葛藤

 あれから、自分が少しは成長したと思っていた。―――でも、結果はああなった。今度は嘘なんかではなく、力で押さえつけた。


 幸いだったのは、目撃者が茉梨奈さんだけということだろう。この人が言いふらすような人でないのは考えるまでもない。


「俺を悪くないと言いましたけど、そんなことないですよ。…あの時も、今回も、いくらでも上手くやれたはずなんですよ」

「…完璧な人間なんて、いるはずないでしょう」


 たしかに、そんな人間はいないのだろう。でも、それでは駄目だと知っているから…。


 ―――べつに周りから好かれたいとか思っているわけじゃない。ただ、また倖楓の傍にいれたらと思った。


 そんな俺に警告をするような出来事が起こった。まるで「忘れることなんて許さない」と言われているように思えた。


「それでもですよ。…結局、どこまで行っても俺は、あの頃と変わらず無価値なままだと痛感させられました」


 俺は、もう自嘲して笑うことすら出来ていない。


「そんな風に、自分を卑下するのはやめなさい」


 茉梨奈さんが真っ直ぐに俺を見つめる。

 この人と目を合わせるのは苦手だ。俺の心を全て見透かされるように感じてしまうから。


 何も言えずにいる俺に、茉梨奈さんが言葉を重ねる。


「そういうのはね、あなたを大切に想っている人達を侮辱する行為よ。…その1人に私もいるということを忘れないで」


 こんなに熱を込めて話す茉梨奈さんを初めて見る。同時に、俺が大切だと思える人達の顔が思い浮かぶ。


「…すみません」


 ただ、「自分が良くないことをした」ということしか理解しないままに俺は謝罪した。


 それでも、やっぱりまだ自分への評価は変わらない…。


「いいわ。まだ自分の価値が無いと思うなら、また生徒会に入りなさい」

「え?」


 思いもよらない勧誘に驚いた。いや、実際に中学の時は茉梨奈さんに勧誘されたが、高校でもされるとは思っていなかった。


「そんなこと考えられなくなるくらい、こき使ってあげるから」

「えっと…」


 急にそう言われて、「わかりました」とはすぐに答えられない。そうでなくても、今は考えることが多すぎて頭がパンクしそうだった。


「9月の選任までに考えておいて」


 9月には生徒会選挙がある。うちの高校は生徒会長を選挙で決め、他の役員は会長が選任する決まりだ。


 茉梨奈さんは生徒会長になる気のようだ。今は副会長を務めているし、会長に当選するのは間違いないだろう。


 どうやら本気の勧誘らしい。


「…考えておきます」

「そう」


 俺の答えに満足したのか、茉梨奈さんはいつもの調子に戻ってカップに口をつけた。




 もうすっかり日も暮れていた。


 俺は茉梨奈さんを改札まで送ってからマンションへ帰った。

 ドアを開けて家に入り、


「ただいま」


 1人暮らしだというのに、未だに帰宅の言葉が抜けない。


 ドアを閉めたところで違和感に気付く、部屋の奥からいい匂いが漂っていた。―――原因はすぐにキッチンから現れる。


「遅い!」


 エプロンを着けた倖楓が、怒った顔をキッチンから覗かせた。


 一瞬、どうして倖楓がここにいるのかと疑問に思ったが、自分で夕飯の準備を頼んだことをすっかり忘れていた。


「…あ、ごめん」


 目を背けてしまった。―――今、倖楓を目にするのは少し辛かった。


 すると、すぐに間隔の短い足音がしたかと思ったら、俺の手が握られた。倖楓の手がすごく温かく感じる。


「心配だった…」


 倖楓の顔を見なくても、暗い表情をしているであろうことがわかった。


 それもそうだ。呼び出しの場を目の前で見ていたのに、それから全く連絡が無かったら気になるに決まっている。これは全面的に俺が悪い。


 俺は、これ以上心配させないように笑顔を作る。


「サチ、本当にごめん。…でも、大したことじゃなかったから」


 自分がちゃんと笑顔を作れているかわからない。とにかく悟られたくなくて精一杯だ。


 ―――突然、倖楓が俺の胸に勢いよく抱き着いた。俺の背中に回された手は、強くブレザーの背を握っている。


 言葉が出ない。「こうしてちゃいけない」と思う自分と、「こうしていたい」と思う自分がぶつかっている。


 今度は倖楓の表情を見ようとしたが、額を俺の胸につけていて見えない。―――この子は今、何を想っているのだろう。今の俺にはそれすらも聞けない。


「…まる」


 倖楓が何かを呟いたようだったが、聞き取れなかった。


「何て言ったの?」


 倖楓は顔を上げることなく、


「…


 とだけ言う。


 いきなりのことで、俺には何のことかさっぱりわからない。一体、何がというのだろうか。

 理解出来ずにいると、倖楓が顔を上げて俺の顔を見る。


 少し泣きそうな表情で、


「私、今日!」


 と宣言してきた。


 やっと「とまる」を理解出来た俺は慌てて、


「いや、サチ…」


 ハッキリと拒否も出来ず、名前だけを呼ぶ。


 それだけでも俺が乗り気じゃないのが伝わったのか、今度は頬を俺の胸につけた状態で、


「いやっ!泊まるの!」


 さっきよりも腕の締め付けが強くなる。


 どうしたものかと俺が考えていると、倖楓の体が少し震えているのがわかった。それに気付いたら、許す以外に選択肢が無いように思えてしまう。―――しかし、俺の頭に今日の出来事がよぎる。


 ―――今の俺が、その選択を取れるような状態ではないと理解する。


 俺は、倖楓の頭に手を添えて、


「…ごめん、今日はダメだ」


 倖楓の締め付けがさらに強まる。


「…私が泊まるの、嫌?」


 絞り出したようなその声に、心までも締め付けられる。


「違う、サチが悪いとかじゃないよ。ただ…俺の問題でさ…」


 倖楓は動かず、何も言わない。俺はただジッと倖楓を待つ。


 何秒経ったのかもわからないくらい待つと、


「…わかった。今日はやめる」


 なんとか納得してくれたようだ。


 倖楓の気分を変えるためにも、俺は次にやる事を倖楓に提案する。


「夕飯、まだ出来てないんだよね?俺も手伝うから、キッチンに戻ろうか」


 また倖楓は動かない。さらに時間が必要かと思ったら、


「…あと5分」


 答えは早かったが、現状を5分キープしなければならなくなった。

 さすがに、これまで断れないと諦めて待つ。


 お互いに何か言うこともなく、静かな空間。しかし、俺の頭の中は騒がしかった。


 ―――倖楓と保健室で交わした約束を破りたくはない。でも、やっぱり自分が倖楓の傍にいて良いとも思えない。


 そんな葛藤がずっと続いている。

 俺は、自分がどうするべきなのか、わからなくなってしまった。

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