りた。
俺も起き上がろうと、左手を床につける。すると――、
「い゙っ」
はじめて味わう感覚の痛みが、左腕に走った。ただの打ち身や捻挫の時とは明らかに違う。
起き上がり損ねた俺は、再び床に倒れる。
「ゆーくん!」
倖楓が俺の名前を叫ぶ頃には、続々と周囲の人が集まっていた。
いろんな人に大丈夫か、と呼びかけられる中に聞き慣れた声が一際目立って響いた。
「悠斗君!」
教室が近かったこともあり、すぐに駆けつけてくれたのだろう。
「意識はハッキリしている? どこが痛むか言える?」
こんなに動揺した茉梨奈さんを見るのは初めてだ。
それでも、どうにか冷静でいようと己を律しているように見えた。
「頭とかは平気です。身体はあちこち痛いですけど、左腕が一番です」
俺がスラスラと症状を伝えられたことに、茉梨奈さんもホッと胸をなで下ろしたようだ。
「私のせいで……」
瞳に大粒の涙を貯めて今にもそれが決壊しそうな倖楓が、両手でスカートをくしゃくしゃになるほど強く握っている。
「そんなこと――」
「大丈夫か!」
倖楓を安心させようとした言葉は、誰かから呼ばれたであろう男性教員にかき消された。
即座に茉梨奈さんが状況を的確に伝えると、念の為救急車を呼ぶという話になり、すぐに他の教員への連絡が始まった。
そこからの展開は、目まぐるしいの一言だ。
先に到着した看護教諭に改めて症状を伝え、それからすぐに救急隊員がやってきて、俺は担架へ乗せられた。
救急隊員が俺を連れて行こうとすると、倖楓が必死の表情で立ち上がった。
「あの! 私も――」
「ダメよ」
倖楓の申し出を止めたのは、他でもない茉梨奈さんだ。
「どうして!」
「行っても邪魔になるだけよ。それに、何があったのか説明出来る人が必要でしょう」
浴びせられた正論に、倖楓は何も言い返せない。
「今は私と一緒に待っていましょう」
本当は自分も行きたいのだ、と優しく倖楓の手を握る。
諦めが付いたのか、倖楓は俯いたまま動かない。
連れて行かれる前に、俺は倖楓へ呼びかける。
「――倖楓、大丈夫。またあとで」
「――っ」
顔を上げた倖楓の瞳からは、涙が止まらず溢れ出している。
話が終わるまで待ってくれていた救急隊員の人へお礼を伝え、俺はそのまま学校の外へ運び出されていった。
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